井戸の底にいるもの
トラックはうなりを上げて発車した。2月の深夜なのに額からは汗が流れ、寒いのか熱いのかよくわからなかった。信号が赤なのか青なのかも分からなかった。
なぜ忘れていたのだろう。嘗ての私は恐ろしく冷血な人物だったとでもいうのか。そんなことはないだろう、私は根っからの小心者なのだから。現に今、居てもたってもいられない気持ちで車を走らせている。しかし、このようなリアルに胸を締め付けられる感覚はかつて経験したことがない。そんな事実はなかったのか。いや、そうは思えない。とにかくあの場所に行かなければ。私はさらにスピードを上げた。
昔よく遊んだ神社の境内には井戸があった。その井戸の中に、でかい蛙がいると言って嘘をついたことがあった。井戸は重いコンクリートの蓋で覆われていて、蛙がいようといまいと確認のしようがなかった。普段から閉鎖されていて、誰も見たことがない井戸の中に、もし蛙が居たら面白いだろうなという想いからだった。ほとんどの友人は「へー、そうなんだ」くらいのリアクションをとって終わりなのだが、それを看過せずに真相を明かそうとした奴がいた。それは、たまに神社に遊びに来る少女だった。同い年くらいの子だったが、どこの誰だかは知らなかった。彼女は、大人の力を借りて井戸の蓋を開けた。後日、蓋の開いた井戸を指さして、これみよがしに「蛙どこにいるの?」と私に言ってきた。蓋を開ける前から蛙などいないと知っていた、彼女の嘲るような目と、そういう演技じみたやり方に激しい憎悪を抱いた。白々しく「底のほうに潜っているのかしら」と言いながらいつまでも井戸を覗き込んでいるふりをするものだから、両足を救い上げて底に転落させた。キャっという短い奇声と水面を打つ音の後、彼女はしばらくは断末魔のような叫び声を上げていたが、やがてそれも弱弱しく衰えていった。私は自分でも驚くほどの力を発揮して、重いコンクリートの蓋を一人で持ち上げると、うめき声のする井戸に蓋をした。