肆:『橋姫』 ~前~
福嗣町から北西へとふたつ町を跨いた位置に『浅葱橋』と呼ばれる大きな橋が、『淺寺町』と隣り町との境目にかけられている。
その橋の上に人集りができており、下の川岸にはブルーシートに覆われて中が見えなかったが、騒然として誰一人その場から離れもせず、あろうことか何事だろうかと集まる始末でああった。
皆、その橋の下で発見された奇っ怪な水死体の正体に興味があったのである。
「はぁ、皆さん、暇ですなぁ。見て面白いものでもないでしょうに」
阿弥陀があきれた表情でため息をついた。ただでさえ人が集まりやすいのに、今日は日曜日であるため、さらに人集りが広がっている。
「まぁそこは野次馬根性ってことで、こちらは気にせす仕事をしましょう」
大宮もあきれた表情で肩をすくめる。
「大宮くん、野次馬って元々は『親父馬』と言って、その名の通り年取った馬のことが転じられたんですよ。まったく意味が変わってしまいましたけどね」
そうなんですか? と、大宮は小首をかしげるように、目の前のふたつの死体に目をやった。
男女一対の死体は、ひとつはスーツを着た若い男性だった。髪が朱色に染まり、みすぼらしく乱れている。片方の女性も似たようなものだった。
「水ぶくれが見られませんね。落ちてそんなにたっていないんでしょうか?」
「頭はパックリいってますけどね」
阿弥陀の言葉に、大宮は目眩を起こした。もちろん遺体の形状は分かっていたのだが、あまりにもきれいに割れているので、見えているのである。
刑事であっても、本来は見たくないのだ。生き物の脳髄なんて。
「おおむね、川に落ちた時に水中の岩にぶつけたんでしょう。見つかったのは川岸みたいですから、他の場所から落ちた可能性もありますね」
阿弥陀はそう言いながら、うーんと唸った。
「とりあえずこの二人の身元ですな。遺留品は――」
「探してはおるが、まったく見つからんぞ」
うしろから湖西の声が聞こえ、阿弥陀と大宮はそちらを見やった。
「川の中とかは?」
「それも今やっておる。とりあえず上まで登ってみたが、財布やバッグといったものはなかった」
湖西は肩を鳴らしながら言った。
「本当に雨が降っていなくて良かったですな」
阿弥陀が安堵した表情で、湖西に言った。
「どうかしたんですか?」
「いや、この川は流れがかなり激しくてですね。我々の間では『濁り川』って云われているんですよ」
「『濁り川』?」
「まぁ、川の流れが激しくて、少しでも砂が舞うとな、砂埃でなにも見えなくなってしまうんじゃよ」
「あ、だから『濁り川』」
大宮は納得した表情で手を叩いた。
「死体の死亡推定時刻は検視に回さん限り分からんな」
湖西はそう言いながら、ふたつの遺体に目をやる。
「男女一組か。ここで見つかるとはなんとも皮肉なものじゃな」
手を合わせ、哀れむように言った。
「心中でしょうか?」
「このご時世にそれはなぁ……。それによう見てみぃ」
湖西はそう言うと、ふたつの死体の左手薬指を大宮に見せた。
「心中というのは、相思相愛の間柄がやるもんじゃろうよ?」
大宮はなにを言ってるのか一瞬分からなかった。
しかし、死体の左手薬指には、両方とも指輪がなかったのである。
「落ちた時に取れたのかというのは考えられませんな。そんな簡単に取れるようなものでもないでしょうし、落ちる前に取ったんでしょうか?」
「それを調べるためにもまずは身元だな」
湖西はそう言いながら、橋の方を見上げると、橋の入り口に置かれている祠に目をやった。
「あやつめ……、命日が近いからって、また留守にしておるのか」
湖西の、あきれたとも、あきらめたとも取れるような複雑な表情を浮かべながらため息をついていたのを、大宮は怪訝な表情で見ていた。
