表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

一 思い出した

 「記憶力がいい」と言われたことがある。昔の話になると、不思議なくらい細かいことまで覚えている自分がいた。しかしそれは若いころの話で、三十代の後半からは人並みか、ともすれば人より覚えていないということが増えてきた。今、六十という年齢を迎え、自分が認知症ではないかと疑うくらいあらゆる記憶が曖昧にぼんやりとしだした。昔の記憶どころではない。ついさっき取った行動でさえ思い出せずに、しばらくぼーっとしていることがあるのだ。


 ある日、私は病院に行って、次のように言われた。

「特に異常は見受けられませんが、少しお仕事を休んではいかがですか」


 高校を出てすぐに家業を継ぎ、木工職人になった。来る日も来る日も家具や築材を作り続け、今では手が勝手に動く。設計図は確認のために見るが作業途中に二、三度みれば、後は見ない。そうして出来上がったものは設計図以上に正しいものになる。匠とはなんなのかわが身を持って知るに至った。こう言うと奢っているように思えるかもしれないが。しかし奢りに見合うだけの仕事をしているのだから私の場合は問題ないと自負している。マネージメントはさっぱりだったが、今では息子が精力的にこなしているから安心して任せられる。私は本当に黙々と作業していればいいのだ。仕事においては辛いことなど何もなかった。それは無心で呼吸をしているようなもので、工房に入ってから18時に仕事が終わるまで、まるで時間の感覚がない。私にとって家業こそが天職だったのだろうと強く思う。


 ところが医者はその仕事がストレスの元だと言うのだ。

「まったく医者ってのは適当なもんだよ」

私がそう言うと息子は、ワンテンポおいてから見据えるような目で言った。

「親父は働き過ぎだ、医者が言うことにも一理ある」


 その日からひと月、工房への出入りを禁止すると息子夫婦に言われ、私は困った。今までの私には休日がなかった。忙しいから切羽詰っているから、そんな事情はなかったが、ただ他にやることがないので休日にも工房で自分の好きなものを作っていた。それが出来ないとなると何をしたらいいのか分からない。パチンコに行ったり、釣りに行ったり、ミニシアターにも入ってみたが間が持たない。かと言って他にやることも思いつかない。いや、思いついたとしてもやろうと思わないのだ。歳をとると頑なになると言うがその通りだ。経験に閉じ込められるとでもいうか、通ってきた道を踏み固めていくうちに、失敗することや知らなくて恥をかくことに強く抵抗を感じるようになるのものだ。しかしそれは大抵の人が通る道であって、わざわざ反省したり見直すような類のものではない。私のような職人は尚更だ。私は何日も同じ行動を繰り返していた。


 初期の認知症には幼少期の回想が効くと聞いて、子供の頃の写真を見るのだがピンと来ない。親父と川下りをしたらしいが、そんな記憶はない。どこの川だろう。他の写真では少年野球のユニフォームを着て、友達と二人並んでピースサインをしているが、果たして俺は野球をやっていただろうか、私の隣にいるこの少年は誰だろう。写真を繰っていくうちに一枚だけ引っかかるものがあった。もやもやとした感覚が襲って来たが、思い出すには至らない。これはいよいよ重度だな。そう思って重い気持ちになった。


 その夜の寝入りに、私は怖い夢を見た。最初、井戸の横にしゃがんでいる少年がいて、それを私が見ている。そう言えば、これは写真の光景と同じだ、だとしたらこれは私だと思った瞬間、額から脂汗が流れてきた。私は走り寄って井戸の上の重く平たいコンクリートを持ち上げた。この下だ。この下におぞましいアレがいる。


 目を覚ました私は、コートを羽織ると家を飛び出した。あの井戸だ。あの井戸を今すぐ確認しなければならない。私は人殺しかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