肆:『橋姫』 ~後~
事件発生から三日たち、ある程度被害者について調べてきていた阿弥陀が、事件内容について三姉妹と拓蔵に報告していた。
「発見されたのは橋の真下だったんですか?」
「ええ、浅葱橋のちょうど繁華街側の川岸で遺体が見つかったんですよ」
「第一発見者の証言では、斜め上から見んと気付かんところにあって、最初は人形が流れ着いているものだと思っちょったらしいんですよね」
西戸崎という、しかくい顔をした、焼けた肌の男が云った。
「まぁ、普通考えたらあんな賑わっている場所に死体があるなんて思わないわね」
「それで被害者のことを調べてみたら、奇妙なことが分かったんですよ」
「奇妙なこと?」
弥生が首をかしげ、阿弥陀を見やる。
「実は殺された二人は去年まで付き合っていたんです。まぁ二年ももたずに別れてますがね」
「いやそこは奇妙でもなんでもないでしょ? てっきりなんか共通して怨みをかわれていたのかと思ったわ」
弥生は肩を竦める。
「それがなぁ、堂本敦が殺されたと思われる金曜日の夜十時頃、浅葱橋近くのホテル街で女性と歩いていたという目撃証言があったとよね」
「殺された女性とじゃないんですか?」
皐月がそう言うと、西戸崎は首を振り、懐から写真を取り出した。
みつあみをおおきく作った髪を前に垂らした、黒真珠の耳飾りの女性の姿が写されている。
「『飯島紗栄子』二二歳。発見された浅葱橋がある町役場の環境清掃部に所属している女性なんやけど」
写真を見るや、皐月は大きく喉を鳴らした。
「この人、遺体が見つかったっていう日曜日の夕方にうちでお参りしてた人だ」
「ほんとうですか?」
身を乗り出すように阿弥陀は皐月にたずねる。
「顔はベーレで隠れていてはっきりとは分かりませんけど、でも髪型はちょうどこんな感じにまとめてましたよ」
「みつあみくらい珍しくないでしょ?」
弥生の言葉に、皐月は不服な目を向けた。
「一応確認はしてみますよ。で、その飯島紗栄子は神社でなにを?」
「縁結びの御守を買おうとしていたらしいです。売店がないって知るとさっさと帰っちゃいましたけど」
「うちって名前的に農業の神様を祭ってるんだけどね」
弥生は拓蔵に目をやる。
「それで皐月はその飯島紗栄子を見てどう思ったんじゃ?」
「どう思ったって――」
皐月はすこし考えると、
「ちょっと妙な感じがしたなぁ。喪服で来るのはどうも場違いっていうか、帰った時も鳥居を潜っていたし」
そう答えるや、拓蔵はちいさく息を吐いた。
「別に可笑しくはないやろも? 神社の入り口に鳥居があるのはしかたないやろうし」
「いや西戸崎くん。飯島紗栄子は喪服を着ていたんですよ」
「それがどうかしたとね?」
首をかしげるように、西戸崎は聞き返した。
「普通喪服で連想するのは、その日かその前に葬式があった。皐月が気になったのは、被害者が鳥居を潜ったってことなんです。葬儀があったあとの五十日間は忌中と言って、神社にお参りしないように努める習わしが日本にはあるんですよ」
弥生がそう説明すると、西戸崎は怪訝な顔付きで、
「はて? 俺が知っちょるのは一年やったはずじゃけどな」
と聞き返す。
「場所場所によって違うんじゃよ。神道では葬儀の後の五十日間を『忌の期間』と言うてな、それ以降にお参りをしても差し違えはない」
拓蔵はそう言いながら、写真に目をやると、
「ところでひとつ聞きたいことがあるんじゃが?」
ジッと覗き込むように、阿弥陀にたずねる。
「なんでしょうか?」
「清掃船が動いておるのは夜中もか?」
「いえ、一ヶ月に一回らしいですね。観光名所的な考えで日中に行っているようです」
阿弥陀は肩をすくめる。
「爺様、なにか気になることでもあるの?」
「発見された場所が場所なんじゃよ。あそこは都市開発で堀から川になっておるんじゃがな、元々は水深十メートルもある溝川で、普段は危ないからと清掃船以外での出入りはできん」
「つまり、犯人はその清掃船を使ったってこと?」