それからすこし経った夕暮れの時だった。
「……縁結び?」
家の手伝いで、吉凶や運勢などが書かれた、云ってしまえば御神籤の紙を巻くように畳んでいた皐月が首をかしげる。
「そ、最近なにかとうちのクラスで噂になってるのよ。なんでも互いの持っているイヤリングとかを片方ずつ交換するってやつ」
愚痴をこぼすように弥生も、皐月と同じように御神籤を畳んでいた。
「あれ? 姉さんの学校ってそういうの禁止じゃなかった?」
「外に出かける時とかよ。わたしはまぁしないけど」
「でも、なんで片方ずつなんだろ?」
皐月と弥生を目の前にしながら宿題をしていた葉月は、鼻筋に鉛筆を乗せながら、唸るように言った。
「宿題、むずかしいの?」
皐月がそうたずねる。
「ううん、後は漢字だけだから、ちょっと暇」
「早く終わらせなさいよ。皐月は大丈夫?」
「私はいつもどおり起きてからやるよ」
皐月は弥生に対して「姉さんこそどうなのか」と聞こうとしたがやめた。
すこしうしろへと腕を伸ばすと、境内の方から微かに鈴の音が聞こえ、皐月はそちらに目をやった。皐月の耳は若干悪く気のせいかと思ったが、振り向く瞬間、他の二人も似たように境内の方角に目を向けていた。
――参拝客……かな?
そう思いながら、皐月は身を中庭の方へと乗り出す。
そこから稲妻神社の拝殿が見え、賽銭箱の前に人がいるのが分かった。遠目であまり分からなかったが、喪服のような黒い礼装に、ベールの付いた黒のトーク帽を被った女性が、佇むように立っているのが見える。
あまりにも五穀豊穣をつかさどる宇迦之御魂神を祭っている稲妻神社とは似付かない雰囲気の女性に、皐月はすこし気になってしまい、スッと立ち上がるや、軒下においてあるスリッパを履くと、女性の方へと駆け寄った。
妙な胸騒ぎがしたのだ。
「あ、あの――」
皐月が声をかけると、みつあみをおおきく作った髪を前に垂らした女性が、ゆっくりと皐月の方へと見やった。そしてゆっくりと小さな笑みを浮かべるや、会釈すると、片耳だけにつけた黒真珠のイヤリングが揺れた。
「こちらの神社の方かしら?」
「あ、はい」
皐月は、女性のベールに隠れた目元を凝視した。
うっすらと目元に涙で腫れたようなあとがあり、そのことを聞こうとしたが、やめた。
喪服を着ている時点で察してしまうのである。誰かが亡くなったのだと。
「うちになにか御用ですか?」
「ここって、縁結びの神様は祭ってないのかしら?」
皐月はすこし考え、
「あ、大黒天を祭ってるので縁結びの御利益はありますよ」
と答えた。
「そう。御守は売ってないのかしら」
「残念ながら、ここの神社には売店がないんですよ」
声が聞こえ、皐月と女性はそちらを見やった。
「瑠璃さん」
目の前の、小学三年生ほどの背丈しかない瑠璃に、女性はちいさく驚く。話し方が如何せん自分よりも年上に感じたのだ。
「大黒天が縁結びの神様と云われているのは、云ってしまえば神仏習合によるものですね。出雲大社の主祭神である大国主を、仏教の神である大黒天と読みが一緒だから習合させたんです。大国主は縁結びの神としても有名ですからね」
瑠璃はそう言いながら、女性を見た。
「それにしても、御守は売ってないのね。それじゃぁどうやって成り立ってるのかしら?」
「うちは、五穀豊穣の神様を祀っていますから、百姓の人から祈祷代を頂いたりしています。お礼として作物を頂いたりもしますね」
「そう、小さな神社でもないよりかはマシなのね」
女性のトゲのある言い草に皐月はすこしムッとしたが、顔には出さす、穏やかな表情で応対する。
「他を探すわ」
女性はそう言うと、踵を返すように鳥居の方へと去っていった。
皐月はドッと疲れが出たかのように、肩を落とした。
