弐:『姑獲鳥』 ~前~
福嗣町の南に位置し、隣町である鹿鳴町の境目に『悟帖ヶ山』というちいさな山がある。
この山の頂上に『更紗神社』というのがあり、主祭神として『玉依姫命』が祀られていることから、子安神社として、懐妊した女性や、子を授かりたいと願う夫婦が参拝に来ることが多い。
しかしながら、この『悟帖ヶ山』、標高二百メートル足らずと、さほど高くはないのだが、神社に行くまでの山道がかなり険しい。
とは言え、子を産むという苦痛にくらべれば、なんてことはないという。
そんな山道を、二四歳とは思えないほど小柄な体躯に、不釣り合いなほど膨らんだ腹部を抱えた『間宮理恵』という女性が、ゆっくりと杖を付きながら降りていた。
間宮理恵の胎内には命が宿っていた。
無事に産まれるようにと、先ほどまで『更紗神社』へと参りに行っていたのである。
それなのに間宮理恵は、自分の腹部を、おぞましいものを見るかのような目で見下ろした。
普通ならば、愛おしいと思うのだろうが、そうではない。
間宮理恵が子を身篭って、すでに『十ヶ月目』に入ろうとしていた。
普通(と言うのは、いかんせんおこがましいが)ならばすでに生まれてきていても可笑しくない時期である。
基本的に子を宿して産むまで、人間ならばせいぜい九ヶ月あたりであろう。
(十月十日という有名な言葉があるが、あくまで目安でしかない)
そんな状況であるがゆえ、大切な夫の子であるにもかかわらず、間宮理恵は、胎内の子を不安な表情で見ざるおえなかった。
「大変ですね」
声をかけられ、間宮理恵はそちらを見た。
声をかけてきた女性は、スラっとした身体で、目つきは狐のような印象だった。
赤茶色に染めた腰まである長い髪。強い香水とブランド品で着飾り、けばけばしい化粧をした、どう見ても山登りをする態度とは思えない女性を、間宮理恵は怪訝な表情で見る。
別に、彼女に違和感を持ったわけではない。着ていた服が赤色のレインコートで、妙に黒ずんでいたからだ。
「あなたも子安様のところに?」
間宮理恵は、至極当たり前にたずねた。この山に登るのはそれ以外あまりないのである。
「いえ、ちょっと人を探していましてね」
女性はゆっくりと間宮理恵にむかって笑みを浮かべる。
「それにしても大変ですね、妊婦にはキツイんじゃないんですか?」
確かにただでさえ重たいおなかを抱えて登る山ではない。
しかし先ほども記した通り、子を産むというのは、死ぬことに匹敵するとも云われている。
そのため、この山を登れないくらいの軟弱では、子を産んでも育てることなんてできないと、福嗣町や周りからは有名な話であった。
間宮理恵は女性に対してかるく会釈をすると、ゆっくりと山を降り始めた。
「あ、そうそう。ちょっと聞きたいんですけど……」
ちょうど、間宮理恵が柵あたりのところに近寄った時だった。
うしろから先ほどの女性が声をかけてきたのである。
「なんでしょうか?」
「『間宮雄太』ってご存じないかしら?」
そう聞かれた時、間宮理恵は女性を警戒した。
一瞬だけ女性の目が『人』のものとは思えなかったのである。
「し、知りません」
咄嗟に嘘を言ってしまった。間宮雄太は間宮理恵の夫である。
「本当に?」
女性は執拗に、間宮理恵に詰め寄った。
「しりま……っ!」
間宮理恵はお尻に違和感を覚える。柵が当たったのだ。
女性は更に詰め寄る。
「本当に……? 知ってるんでしょ!」
はっきりと女性はそう叫んだ。そして――間宮理恵を崖から突き落とした。
赤い夕焼けが、地面に叩きつけられた間宮理恵の血のように赤く染まっていた。
その日の夕方の事だった。
稲妻神社の境内に、参拝客用にと設けられているトイレがあり、女性用の個室で、少女のちいさなふるえる声が聞こえていた。
「出ませんように、出ませんように」