「清掃船やったら夜中に動いちょっても、そんなに気にならんな。たしかあそこら辺はゴミの収集が夜にやっていたはずやろうし」
西戸崎はちいさく唸る。
「飯島紗栄子なら可能ってこと?」
「環境課に勤めておるし、ちょっと工夫すれば清掃船を動かすことも可能じゃろ?」
拓造の言葉を聞きながら、
「でもその二人は違う時間に殺されたんだよね? でも発見されたのは同じ場所……妙な感じがするんだけど」
皐月は納得のいかない表情で言った。
「妙なって、なにが?」
「先に殺された堂本敦の遺体をどこに隠していたよ。推定時刻が倍以上も違うのに、同じ場所で遺棄するってことは――」
皐月の言葉をさえぎるように、
「ちょっと待て? それじゃぁ犯人は死体を近くに隠していたということか?」
西戸崎が驚いた口調で聞いてきた。
「でも一番気になるのはふたつの遺体を同じ場所に遺棄したことなんですよ。私だったら別々の場所に遺棄するし、死体の上に死体を……」
皐月は言葉を失った。そしてすこし考えると、
「もしかして、心中に見せかけようとした?」
皐月の言葉を嘲笑するように、阿弥陀があきれた表情で肩をすくめる。
「いや、それはすでに分かっていることでしょ?」
「しかし、たしかに皐月さんの言う通りですな。犯人はわざわざ同じ場所に遺体を遺棄したという、云ってしまえば七面倒なことをしてのけたわけですし」
「やけど、なにが目的っちゃろね? 二人が別れていたことは同僚や職場の人間にも聞いたっちゃけど、みんな知っちょったんですよ」
西戸崎は怪訝な表情で云った。
「堂本敦と飯島紗栄子の関係は?」
「同じ大学らしいですな。それからもう一人の方、梨本未亜とは同級生みたいです」
「それじゃぁもともと知り合いだったんだ」
葉月の言葉に、阿弥陀はうなずいてみせた。
「一応彼女のアリバイですが、堂本敦殺害の時のアリバイは分かりませんが、梨本未亜殺害の時は自宅で書類の作成をしていたそうです」
その言葉に、弥生はすこし考えて、
「それって殺された時間に作っていたってことですか?」
「ええそうですが? ファイルの作成時間も梨本未亜が殺されたとされる二時間くらい前で、彼女の自宅から現場まで往復二時間はかかるらしいですからな」
「だったら信用しないほうがいいですよ。パソコンの時間をズラして保存すれば反映されますから」
「それじゃぁアリバイはないってこと?」
「ちなみにパソコンのネットとかは反映されませんけどね」
弥生は阿弥陀と西戸崎をまっすぐ見た。
「ネットの履歴が残ってないか調べましょ」
「無理だと思いますよ。すでに履歴を削除しているか、最悪再インストールしてHDDのデータをおしゃかにしてると思いますから」
「阿弥陀警部たちが年老いていて、パソコンに詳しくないと思ったんじゃろうな」
拓造がからかうように嗤った。阿弥陀はガクッと肩を落とすと、
「しかし犯人が飯島紗栄子とは限らんでしょ?」
「あくまで推測で話してるんですよ。それによく言うでしょ? 現場の第一発見者を疑えって」
「それは殺人現場の話でしょ? 第一発見したのはたまたま見つけた人ですよ?」
阿弥陀はあきれた表情で言い返した。
「それじゃぁ、それにずっと気付かなかったらどうじゃ? 橋の下なんぞ普段見はせんじゃろ? たまたま視界に入ってしまった。ただそれだけのことじゃろうよ」
拓蔵の言葉に阿弥陀と西戸崎は怪訝な表情を浮かべる。
「さっき皐月が云ったことじゃよ。遺体が心中に見せかけたものだったとして、わざわざ同じ場所に打ち上がることはまずない。それにもともとあそこは自殺の名所だったんじゃよ」
「……自殺の?」
「だが奇妙なことに自殺した人間は助かっておるんじゃよ。そしてなその証言で、一瞬で魅入られてしまうほどに美しい少女が自分を睨みつけながら、『余計なことをしないで』と人を憎むような口調でこの世に戻すそうなんじゃ。今は恐ろしくなって誰も飛び降りようとはせんがな」
拓造は話を切り返すように、一回咳払いをした。
「堂本敦の頭は菜刀で叩き割られていたんじゃろ?」
「ええ、思い出したくないくらいに」
