陸:『文車妖妃』~前~
皐月は町役場近くにある総合施設の一階ロビーの入り口でため息をついていた。
梅雨も半ばである七月中旬。久しぶりの快晴だったため、二週間近く借りていた時代小説を返しに図書館へとやってきていたのだが、来る途中、日照り雨に見舞われ、ずぶ濡れとまではいかなくとも不快な程に濡れていた。
「天気予報の嘘つき」
と、愚痴をこぼしたところで濡れてしまったものは仕方ない。
バッグからミニタオルを取り出し、濡れた髪を軽く押さえる。
――そういえば本、大丈夫かな。
別に自分のものなら濡れても特に気にはしないのだが、バッグの中には借りていた小説や葉月に頼まれて借りていた小学生向けの小説など十冊が入っている。
――よかった。濡れてない。
用心のためにビニールの中に本を入れていたので、汚れはない。
が、本を確認した時、皐月の髪に残った水滴が、一滴本に落ちてしまった。
「……あっ!」
声を出した時にはもう遅く、落ちた雫はページの上でジワッと円形に広がっていく。
――見なかったことにしよう。
そう判断し、皐月は本をバッグの中にしまい、図書室の中に入ろうとした時だった。
「――そうですか……。はい。分かりました」
今にも途切れそうなか細い声が、耳元から聞こえ、皐月はそちらを見ると、白いワンピースを着た、腰まである長い髪の女性が電子掲示板の前を行ったり来たりしていた。
皐月は耳が人よりもすこし衰えているため、離れれば人の会話は聞こえない。ちょうどすれ違った時に聞こえたのだと皐月は思った。
女性の顔が目に入ると、皐月が会釈する前に女性の方から頭をちいさく下げてきた。皐月も慌ててそれに倣う。
「誰かと待ち合わせだったんですか?」
無視すればいいのにと皐月は後で思ったが、口が先に出てしまう。
「――いえ、彼も忙しいんだと思います」
女性はゆっくりと諦めたような表情で答える。
ふと女性の手提げバッグに皐月が目をやると、ファスナーの引き手の穴に小さな本の形をしたキーホルダーが付けられていた。
その本には閉じるようにボタンが付けられており、俗にいう豆本と云われているものである。
「――懐かしい」
皐月がそう言うと、女性は驚いた表情で皐月を見やった。
「貴方もこれ知ってるの?」
「幼稚園くらいの時にキーホルダーが売っているお店でお父さんによく買ってもらっていたことがあるんです。色々種類があったけど、なによりこんな小さいものに文字が書かれていることが不思議で」
皐月は爛々と目を輝かせる。
「ひとつあげましょうか?」
女性にそう言われ、皐月は、
「あ、いえ……。すみません、がめついた態度を取ってしまって」
と断ると、女性は驚いた表情を浮かべた。皐月はそれに対して、首をちいさくかしげる。
「ごめんなさい。がめつくなんて言葉若い女の子から聞くなんて思わなかったから」
――自分だって若いじゃないか?