その声を発していたのは、この神社に住む黒川皐月のものであった。
凛とした彼女ではあるが、当然人の子であるため、苦手なものくらいはある。
それは幽霊であった。
妖怪は視えても、力の弱い妖怪や幽霊が視えないのである。
そういうこともあってか、皐月はこのトイレでよく悪戯をする妖怪が怖かったりするのであった。
ところで、なぜ母屋があるにもかかわらず、境内のトイレを使わざるを得ないのかというと、ほんの三時間ほど前、水漏れで壊れてしまったからである。
用を済ませ、出ようとした瞬間、うしろからものを鳴らす音が聞こえ、皐月は飛び上がるほどに驚くや、逃げるようにその場から出て行ってしまった。
音の正体は『家鳴』という小さな鬼の妖怪で、いたずら好きの妖怪で、基本的に害はないのだが、皐月はちいさい頃からこの家鳴が鳴らす音が嫌いであった。
トイレを出た時、皐月は手を洗ったっけと少し考えた時だった。
腹部に妙な違和感を覚え、そこをさすった。
女性特有の症状とは思えなかったのは、それが来たのはつい半月前の話であり、経験上来るには早いと皐月は思った。
しかもそうではなく、妙に蹴られた感覚があったのだ。それも体内から――。
あまり気分がいいものではなかったが、皐月は特に気にすることでもないだろうと、あっけらかんとした態度で、その場を後にした。
その晩、皐月は潮騒の中にいる夢を見た。
常々警察というのは億劫な職業だ。と大宮は思った。
もちろん事件が起きれば、昼夜関係なく駆り出されるのはしかたのないことなのだが、目の前にしている死体の形状は見るに耐えられずにいた。
朝焼けの下、数人の警察官が、死体の周りを探索しているのを、大宮は苦し紛れに目で追う。
「目を背けないでくださいね。一応私たちの仕事でもあるんですから」
感づいた阿弥陀が、青ざめた表情をしている大宮をからかうように言った。
「分かってますよ。恐らく崖から落ちたんでしょうね」
大宮は崖の上を見上げた。
「誰かに突き落とされたんでしょうか?」
「そうでしょうね。それにしても酷いことをする」
阿弥陀はゆっくりと間宮理恵に手を合わせた。
「死因は転落による頭部強打。出血も酷いですね」
大宮はふと死体に違和感を覚えた。
「あの阿弥陀警部、この女性おなかが膨らんでますけど?」
「多分妊婦でしょうな。ここの頂上に更紗神社という子安様を祀っている場所がありますから」
「その帰りだったんでしょうか?」
大宮の問いかけに、阿弥陀は、
「おそらくそうでしょうな」
と答えた。
「おい阿弥陀、大宮」
うしろから声が聞こえ、大宮たちはそちらを見た。
「湖西主任、なにか見つかりましたかな?」
「見つけたものなにも、こんなのがあったぞ」
そう湖西という初老の鑑識官が、灰色の羽根を手に持っていた。
「鳩のですかね? 色的に」
大宮はそう言いながら、羽根を照らした。ところどころ赤い斑模様がある。
「こんな柄の鳥いるんですかね?」
「さぁな、詳しく調べんと分からんが、まぁ日本で見れるものではないだろうさ」
湖西はそう言いながら、羽根を見やった。
福嗣町周辺に動物園があるわけでも、ましてやペットショップが有るわけでもなし(あったとしても、珍しい鳥なら保健所などで監視されているものだが)、結局、なんの鳥の羽根なのかはわからずしまいであった。
阿弥陀は間宮理恵の近くに落ちているポシェットに目をやった。
落ちた衝撃でボタンが外れてしまい、中の物が散乱している。中には血に塗れた物もあった。
その中からひとつ、折りたたまれた財布を手に取った。
「……中身が抜かれた形跡もなし、物取ではないようですね」
阿弥陀は財布の中を調べていく中、二枚のカードに目を止める。
一枚は『バンビーノ』という、小洒落たイタリアカフェのポイントカードで、財布の中にあったその店のレシートには、一ヶ月ほど前に、『ゴルゴンゾーラのクリームパスタ』が三人前食事されていた。