阿弥陀はちいさく肩を震わせる。
「犯人はわざと頭を叩いたんじゃよ。どこか上流にある橋から飛び降り、あそこに流れ着いたと見せかけてな」
拓蔵の言葉を聞きながら、
「爺様、ちょっと可笑しなことを聞いてもいいかな?」
不安な表情を浮かべながら、皐月はたずねた。
「あの橋に祀られている橋姫ってなんなの?」
「そうじゃいね、もともと橋姫というのは水神信仰のために袂に男女二神を祀ったのが始まりとされておる。まぁ今は『姫』という言葉通り、女神として信仰されておるがな」
「それに妬みを持った鬼女としても有名よね」
弥生の言葉に拓蔵は片目を瞑り、ちいさくため息をついた。
その表情が、瑠璃が見せたあの表情と同じように感じた皐月は、
「もしかして、私たちの知ってる橋姫とは違う?」
とたずねるや、拓蔵はゆっくりとうなずいてみせた。
「江戸時代の話ですがね。『浅葱』という禿がいたんですが、その少女はまさに玉のように美しい肌で、未熟ながらもすでに男を虜にさせるほどの魅力を持っていたそうです。ただ彼女は遊女になる前に死んでしまいましたけどね」
「死んだ?」
「浅葱橋の伝承では、彼女は『喜助』という奉公人と逃げ出そうとしたんじゃが、あえなく捕まってな、喜助は溝川に叩き落とされたんじゃ……遺体は何百年たった今でも見つかっておらん」
皐月は震えた表情で、
「それじゃぁ、今の今まであそこで事故がなかったのって」
と拓蔵に聞いた。
「橋姫は今でも探しておるんじゃよ。喜助の遺体を。探しておるから余計なものを見たくないんじゃ」
「もともと橋姫は守護神ですからな。外敵から守っているんですよ」
「でもそれだったらどうして遺体を流さなかったの?」
葉月は首をかしげる。
「なにかあやつにも考えがあった……」
拓蔵はすこし考えるや、頭を掻いた。
「弥生、書斎に『古今和歌集』が置いてあるはずじゃから持ってきてくれ」
そう言われ、弥生は立ち上がると、母屋の奥にある詳細へと消えた。
五分ほどして弥生は居間へと戻ってくると、持ってきた二冊の本を拓蔵に渡した。
「あれ? 古今和歌集って二冊もあるの?」
葉月は首をかしげるように、弥生にたずねた。
『古今和歌集』は万葉集に選ばれなかった古い時代の歌から、撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂したもので、『新古今和歌集』は後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集とされている。
「でもなんで突然和歌集なんて?」
弥生がそうたずねるが、拓蔵は聞く耳を持たないかのように、古今和歌集のページを捲っていく。
「あった」
ある一句を見つけ読み上げる。
『さむしろに ころもかたしき こよひもや
われにまつらむ うじのはしひめ』
「橋姫を歌ったやつ?」
「これは橋姫伝説にもあってな、橋姫の夫が海で漁をしていたとき、女の龍神に婿として取られてしまったんじゃ。二人は袂を分かつことになるがな」
拓蔵はそう言いながら、今度は『新古今和歌集』のページを捲っていく。
「これか、あやつが歌っていたのは」
拓蔵がその言葉を歌おうとした時、阿弥陀の携帯が鳴った。
「もしもし。あ、大宮くんですか? あぁはい。今神社に……、えっ?」
驚いた表情で阿弥陀は詳細をたずねた。
「はい分かりました。すぐに向かいます」
そう言うと、阿弥陀は携帯を切るや、西戸崎を急かすように、
「浅葱橋の袂で車の事故が遭ったそうです。目撃者の話によると、中に女性が閉じ込められているみたいなんですよ」
「でもそういうのって交通課の仕事じゃないんですか?」
「事故車の詳細を聞いたら、飯島紗栄子の車だったんです。すみませんが皆さん我々は現場に向かいますので今日はこのへんで」
そう言うやいなや、阿弥陀と西戸崎は母屋を出ると、急いで浅葱橋の方へと車を走らせた。
「事故で済めばいいんじゃがな」
「それってどういうこと?」