と皐月は思ったが、もしかすると若く見えるだけで実年齢はもう少し上をいってるんじゃないだろうかとも思った。
「あなた、図書室に用事があったんじゃなかったの?」
そう言われ、皐月はハッとする。
「そうだ。本を返しにきたんだった」
皐月は慌てた表情で図書室に行こうとしたが、振り向き女性に頭を下げた。どうして慌てていたのかというと、現在夕方の六時で、図書室が閉まる直前であった。
「これはひどいですな」
いつもながら自分の職業に億劫を感じてしまう。
そう思いながら、阿弥陀は電車のソファで凭れ死んでいる男性の遺体に目をやっていた。遺体の胸にナイフが一突きされたまま、足元に血溜まりができている。
「変な臭いがしてますね。なんかこうオシッコみたいな」
「恐らく殺害されたさい、恐怖のあまりに失禁したんでしょうな」
血だまりに紛れて尿が床に染み込んでいるため、車内に不快な臭いが広まっていた。
「バッグの中に学生証が入ってました。えっと『笹川直介』。T高校に通っている学生みたいですね」
「学生が飲酒ですか? 世も末ですな」
「珍しくはないと思いますよ。僕の高校でも不良はだいたい飲んでましたし」
阿弥陀はあきれた表情でため息をつく。
「とにかく検視に回して、我々は車内を捜索しましょう」
そう言われ、大宮と来ていた警官たちは敬礼し、散った。
「――んっ?」
阿弥陀は、被害者の手が握られていることに気付き、ゆっくりと開こうとしたが、死体硬直が進んでいたためか硬い。
ようやく開き終えると、一枚の小さな紙切れが床に落ちた。
それを拾い上げ、よくよくと見やった。紙はモザイクのような模様をしており、白いペンで文字が書かれている。
「漢字が大好きな子が今日だけは英数字を使ってきた。『445224』。これを知った友人はその日からいなくなった」
阿弥陀はすこし考え、
「うーむ、被害者はこれが解けたのか」
と呟いた。
「これって立派な犯行予告なわけですが」
よく見ると印刷されたものではなく、ちいさく手書きで書かれている。筆跡鑑定が出来ないわけではないが、細かすぎて判断がしにくい。
「それにしても妙に小さな文字ですな」
「豆本くらいのサイズですね」
「そちらはなにか見つかりましたか?」
そう聞かれ、大宮は首を振った。
「いえ、終電だった事もあって車内には誰もいなかったようです。まぁ時間が時間だけに乗客は疲れて居眠りしていたでしょうね」
「つまりは目撃者がいないということですか。防犯カメラは?」
「今線路上の各停車駅の駅員に連絡をして、防犯カメラを調べてもらっています」
どれくらいの人数が利用しているのか。朝や夕方のラッシュ時と同様混雑しているため、それに紛れて逃げている可能性もある。
また、被害者がどの駅から乗ったのかというのも調べる必要があった。
「ところで、大宮くん。これ分かります?」
「えっと、クイズですか?」
「まぁ、文章を読めば分かると思いますが」
そう言われ、大宮は阿弥陀から例の紙切れを渡され、見るや、
「犯人は殺す気だったということですか?」
「やっぱり分かりましたか」
阿弥陀はそう言いながら、ため息をつく。
「問題は被害者がこれを解けていたかですがね」
「解けていたと思いますよ。漢字が好きな人が突然英数字を使ってきたということは、メッセージを隠すつもりでいた」
大宮は近くにいた鑑識課の官田月を呼んだ。
「これを筆跡鑑定に出してください」
「でも、誰が書いたのか分かってるんですか?」
そう月に聞かれ、大宮は焦った。筆跡鑑定が出来ないわけではないが、その対象となる人物の癖が分からなければ意味がない。
「それに私たちが調べることを想定して、レタリングをしていますね。文字がゴシックや明朝をごちゃまぜにしたものですし、鑑定は少々時間がかかるかと」
月はそう忠告してから、やるだけやってみますと言い、車内を出て行った。
「さてと、我々は被害者の行動を把握しないといけませんね」
そう言いながら、阿弥陀は笹川直介のジャケットやらズボンのポケットに手を入れる。携帯、財布、鍵が出てきた。
「財布の中身は取られていない。怨みによるものですかな?」
「物盗りによる犯行だったら財布盗まれてますしね。ナイフから指紋は?」
「それは後ででしょね。今抜いたら血が固まってなくてドバッとってのがオチでしょうな。かなり深く左胸に刺さっていますし」
