王子サマは明るく笑う
この話以降、一人称になります。
俺のご主人様は王子である。
王子にありがちなわがままで大変な気分屋だ。身分は高い。
だがそれだけである。彼は十三番目の王子なので仕事が何もない。十二人の兄姉たちがしっかり働いているので彼には何のお鉢もまわってこないのだ。毎日気ままに過ごし、質素な自室で趣味に没頭している。
そんなだから城で働く者たちは彼の存在をほとんど知らない。名前もすぐに出てこなければ、顔を見ても王子と気づかない。兄姉たちも気にかけないので彼はつまるところ城全体から忘れ去られた存在なのだった。
そんな彼がどうして俺の主人なのかって? 俺だって聞きたいよ!
初めは書記官の見習いになるはずだったのに、奴と出会ってやたらと懐かれてしまった。
それを見た現書記官が一言。
「貴方のお仕事がたったいま決まりました。ゼランダ様をよろしく」
ってーかそんな! 簡単に職種変更されても!
どう訴えても書記官は聞いてくれなかった。
ゼランダってのがくだんの王子の名前で、その彼が俺をひどく気に入ってしまっているのだから仕方がない。それでいまにいたるわけである。
このうっとうしい王子サマから逃れたくて、毎度毎度脱走を試みるも失敗ばかり。
暇ボケ王子はやたらと鼻が利くうえにかなりしつこい。そして実は寂しがり屋だ。
俺を見かけないとすぐにおろおろと捜しまわる。
「私の宝物……どこにいる? 私の宝物……」
と、こんなふうに。
「ああ、こんなところにいた」
って、しまった! またみつかった!!
両肩にぽふ、と重みがのったかと思うと、銀色の髪がしなだれ落ちてきた。
「やっとみつけた。私の宝物」
頭の後ろで柔らかい声がそう呟く。
「……つーか苦しいんですけど! ぎゅーってすんな、ぎゅーって!!」
寂しがり屋の王子は両腕で俺の首にしがみついていた。
「朝から見ないからすごく心配したんだよ。何をしてたの」
王子サマは首根っ子に縋りついたまま訊いてきた。
俺は何とか彼を引き離そうともがくが体格の差はしょうがない。俺は十二で王子サマは二十四なのだ。
「やっと書記官がまともな仕事をくれたんだよ。邪魔すんな!」
離せ~と呻きながら、細っこい相手の腕をようやく一本引き剥がす。
「まともな仕事? 名簿写しがかい?」
きょとんとした顔が机の上の書類を覗きこむ。
俺はいま書記官の私室の隣に設けられた小さな部屋で、王子サマが言う通り名簿の写し替えをやっているのだ。
「雑用だっていいたいんだろ?」
俺がむっとして綺麗に整った血の気のない白い顔を睨むと、王子サマはううん、と首を振った。
「それ、もうやっちゃったんだよね」
「……は?」
俺はもう一本の腕を引き剥がそうと躍起になっていた両手を止めた。
「この前、すっごくすごく暇でやることがなかったからさ、エルランドの書庫まで遠出して、一日そこで過ごしてたんだ。そしたらやりかけのそれをみつけたから」
だからやっちゃったと。
じわじわと俺の中でやり場のない怒りと、脱力感がこみあげてくる。ふっと肩の重みが消えて、王子サマが動く。
「え~と確か、ここに……ああ、ほらあった! これだよ!」
嬉しそうにソレを手に王子サマは戻ってきた。
俺の後ろにある棚の上の、山と積み重なった書類のてっぺん――わりと見つけやすい場所にソレはあったようだ。
「……これ全部?」
俺の前に差しだされたそれは結構な厚さの束になっていた。
これを一人でやり遂げるには、一体どれくらいの時間がかかるんだろう。想像したくもない。
「うん。楽しかったよ。これだけで一週間は暇をもてあまさずにすんだしね」
にっこりと王子サマは笑った。逆にその正面で俺は顔を引きつらせていた。