詰め寄る皐月に、拓蔵は目をそらした。
「嫉妬をするとな男女構わず、盲になってしまうということじゃ」
皐月は拓造の複雑な表情を見るや、
「私も見てくる」
床に置いてあった畳み掛けのガーディガンを羽織り、阿弥陀たちを追いかけるように出て行った。
「爺様、どういうこと?」
「あやつがなぜ古今和歌集の方ではなく、新古今和歌集の方の歌を歌ったのかようやく分かったわい」
拓造の言葉が、いまだ理解できない弥生と葉月は怪訝な表情を浮かべる。
「どんな歌なの?」
そうたずねられ、拓蔵は和歌とその解釈を伝えた。
二人は青褪めた表情を浮かべた。
一台の乗用車が浅葱橋の擬宝珠にぶつかり、煙をふかしていた。
『そうよ。あいつがいけないのよ。あいつが私からあの人を奪ったんだ』
運転席で血を流している飯島紗栄子は口角を上げる。
『これで誰が殺したのか分からない。これで事件は永久に解決しない。私が犯人だなんて誰も思わない。思っていても裁けない』
飯島紗栄子はゆっくりとダッシュボードを開けた。
中には小さな瓶が入っている。栄養ドリンクの瓶だった。
フタは回して閉めるもので、あらかじめ開けていたため片手で簡単に空いた。
『中には睡眠薬が入ってる。居眠り運転で死んだでもいいわ』
グイッと、中の薬を溶かした水を飲み干した。
すぐに眠りが来るだろう。永遠に起きることのない。
……そう彼女は思った。
「我流一刀・羅刹っ!」
大きな衝撃とともに、飯島紗栄子の車のドアが壊される。
――えっ?
飯島紗栄子はなにが起きたのか分からなかった。
ただ目の前で、二刀流の、赤い巫女装束を着た皐月の姿が見えた。
「早く救急車っ!」
皐月が叫ぶや、阿弥陀たちは急いで飯島紗栄子を車から救出しようとしたが、
「はなしてぇ。私をあの人のところに連れて行かせてよぉ! もう一度やり直すの」
飯島紗栄子が、自身を助け出そうとしている阿弥陀と大宮たちをこばむように叫んだ。
「哀れじゃな。人の子よ」
赤い着物の少女が、嘲笑するように言った。
いつの間に? と、その場にいた全員が少女に視線を送る。
「はぁ?」
飯島紗栄子は睨むように少女を見やる。
「なに言ってるの? クソガキ」
「お前さんのやったことは正直あきれて物も言えん」
少女は肩をすくめ、ちいさく口角をあげる。
「あんたになにが分かるのよ。あの人を取られた苦しみが、あの人を奪い返そうとどれだけ頑張ったか」
「頑張った結果があれじゃろ?」
冷笑したような口調で、少女は言い放った。
「ちょっと、あんたいったい誰なの?」
皐月が怪訝な表情で少女を見る。少女は小さくため息をはくと、ゆっくりと祠に指をさした。
「彼女は『浅葱』と言って、あの祠に祀られている橋姫ですよ」
阿弥陀の言葉に、皐月と大宮が驚いた表情を浮かべた。
「は、橋姫? だったら私の気持ちが分かるんじゃないの? 恋人を奪われた私の、私の気持ちが」
希望の光が見えたかのように、飯島紗栄子は浅葱に詰め寄った。
浅葱は視線を逸らすや、
「別に、われは妬みを持って死んだ覚えがないのでな。お前さんの勘違いにはほどほどあきれてしかたないんじゃよ」
「な、なにが勘違いよ。私はあの人にどれだけ憧れていたか分かる? 分かるわけないわよね?」
飯島紗栄子は浅葱を押し倒そうとするが、スーッと浅葱の身体を突き抜けた。
「われは妖怪でありながら、神とも云われているもの。人が触れられるわけがなかろうに」
浅葱はゆっくりと皐月を見やった。
その表情は今にも泣き出しそうなもので、皐月は浅葱の真意が理解できなかった。
「黒川拓造の孫娘よ。お前さんは今回の事件、理不尽なところがないか分からんか?」
「えっ?」
皐月は突然のことで分からなかった。
「あやつの犯行理由と、殺された順番……」
そう言われ、皐月はハッとする。
「まさか、奪われたのって、堂本敦じゃなくて、梨本未亜の方?」
皐月の驚いた口調に、飯島紗栄子は含み笑いを浮かべた。
普通、男女のいざこざで女性が怨みを持っているのは如何せん、恋人を奪った女性の方である。