血管がナイフによって塞がれているため、血は流れ落ちているだけだが、それが開放されればダムの放水のように血が周りに散らばる。検視結果で分かったことだが、刃渡り十センチのフルーツナイフであることが分かった。
心臓まで到達しており、致命傷であったことは言うまでもないが、傷はその一点だけだった。
「えっと、どこにやったかなぁ」
「なにか探してるの?」
宿題を手伝ってもらおうと皐月の部屋に来ていた葉月がそうたずねる。
「うん。小さい時にお父さんから買ってもらった豆本のキーホルダーどこにやったかなぁって」
「鍵のかかったところじゃない?」
そう言いながら、葉月は勉強机の一番上の引き出しを指差した。
「いや、それも考えたんだけど、鍵がね」
皐月は苦笑いを浮かべながら言った。鍵穴は一般的な鍵の形状ではなく、棒を差し込んで回すタイプのものである。
「それも加えて探してるんだけど……最近開けてないなぁ」
皐月は机の下や、他の引き出しを引っ張りだして探す。机の周りは散らかる一方だった。
「――後でついでに整理しとこう。なんか一年の時のノートとか出てきた」
皐月は机の下にも身体を潜らせる。
「でも、なんで豆本?」
葉月の質問に、皐月は冒頭で出会った女性について説明した。
「ふーん。で久しぶりに豆本が読みたくなったってこと?」
そう言われ、皐月はうなずく。
「その中にさ、なんか最後まで解けなかったクイズがあったんだよね。小さかったからってこともあるんだけど」
「どんな問題?」
「えっと……、『ヒントを頼りにマス目を埋めていくと絵がでてくるやつ』」
「お描きロジック?」
「そうだっけかなぁ? お父さんは『ピクロス』って言ってた」
皐月はうーんと唸った。ピクロスとは、某有名ゲーム会社が制作したゲームシリーズの呼称で、『ピクチャー・クロスワード』からなる造語である。縦と横のマスの一番上と一番左にヒントとなる数字が書かれており、そのヒントを頼りに、その数字分マスを埋めていくと、次第に絵(もしくは文字)が浮かび上がるというパズルだ。
「あ、あった……、ったぁ!」
皐月は鍵が入った袋を見つけ、出ようとしたさいに頭をぶつける。
「大丈夫?」
「あぁ、大丈夫大丈夫」
皐月は自分の頭をさすりながら机の下から出てくると、引き出しの鍵を開けた。
引き出しの中には、様々なジャンルの豆本が入れられている。
「うわぁ、我ながらよく集めて……わがまま言ってたんだなぁ」
と、皐月は幼い自分にあきれはてる。
「えっと、あったこれこれ」
皐月は一冊の豆本を取り出すと、ページを捲りながら、小さい時に解けなかった問題を葉月に見せた。
「えっと、5×5のマス目を縦と横に書かれた数字をヒントに塗り潰しましょう……あれ?」
葉月は首をかしげた。
問題文のヒントは下記の通りである。
……縦のヒント
『1』・『1、1』・『1、1』・『25』・『1、1』
……横のヒント(左端から)
『4』・『9』・『1、1』・『9』・『4』
ピクチャークロスワードは限られたマスの数を埋めていくのだが、ヒントがそれ以上の数字を示してる。
「これって、お姉ちゃんが幼稚園の時に買ってもらったやつなんだよね?」
「そうだけど?」
そう言われ、葉月は納得する。道理で解けないはずだと。
「これってさ、掛け算じゃない?」
「でも掛け算なんて一言も」
「1以外の数字って塗り潰すマスと同じ数字をかけてるんだよ」
そう言われ、皐月は、「そういうこと」と納得した。
「そうなると、答えはこうなるわけだ」
要らなくなったノートを取り出し、ボールペンで5×5のマスを描くと、クイズのヒントに添ってマスを塗りつぶしていった。
(横書き) (縦書き)
□□■□□ □□□■■
□■□■□ □■■■□
□■□■□ ■□□■□
■■■■■ □■■■□
■□□□■ □□□■■
「できた。答えはアルファベットの『A』だったんだ」
長年解けなかった問題に、皐月は安堵の表情を浮かべる。
「ていうかさ、これヒントに答え出てない?」
そう言われ、皐月は葉月を見やる。
「『リンゴを英語でなんというでしょ?』」
……あっ!
皐月は唖然とした表情を浮かべるが、
「英語なんて習った覚えがないわよっ!」
と、半ば逆ギレしていた。