目の前の書類の束は、ゆうに拳一つ分の厚みはある。今日の仕事として言い渡されたから、そんなに大した量じゃないと思ってたのは甘い考えだったみたいだ。これを全部やらせようと思ってたらしいエルランドにいまさらながら腹が立ってきた。どうみたって新米の見習い少年一人でやり遂げられる量ではない。
「くそ……またはめられた」
嫌味に笑うエルランド書記官の顔が脳裏に浮かんでくる。
あの人はこの王子サマと同様、俺をかまって楽しんでいる。何でもいいから仕事をくれとせがんだ俺に、とうてい終わらない厄介な雑用を押しつけてくれたようだ。しかも、ほんとはやらなくてすんだはずの仕事だ。
彼はこの暇人王子がその作業を終えていることを知っているんだろうか、知らないんだろうか。前者は出来れば考えたくない。そこまでおちょくられているのはいくらなんでも悲しすぎる。
「私がこれを終えてしまってるってことは、もうジオに仕事はないってことだよね」
にっこりと笑いかけられて、俺は脱力した。
どうやら今日もこの能天気サマと一緒に過ごさなければならないらしい。
「………今日は何をするんだ?」
この間は庭園に茂る雑草の種類とその数を調べ上げ、表にまとめるといったまことにこの上ない徒労をさせられた。
その前は王子サマの部屋でえんえんと本の朗読をさせられた。全部彼は読んだことがあるもので、ちょっとした読み間違いを鋭く指摘するものだからやりづらい上にいらついた。
細部まで覚えてるんなら読ませるな!と怒鳴ったところで彼贔屓のエルランドが入ってきたから大目玉を食らった。
曰く、「王子に向かって怒鳴るとは何事です、敬語を使いなさい! 子供だからって容赦はしませんよ!」
はあ……。と嫌なことばかりを思いだしてため息をついたところで、
「今日は騎馬隊の練習を見に行こう。よく晴れてるし、さっき訓練場の方からかけ声が聞こえたから」
王子サマはご機嫌な様子でそう言った。
騎馬隊の練習とは、この能天気サマの部屋のある棟からそう離れていないところに訓練場があって、良くそこで彼らが練習しているのだった。こうして彼がその練習を見に行く、と言いだすのはこれが初めてではない。
「……騎馬隊ねえ……あんたも好きだよな」
俺はじいっと銀色の瞳を見つめ返した。
「何がかい?」
小首を傾げて聞き返す様子には微塵の偽りも感じられなくて、俺は肩をすくめる。
「騎馬隊がさ。やっぱり馬に乗ってみたいとか思うわけ?」
本当はなぜ彼が練習を見に行くのか俺は知っている。たぶん、本人でさえ気づいていないそれ。
「そうだね。城から出るのさえままならない身体とはいえ、憧れるなぁ。馬に乗って草原を駆けたら、どんなに風が気持ちいいだろう」
ふっと夢みるような表情で、彼はそう呟いた。
この王子サマは生まれつき身体が弱く、幼い頃から室内だけで過ごしてきたらしい。庭園などに出られるようになったのは二十歳を過ぎてからだそうだ。そんな彼が颯爽と駆ける馬に乗ってみたいと思うのも当然のことなのかもしれない。
「行くでしょう? 私の宝物?」
王子サマはぐいっと顔を近づけて、笑顔で聞いてきた。
「しょうがねえなあ……」
どうせ仕事がないなら、お役目務めなければまたエルランドに叱られる。
何たっていまの俺の正規の仕事はこの暇人のお守りなのだから。
「最高だよ、私の宝物!」
喜びを隠しもしないで二十歳をすぎたいい大人が感情のまま俺に抱きついてくる。
今度は正面からで、俺の視界は彼の胸で真っ暗になった。
「離れろ! うっとーしい! っつーか俺はモノじゃねえ!!」
俺の雄叫びは空しく相手の胸へくぐもって響いただけだった。
そんな俺を、よしよしと頭を撫でて宥めながら、王子サマは明るく笑う。
「大好きだよ、私の宝物」
いつもの台詞を吐きながら。