それなら、殺されるのは女性が先になるのだが、今回の事件先に殺されたのは堂本敦であった。
「ええそうよ。未亜は私の大切な人だったの。高校のころから一緒に付き合っていたのよ。友達としてではなく恋人としてね。でも大学に入ってからというもの、堂本敦に未亜を取られたのよ。私はそれが許せなかった。許せなかったぁっ!」
飯島紗栄子は般若のような表情を見せる。
「堂本敦を殺したその日、未亜にそのことを言ったわ。そしたらあの子私に見せたのよ。今にも殺しそうなくらいに怖い表情をね。私は理解できなかったわ。未亜はあいつに騙されているのに、どうしてそんな目を向けられなければいけないのかって。だからあの子も殺したのよ。殺して天国で一緒になろうと思ってね」
「そしてその遺体を、清掃船のブルーシートに隠し、夜中見つからない場所に隠した。浅葱橋は偶然ですかな?」
阿弥陀の口調に、飯島紗栄子は嘲笑いながらうなずいた。
「お前さんはどうして気付かんのじゃ?」
「気付く? なにがよ?」
飯島紗栄子は青褪めた笑みを浮かべ、浅葱にたずねた。
「梨本未亜の気持ちはすでに堂本敦のもとにあると、なぜ気付こうとせんかったんじゃ」
「あいつが無理矢理未亜を私から奪ったのよ。無理矢理……。そう無理矢理――」
「続きは回復してからにしましょうかね」
阿弥陀の手には手錠があった。その手錠を、飯島紗栄子の両手首に、小さな音が重く掛かった。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
畏まった口調で皐月は浅葱にたずねた。
「黒川皐月。別に畏まることはない。して、なんじゃ?」
「どうして今回に限って事故を許したの? あなたがこの橋を守っていたから今まで事故はなかったんでしょ?」
皐月の言葉に答えるかのように、浅葱は小さく笑みを浮かべた。
「お前さんは『いいひと』はおるかえ?」
皐月は首をかしげる。浅葱が『いいひと』とは廓言葉で『惚れた人』を意味することを説明するや、皐月は大きく首を振った。
「もともとわれは喜助さんと一緒に死んでも良かったと思っておった。でもその日は姉さんたちと花見に出ていたんじゃよ」
浅葱は橋の手摺りに腰を下ろす。
「それからいくらたっても喜助さんは郭に顔を見せなかった。何年待っても……、水揚げの歳になっても――」
「水揚げ?」
「遊女は郭に来た客と一夜の妻でなければいけない。夜伽をするために、遊女となる前の最終試験みたいなもので水揚げがあるんじゃよ。つまりは破瓜を散らせるわけじゃな」
浅葱は月を見上げる。皐月は朧気だったが、なんとなく浅葱の言葉の真意が分かった。
「われがこの橋で事故を赦さなかったのは、喜助さんの死体があるかもしれないこの川に、余計な死体を増やしたくなかったか。それが理由。それ以上でもそれ以下でもない、至極単純な理由」
皐月は執行人になって幾日もたっていない頃に、瑠璃から教えてもらったことがある。
理不尽に死んだ幽霊はその場から離れることができず、死んだ場所を彷徨い続ける。浅葱はそれを知っているからこそ、『浅葱橋』での交通事故や自殺を赦さなかった。
見つからない喜助の亡骸がこの川にあるかもしれない。そう信じているからこそ、浅葱は赦さなかったのである。
「われがお前の祖父に伝えた和歌の解釈には『恋人を待つ夜の秋風が、すでに飽きられていることを知らせている』という意味があるんじゃよ。畢竟、新しい出会いを探そうという気持ちが、やつにはなかったんじゃろうな。あればあんなつまらんことはせんじゃったろうに」
皐月はそれ以上聞かなかった。
稲妻神社に来た時、縁結びのお守りを買おうとしていたのだから、浅葱の言葉は理不尽だと思ったが、結局同じ結果になるかもしれない。出会いと別れ。人の付き合いにはそれがあるからこそ、梨本未亜の幻影を求めていた飯島紗栄子には無理なのだろうと、浅葱の突き放した口調に、なにも言えなかった。
浅葱もそれ以上のことは語ろうとせず、物思いに月を見上げていた。




