プロローグ
※序章のみ三人称になっています。次話から一人称に変わります。
あいつと会ったのは秋も終わりの肌寒い早朝。
はらはら落ちゆく紅葉の中で、あいつはひとりそこにいた。
細い体を丸めるように、冷たい石のベンチに座り、
他に誰もいない庭園の中、その姿はひどく孤独だった。
ときおり風になびく長い銀糸の髪が印象的な、儚い存在。
それが俺が初めて見たゼランダの姿だった―――。
++ ++ ++ ++ ++ ++
「あそこが厨房。その向かいが貯蔵庫。この廊下をまっすぐ行くと厩の方へ出ます」
すらすらと淀みなく案内を進めるのっぽの青年の脇で、ジオールは熱心にそれらをメモに取っていた。
早朝の冷たい空気に手がかじかんで、思うように指先が動かないのがもどかしい。
朝しか時間がないからと、まだほとんどの者が起きだしていない中、ジオールは青年に城の案内をされていた。
「ここらへんは城仕えの中でも特に下級の者たちが生活しています。雑多な仕事が多いので年じゅう人であふれかえっていますよ。まあ、城内執務見習いの君にはあまり縁のない場所ですが……」
のっぽの青年――たしかエルランドといった――は少しだけ嫌味っぽく笑った。
元服もしていないジオールが、書記官見習いなどという大層な位置に収まっているのが彼にとっては面白くないらしい。
確かにジオールはまだ十二歳で、さらに言えば一応身分も貴族であるが、家は財産も領地もほとんどなく、ぎりぎり貴族と名のっているような状態だ。それでも城での仕事に就けたのはひとえに先日亡くなった祖父の実績があってこそ。
この秋あっけなく病で死んだ祖父は、王の諮問機関である枢密院で書記官長を務めていた。
家の次男であった祖父は、早くから城で働きはじめていたらしい。やがて兄が結婚することもなく病で亡くなり、家督を継いだ。そののちも厳しい家計を支えるため、領地の管理を家令に任せ、自分は城で働きつづけた。子を設ければ早々に家を継がせ、一心不乱に働きつづけた彼は気づけば枢密院書記官長になっていた。
国王にも気に入られるほどその人徳は厚く、書記官長としての才も優れていた。皆に慕われていたことは弔問客の数で明白だった。
その彼の臨終願いで、いまジオールはここにいるのだった。
「君の家も大変ですね。当主がわずか十二歳の少年だとは。ヘイラー卿もさすがに息子夫婦を共に失うとは思ってもいなかったのでしょう。君は常人の何倍もの速さで物事を学ばなければならないわけだ」
城仕えをしつつ学び、元服したら当主としてヘイラー家を継ぐ。それがジオールの人生路線図だ。
言外に書記官になるわけではないんだろう、とよこされて、それには気づかずジオールは答えた。
「ええ。とっても大変だろうけど、頑張ります。祖父の願いですから」
決意かたく頷く少年に、エルランドは気勢を殺がれた。あまりに実直だと揶揄する意味もない。
つまらない、と彼がため息をついたところで、後ろからその彼を呼ぶ声がした。
「エルランドさま。長官がお呼びです、すぐにお戻り下さい」
気の弱そうな細身の青年が、ぱたぱたと忙しげに二人のもとへ走りより、開口一番そう言った。
「えぇ? もう来たのか……まったく、あの人は朝が早すぎなんですよ」
「昨夜はそのまま執務室にお泊りになったので……」
「だからって他人までつきあわせていいってことにはなりません」
「申しわけありません……ただ、長官もエルランドさまならこの時間にいるはずだとおっしゃりまして……」
はぁ、とエルランドは深く息を吐く。
「どうせ午後の会議のことでしょう……わかりました、すぐ行きます」
二人のやり取りを黙って見ていたジオールに、エルランドが向き直る。
「すまないね、ジオール君。どうやら戻らねばならないらしい。案内は大体し終わったから、君はゆっくり庭園でも見ながら戻ってきてくれるかな。では先に失礼するよ」
そう言い残してエルランドはさっさと遣いの男と共に石畳の上を足早に戻っていってしまった。