「どうかしたんですか?」
大宮が覗きこむようにたずねる。
「これって、産婦人科の診察券ですかね?」
「まぁ、持っていても可笑しくはないんじゃないですか? 現にガイシャは妊婦なわけですし」
大宮は首をかしげる。もちろんそんなのは云われなくても分かっていると、阿弥陀は言おうとしたが、
「あなた、『田原産婦人科』って知ってます?」
「たしか商店街のすこし離れた場所にある婦人科ですよね?」
「ガイシャはそこに通院していたみたいなんですよ。――ただ……」
「……ただ?」
阿弥陀は、診察券を見せた。
「えっと? ちょっと待ってください? 初診が去年の十月って――」
大宮はゴクリと喉を鳴らす。
「わたしはあまり詳しくはないですけど、もし初診の時点で二ヶ月とかだったら、もう産まれても可笑しくない時期ですよね?」
阿弥陀はゆっくりと間宮理恵の下半身を見やった。
「――はたして、この妊婦は我々の想像している妊婦なんでしょうかね?」
阿弥陀の額に、脂汗が浮かんだ。
間宮理恵の遺体が発見されたその日の夕方。
「それで記憶にないんかい? 皐月ちゃんのことじゃから、恋人がいても可笑しくないんじゃなかろうか?」
のほほんとした口調で田原という、七〇を過ぎた老婆の医師が皐月にたずねた。その皐月は現在診察室のベッドで、おなかをだして横たわっている。
田原は優しい手付きで、皐月のおなかをゆっくりと触診していた。
「いませんよそんな人。だいたい、もしいたとして、そんな簡単にあげるほどカルくないですから」
皐月はムッとした表情で、田原を睨んだ。
「わぁっておるよ。安心せい、ちょっと生理不順起こしとるだけじゃから」
田原はカルテに触診の内容を書き記していく。
「触診だけで分かるんですか?」
「わしはこの道五〇年じゃぞ? 大抵のことはおなかの張りで分かる」
田原は、笑うように言ったが、本当にそうなんだろうか? と皐月は思った。
触診されている中、田原が何かに話しかけているような、そんな気がしたのだ。
「うーむ、皐月ちゃんは誰かの子どもがほしいとか思ったことはないか?」
「ないです」
皐月はキッパリと答える。
「うむ。まぁ、それはいいんじゃが――。皐月ちゃんは想像妊娠というのは知っとるかえ?」
「名前くらいは」
「実はな、一ヶ月くらい前に、皐月ちゃんと同じような形で来た患者がいたんじゃよ」
「同じようなって……、たしか想像妊娠っていうのは、子どもがほしいっていう願望がある人がなるやつですよね? あいにく私はまだ子どもがほしいって思ってないんですけど?」
「ああ、皐月ちゃんの場合は、まったくの別物じゃから安心せい」
田原の優しそうな言葉に、皐月は首をかしげる。
「本人が妊娠していると思っていても、結局は虚飾。妊娠検査薬とか使えば一発で分かってしまうんじゃよ」
妊娠検査薬における妊娠の陰陽は、HCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)というホルモン分泌によるもので分かるのだが、このHCGというのは、本当に妊娠した時にしか分泌されない。
田原は一瞬だけ、蔑むような表情を浮かべる。
「それじゃ、その人は調べもしないで来たと?」
皐月の問いかけに、田原はうなずいた。
「先生、ちょっと」
診察室のドアが開き、看護師が顔をのぞかせる。
「どうしたかえ?」
「その、警察の方がお見えになっていますが?」
「……警察?」
田原は首をかしげる。
「いや、ちょっと失礼しますよって、なんで皐月さんがここに?」
中に入ってきた阿弥陀が、皐月に目をやった。
「いたら悪いですか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……、まさか皐月さん」