「なんで御守とか売ってないんだろ? うちの神社」
「ここに祀られている主副祭神を考えると必要がないからですよ。たしかに御守というのは持っていて損はないでしょうが、持っていたとしても効力がないからです」
「効力がない?」
「例えに縁結びの神様を祭った神社で御守を買ったところですぐに効果がでると思います? 結局はその人の薫習によるものなんですよ」
皐月は首をかしげ、
「薫習?」
とたずねた。
「仏教の言葉で、物に香りが染みつくように,人の精神や身体のすべての行為は、人の心の最深部に影響を与えることを意味します」
その言葉に、皐月はなるほどと思った。先ほどの女性の態度を考えると納得するしかなかったのである。文句を言うだけで、答えてもらったという感謝の言葉がなかった。
「皐月、拓蔵はいますか?」
話を変えるように、瑠璃はたずねた。
「爺様だったら区内の総会に行ってますよ。なにか用事だったんですか?」
「近々阿弥陀警部たちがたずねに来るかもしれないと思いましてね」
「なにか事件でも?」
「今回の事件は本来なら発見されないはずなんですよ」
瑠璃はそう言うや、深くため息をついた。
「発見されない?」
「皐月は浅葱橋の奇妙な話を聞いたことありませんか?」
そう言われ、皐月は首を振った。
「橋姫という妖怪は知っているでしょ。浅葱橋はそれを道祖神として祀っているんですよ。あの橋ができてから一度もあの橋近くでは事故や死体は見つかっていないんです」
「そう言えばあそこで事故って聞きませんけど」
皐月はハッとした表情で、瑠璃を見た。
「もしかして死体が?」
「殺されたのは別の場所からみたいですね。現場を見た脱衣婆の話によると、浅葱橋周辺に死体からの血以外は見つからなかったそうです」
「飛び降りじゃないんですか?」
「ここ最近、雨は降っていませんでしたし、川の流れもゆったりとしていました。他の所で飛び降りたとしたら、川の流れに乗って海に流れるということ、実を言うと少ないんですよ。だいたいは岩に引っかかるか、浮きますからね」
瑠璃は一息間を置くと、賽銭箱の下にある階段に腰を下ろした。
「それにあそこが賑わっているのは知っているでしょ? 発見されたのは浅葱橋の下の川岸でしたが、死亡推定時刻は――」
瑠璃がそこまで言った時、砂利を踏みしめるような音が聞こえ、皐月と瑠璃は音がした方へと目をやった。
そこには湖西の姿があり、
「瑠璃さんや、まだこっちで判明していないことを容易く言うのはどうかと思うぞ?」
と、忠告するように瑠璃に言い放った。
「どういうことですか?」
「うーんどう説明した方がいいかのう。運が悪かったのか良かったのか、ふたりともまったく違う死亡推定時刻だったんじゃよ」
「別々? でも発見されたのは同じ場所なんですよね?」
目を点にするかのように皐月はたずねた。いくら川に流された死体が川岸に打ち上げられることがあったとしても、違う時間に流された遺体が、同じ場所に打ち上がるとは思えなかったのである。
「死体遺棄というのは? それだったら違う時間に殺されても同じ場所に運ぶことは――無理か」
皐月は頭を振った。浅葱橋の賑わいを考えると、不審な人物が橋の下にいればそれだけで通報ものである。
「それにあの橋の周辺は下りるためのハシゴがないからな、わざわざ清掃船でのぼる羽目になってしまったがな」
「清掃船?」
「人が入れない川ですから清掃船が必要なんですよ。浅葱橋が掛かっているあたりは昔遊廓でしたので、簡単に人が行き来できないよう堀になっていたんですよ」
「水の事故防止のためにというか、おまじないとしてあそこには橋姫を道祖神として祭っておるんじゃがな」
「橋姫って、たしか恋人に妬みを持った妖怪じゃないんですか?」