「………戻れって、それ以前にいまどこにいるのかすらよくわからないし!」
すっかりエルランドの背中が見えなくなったところで、ジオールはかぶっていた猫を脱ぎ去り、声高に叫んだ。
嫌味には気づかずとも、人を見下したような物言いには苛立ちを覚えていたのだ。
「あー、やってられない! こんなとこさっさとやめてぇー」
ジオールが頭を抱えてしゃがみこんだとき、かすかに人の咳きこむ音が聞こえた。
はてな、と思って顔をあげるが、どこにも人の影は見当たらない。
「庭園……とか言ってたよな」
エルランドの言葉を思いだして、ジオールは立ちあがる。
厩の方、と案内されたのとは反対の方向へ少し行くと、柱の影から紅い色があふれだした。紅葉した木々の葉が、優しい風にひらひらと揺れている。思わずジオールは感嘆のため息をついて立ち止まった。
「すげえー……。もうこんな季節なんだな」
祖父が亡くなったのはまだ秋風を涼しいと感じる時分だった。いつのまにか月日は流れているのだということを、目の覚めるような鮮やかな紅葉に教えられる。
しばらく佇んでいたら、また咳が聞こえた。今度はずいぶん近い。
いかにも苦しげな咳きこみように、ジオールは石造りの廊下から庭園へと踏み入った。ゆうに背丈を越えた木々の間を縫って、咳の聞こえてきた方へ進むと、ようやくそこへ人影を見つけた。
ところどころ苔むした石造りの座台に座り、背中を丸めて屈みこみんでいる。
その顔を隠す銀色の髪は腰まで届き、ときおり風に揺れながら朝露のように小さく光った。
着ているものはあまり見かけない形で、深緑の縁取りをした白い長衣を羽織っている。豪華とまではいかないが質素ともいえない、それなりに上質の衣だった。
だがここらへんには下級の者しかいない、と先ほど教えられたばかりだ。
ということはこの人もそうなのだろうか。それにしてはこぎれいな雰囲気をまとっている。どちらとも取れないがとりあえず、ここにいるってことは凄く身分が高いわけではないはずだ。
そう思ってジオールは一歩踏みだした。
「大丈夫か?」
声をかけると相手はわずかに肩を揺らした。ゆっくりとその顔があらわになる。
気だるげにこちらを向いたその人は、なんとなく予想はしていたが、これまで見たこともないほど整った顔立ちをしていた。
「ああ……起こしてしまいましたか? すみません」
ぼんやりとした表情が、何かに思い当たったように少しだけ瞳を大きくした。
「ちげーよ。大丈夫かって訊いてるんだ。咳きこんでたろ?」
すたすたと相手のもとまで歩いていって、ジオールは隣に腰かけた。
「苦しいのか?」
ジオールは何気なく問いかけた。咳きこみようがちょっと普通じゃなかった気がしたのだ。もしかしたら何か病を持っているのかもしれない。
そんなジオールの問いに、相手――よく見ると青年のようだ――は少しだけ驚いた顔をした。
「……大丈夫です。ありがとう」
青年はどこか呆然とした様子でじっとジオールを見る。
何だか煮えきらない反応に、ジオールはつい口調を荒げた。
「人の話ちゃんとわかってる? 苦しいなら苦しいって素直に言えよ」
睨むようなまなざしの先で、銀髪の青年はとまどった表情を浮かべた。が、すぐにその眉間に皺が寄って――、
ごほっごほっ
盛大に咳きこみはじめた。
「ほ~ら~! 言ってる側から! 全然大丈夫じゃねえじゃん」
ごほごほっごほっ
「おいおい、平気か? 背中さすろうか?」
ごほっごほっ
「…………」
青年の咳は全然おさまる気配がない。どころか段々激しくなっていく。
そのうち額にうっすらと冷や汗をかきはじめた。それを見つけた途端、ジオールはすうっと背筋が寒くなった。
「………人呼んでくる。待ってろ!」
嫌な不安がむくむくと育つ。祖父の死に際も、あんな風に苦しげに咳きこんでいた。
もう目の前で誰かが死ぬのは嫌だ。何も出来ない自分が憎くなる。無力感に打ちひしがれながら、相手が苦しみの内で命を手ばなす瞬間を、ただただ、見ているしかない。
あんなのはたくさんだ!