「してませんからっ!」
皐月はシャツを整えながら、阿弥陀を睨んだ。
「おなかが妙に張って苦しかったんで、おばあちゃんに診てもらいに来ただけです」
「……便秘ですか?」
「阿弥陀警部はデリカシーって言葉を十万回唱えたほうがいいですよ」
皐月は皮肉たっぷりに言った。
「それで阿弥陀警部、今日は何用かね?」
田原がそうたずねると、阿弥陀は懐から手帳を取り出した。
「実は今日の朝、悟帖ヶ山の麓で女性の遺体が発見されまして、遺留品である財布の中からこちらの診察券が出てきたんですよ」
そう言いながら、阿弥陀は間宮理恵の写真を見せた。
「うむ。ここ最近来ぬなと思ってはおったが、亡くなってしまったか」
田原は寂しそうな表情を浮かべる。
「それでこちらが聞きたいのはですね、この間宮理恵さん、初診の時点で妊娠何ヶ月だったんですかね?」
そう聞かれ、田原はすこし考えるや、
「たしか、あの時点ですでに二ヶ月ばかりじゃったかな」
その言葉に、阿弥陀は目を点にする。
診察券での初診の時期は、十月だったと説明した。
「ちょ、ちょっと待ってください? おばあちゃんが間違うわけがないだろうし、その人妊娠して十ヶ月はたってるってことですか?」
皐月も驚いた表情を浮かべた。
「もういいか? ちょっと席を外すぞ」
そう言うや、田原は椅子から離れていく。
「も、もう少し……」
「わしから聞くことはないと思うぞ」
皐月は一瞬、田原の表情に違和感を覚える。
「どうかしたのかい? 皐月ちゃん」
いつの間に入ったのやら、大宮が皐月に声をかけた。
「おばあちゃん、なんか寂しそうな眼だったので」
皐月は、診察室を出て行く田原を目で追いかけた。
産婦人科病院の階段隅にあるソファに、田原は深々と座り込む。
「あれ以上、話すことはなかったのですか?」
声が聞こえ、田原はゆっくりと、壁の方へと目をやった。
そこには、小学三年生ほどの背丈をした、シニヨンヘア(簡単にいえば髪をうしろに丸めたもの)の少女が、寂しそうな表情で、田原を見ていた。
「おまいさんか……。たしかにあれ以上言うことはなかった」
田原は背伸びをする。
「皐月ちゃんが心配で見に来たか?」
その問いかけに、少女は視線をそらす。
「安心せい、まったく妊娠のにの字もない。想像妊娠もなし。ただひとつ気になることがあるがな」
「気になること?」
少女は首をかしげた。
「阿弥陀警部ならばすぐに気付くじゃろうが、間宮理恵がうちに来たのは、先月までなんじゃよ。つまり、出産しても可笑しくない時期なんじゃが」
田原の胸ポケットに忍ばせていた携帯が鳴った。
「呼び出しのようじゃな」
田原は立ち上がると、少女を見やった。
「たまには会ってもいいんじゃないか?」
「こちらもなにかと忙しいので……。ところで皐月のことですが」
少女がたずねようとした時、田原の姿はすでにそこにはなかった。
診察室から病院のロビーまでの間に、新生児室がある。
皐月がその前を通ろうとした時、赤茶色に染めた腰まである長い髪をした女性が、新生児を睨むかのような目で見ているのが目に止まった。
「あなた若いわね、十代?」
突然声をかけられ、皐月はちいさくうなずいてみせる。
「若いのにすごいわね。そんなに彼氏のこどもがほしいんだ?」
「いえ、ちょっとおなかの調子が悪かったんで、診てもらいに来ただけです」
皐月がそう言うや、女性はちいさく舌打ちをする。
「そう……。妊娠はいいものよ。だって男を自分のところに繋ぎ止められるから。あの女だって、そうよ絶対妊娠したなんて嘘ついて……」
皐月は、目の前の女性を、『本能的』に警戒した。
女性の目が、あきらかに新生児室に来るような、複雑ながらも、それでも我が子や赤ん坊を見るような優しい目ではなかったのだ。
皐月は何も云わず、その場から逃げるように立ち去っていった。