皐月の言葉に、瑠璃は『結局そういうものでしかない』と言っているような複雑な表情を彼女に向けた。
すっかり日が暮れ、あたりは日中の賑わいとは打って変わってシンとしている。
そんな浅葱橋の歩道を、拓蔵は猩々のように赤い顔で歩いており、
「あぁ、ちょっと飲み過ぎた」
頭を抱えながら、自己嫌悪とも取れるため息をついていた。
先刻まで稲妻神社がある区内の集会に出ており、その延長線で飲み会に参加していたのである。
繁華街から神社がある民家の方へと歩いていると、手摺りに十五歳ほどの少女がつまらなさそうに座っていた。
朱色の生地に『|姫茴香』という小さな白い花柄が施されてた着物を着ており、肩まで伸びた消炭色の髪をしている。
拓蔵は少女の前を通りかかった時、彼女の顔に目をやった。
血色の良い薄紅色の唇と、憂いのある切れ目に一瞬魅入られたが、正気を取り戻すかのように頭を振るった。
「狭筵や 待つ夜の秋の 風吹けて 月をかたなく 宇治の橋姫」
ゆったりとした口調で少女は言った。
「古今和歌集のやつとはすこし違うな」
拓蔵がそうたずねると、少女はゆっくりと橋の下を指差す。
「橋の下がどうかしたのか」
拓蔵は身を乗り出すように下を見た。すでにブルーシートは片付けられており、見えるのは月に反射した川の水面だけである。
「あの刑事に伝えて……擦り傷はあったかって」
「擦り傷? それはいったい、どういうことじゃ?」
拓蔵が少女の方へと目をやるが、すでに少女の姿はなかった。
拓蔵はすこし考えると、繁華街の入り口に設けられた祠の方へと目をやった。
「なにかあったみたいじゃな。あいつがあんなつまらなそうな表情を見せることなんぞなかったしのぉ」
拓蔵は神社に戻るや、少女に言われた通り、鑑識課の湖西に連絡を入れた。
「うむ、お前さんの言う通り遺体に擦り傷はなかったぞ」
警視庁の鑑識課で机に伏していた湖西が欠伸混じりに答えた。
時刻は十時を回っていたのである。
「今の時間だと、報告書を書いておるところか」
「あらがた検視も片付いたんでな。亡くなったのは『堂本敦』二四歳と『梨本未亜』二二歳。ふたりとも同じ清掃会社に勤めていることが分かった」
「心中というわけではないようじゃな?」
「一緒に死ぬから心中じゃろうが」
たしかにと拓蔵は唸った。
「死亡推定時刻は堂本敦は一日たっておったが、梨本未亜の方は発見される八時間くらい前じゃった」
「つまりおおむね十六時間も差ができておるということか」
「男の方は頭がパックリ云っておってな、菜刀のようなもので殺したんじゃないかという考えなんじゃが」
「なにか気になることでもあるのか?」
「たしかにお前さんがあやつに聞いたことを考えると流されたという可能性は低い。そうじゃったらあるはずじゃものな岩に引っかかれてできる擦り傷が」
「つまり遺棄ということか」
拓造の言葉に、湖西はちいさく唸った。その考えは捜索の時点であったのだ。
「あそこには人が入れんようになっておるし、なにより人目につきやすい」
「たしかにあそこは清掃船がないと掃除もできんらしいしなぁ」
「あそこは遊女が簡単に逃げ出せんように作った堀と云われていて、堀の水がなくなるとその高さは十メートル。ハシゴもないから川岸に行くことは不可能じゃな。まぁ云ってしまえば陸の孤島と言わざるおえまいて」
「うーん、もうしばらくは調べてから来てくれと二人に伝えておいてくれんかな?」
「なんじゃ? なにか気になることでもあるかえ?」
湖西が驚いた口調でたずねた。
「いや調べるに越したことはないじゃろうよ」
そう言うと、拓蔵は一方的に電話を切った。
――もし湖西の言う通りじゃと、まずあの方法しか考えつかんな……。