さっとジオールが立ちあがり、人を呼びに走りだそうとしたそのとき。
ぐっと、服の裾をつかまれた。
「……いか……ないで」
かすれかすれ、弱弱しい声が背後でした。
振り返るとまだ咳を引きずりながら、青年が顔を歪めてこちらを見あげていた。
「んなこと言ったって! 俺なにもできないよ……」
ぜえぜえと肩で息をしながら、それでも青年はつかんだ裾を離そうとしなかった。
まるでひとりにされるのが怖いみたいに。
置いてかれるのが恐ろしいみたいに。
こんな朝っぱらからここまで咳きこむ人間が、なんでひとりきりで庭園になんかいるんだろう、と。
ジオールは朝日にきらめく銀色の髪を見つめながらひどく悠長なことを考えていた。
そのときまた青年が激しく咳きこんだ。
「……っおい! あんた……っ」
思わずジオールはその肩をつかむ。青年はぐっと目を瞑って苦しみに耐えている。
それを見た途端、祖父の死に顔が脳裏を横切った。
「やだよ! 死ぬな! 死ぬなよっ!!」
突然湧きあがった恐怖に、ジオールは青年にしがみつく。相手の頭を抱きこむようにして、小刻みに震える体を必死に抑えた。
ジオールの腕の中で、青年が身を固くする。
急に咳が止んだ。
「………?」
恐る恐るジオールは顔をあげ、青年を見下ろすと、彼は先ほどよりもさらに驚いた顔をしていた。
頭の中が真っ白になったみたいにぼうっとした表情。
「……はは………」
不意に青年が声を発した。ジオールはそれが笑い声に聞こえて、眉をひそめた。
「あはは……ふふ……ははははは!」
今度は間違いなく笑い声だった。急に笑いだした青年に、ジオールはさっきとは違う寒気を感じた。
もしかして、気が触れたんだろうか。
一歩後ずさりをしたところで、青年が笑うのをやめた。というか、また少し咳きこんだので笑っていられなくなったのだ。
「……ばか! 急に笑うからだ。少し落ち着けよ」
ジオールが声をかけると、青年は苦笑顔で少年を見あげた。
「ごめんなさい。それからありがとう……すごく、嬉しかったよ」
「……は?」
青年が何に対して嬉しいと思ったのか、ジオールにはわからなかった。でも、見る限り目の前の青年は心底幸せそうな顔をしていた。
「やっと見つけた………私の宝物」
青年が呟く。囁きのように、それはとても小さくて、ジオールには聞こえなかった。
じっと見つめてくる瞳は、ずいぶんと穏やか。
苦しげだった表情も、だいぶ咳がおさまったためかうっすらと微笑を浮かべている。
「…………なんなの、あんた」
脱力した身体は、すとんと彼の隣へ座りこんだ。
こんなわけのわからない人間は初めて見た。もう咳はおさまってしまったらしく――なんでおさまったのか皆目不明だが――こっちが思いっきり心配したのが馬鹿みたいだ。
嫌な疲れが押し寄せるのとともに、ようやく頭がまともに働きはじめる。
ジオールは青年を振り返った。
「ところでさ、……あんた誰?」
それに対して青年は、口元に笑みを浮かべて嬉しそうに「ふふ」と笑っただけだった。
さらにジオールが脱力したのは言うまでもない。
※一部呼称を修正しました。内容には影響ありません。