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伍:『火車』~前~


 その言葉通り、見た目の『傷』がひとつもない『雌猫』が、『撫でるような声』を上げた。艶やかなその声に、初老の男は「ほう」と声をあげる。

「なんとも美しいからだだ」

 男はツッと雌猫の躯を、首元から下の方へと、人差し指でなぞっていく。その指が『性感帯』に触れるたびに、『雌猫』はピクンと躯を拒ませた。

「そんなに感じることはないだろう。触れているだけだ」

 初老の男はちいさく口角を上げた。『雌猫』は男の顔を見るや、

「もう……、やっ――」

 男が『雌猫』の言葉をさえぎるように、形のよい尻臀(しりたぶ)を強く握った。

 『雌猫』は大きく背中を反らした。

「お前はなにもしなくてもいい。なにも思わなくてもいい。お前は『雌猫』なのだからな」

 男の表情が大きく歪む。淀んだ水のように表情が読み取れないほどに歪んだ笑みだった。

 『雌猫』は肩を震わせ、恐怖に満ちた表情で男を見る。

「そうだその顔だ。もっとわたしに見せておくれ。可愛い可愛い――」

 突然、男の声が途絶えた。『雌猫』はなにが起こったのか分からず、自分に凭れかかってくる男から逃げるように、横へとずれていく。

 男の後頭部から、吐き気がするほどの血腥(ちなまぐさ)い臭いが、部屋中に広まっていった。

 なにが起きたのかまったく理解ができず、ただ呆然と目を見開いている『雌猫』は、目の前で鬼のように険しい表情をした『母猫』を見つめる。

 『母猫』は、震えた息を吐きながら、二度、三度と男の頭部を赤く染まった鈍器で叩き割る。

 部屋の中は飛び散った血で真っ赤に染まっていく。

「……っ!」

 『雌猫』は言葉を発しようとしたが、突然の惨劇に動揺してしまい、思い通りに口から出なかった。

 それに察した『母猫』は、ぎこちない笑みを浮かべながら、

「大丈夫よ。お母さんにいい考えがあるから」

 そう安心させるような口調で、男の足を掴むと、マンションの一番高い階の非常階段まで運んでいった。

 ……そして、そこから頭が下になるように、突き落とした。


「そろそろ時間か」

 夕暮れ時の午後六時。いつもは飄々としている拓蔵が、警察である阿弥陀たちがたずねに来た時でさえ見せないほどに、どことなく苛立った険しい表情を浮かべていた。

「爺様どうかしたの?」

 買い物から帰ってきて間もない皐月と弥生はなにがあったのか、葉月にたずねる。

「知り合いの人が事故で亡くなったんだって」

 そう言われ、皐月たちは納得した。普段見慣れない真剣な表情もそうだったが、拓蔵が羽織っていたのが、一般的なスーツの喪服だったからである。

「そういうわけじゃから、今日はもしかすると遅くなる」

「あ、それじゃぁ香典とかいるわね。ちょっと待ってて」

 そう言うと、弥生は箪笥の引き出しから不祝儀袋と筆ペンを取り出す。

「皐月、ちょっとコップに水を注いできて」

 そう言われ、皐月は台所に行き、コップに水を注いで戻ってきた。

 筆ペンの濃度を水で薄くし、試し書きで調度良い濃度にすると、不祝儀袋に書き慣れた手付きで、『御霊前(ごれいぜん)』と上部に書く。宗教によって書き方が異なるが、大抵は『御霊前』で事足りる。

 下部には『黒川拓蔵』と書き(しる)すと、自分の財布を取り出すや、そこから一万円札を取り出し、裏が表になるように収めた。

 ――こっちはこっちでちゃんと準備はしておったんじゃがな。

 拓蔵は、若干余裕があったのかとたずねようとしたが、野暮なことだと思い、聞かずに受け取った。

「爺様、そろそろバスでちゃうよ」

 葉月から急かされ、拓蔵は母屋を出て行った。

「さてと、夕食作らないとね」

「あ、私も手伝う」

 弥生と葉月の二人は台所に入っていき、皐月は着替えるために自分の部屋へと上がろうとした時だった。

『……昨日未明、東京都某所で転落事故があり、被害者の名前は京本福介。被害者は自宅マンションの踊り場から転落しており、遺体から大量のアルコールが検出されていることから、酔っ払っての転落と考えられ――』

 テレビの声が聞こえ、皐月はそちらに耳をかたむけた。

「あっ、皐月、テレビ消しといて」

 台所から弥生の声が聞こえ、皐月はテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを手に取り、テレビを消した。


 ギリギリバスに間に合った拓蔵が、通夜の会場に到着したのは、出てから三十分ほどたった頃だった。

 日はまだ沈んでおらず、西日が照っている。

 会場となったちいさな会館の入り口には『鯨幕』が掛かっており、受け付けにと設けられた長テーブルの前に、拓蔵と同じく喪服を着ている、初老の『警官』や若い『警官』たちが集まっていた。

「この度の訃報、まことに残念でなりません」

「自分は京本警視長にはよくしてもらって」

 という涙声が周りから聞こえてくる。

「黒川さん……来てくださったんですね?」

 パイプ椅子に座り、受付をしている初老の女性が拓蔵を呼びかけた。

 拓蔵はちいさく会釈をすると、

「りつさんから連絡を受けた時は驚きましたよ。あの班長が亡くなるなんて……」

 しんみりとした表情で云った。

「転落とお聞きしましたが、いやこれこそ野暮なことですな」

 拓蔵は極々当たり前の仕草でたずねようとしたが、言葉を止めた。

「いえ、いいんです。黒川さんは夫と同じ職場にいたんですもの。よく夫もテレビで流れる殺人事件の死因はとか――」

 女性……京本りつは思い出したのか、うっすらと涙を浮かべ、それを指で拭ぬぐった。

 拓蔵はそっと香典を差し出した。

「――神社の方大変でしょうに……」

「いやいや、孫が何も言わずに渡してくれたんですよ。いつもは財布の紐が硬いくせに……」

 無理に笑い話に持っていこうとしているのが目に見える。

 拓蔵にとって、この空気は嫌でしようがなかった。


 会場はおおよそ十畳ほどの広さがある広間で行なわれようとしていた。部屋の壁にも外と同様に鯨幕が貼られており、大小様々な弔花が飾られている。

 ここでも別れを惜しんでいる人たちの啜り泣く声が所々から漏れていた。

 拓蔵は棺の前にやってくるや、手を合わせ拝んだ。

『まったく、どうしてそんな……』

 仏は想像していたものよりも透き通るほどに綺麗な肌色だった。

 歳をとった皺くちゃな老人のわりには、本当に綺麗な顔をしている。

 拓蔵は、ふと違和感を感じた。

 りつから聞いた話では、目の前の遺体は酔っ払って壁に寄り掛かっていたところ、そのまま下へと落ちたという。

 その割には、頭部が妙に変形していない。

 後で分かったことだが、検視に出される前にできるだけ奇麗な状態で通夜をしたかったのだという。


 拓蔵がうしろを見ると、部屋に入ってくる人の数が落ち着いてきていた。

 連絡を受けた弔問客はこれで終わりだろうと、拓蔵は仕事関係者のところに座る。

 御通夜での座り場所を説明すると、棺を中心としてその前にお経を読む僧侶が座り、うしろには焼香台が置かれる。

 その三つを前にして、左側から葬儀屋から派遣された世話役と葬儀委員長、人が通る間を空けて喪主と遺族、そのうしろに知人や友人、間を空けて親族が座っていき、そのうしろを仕事関係者、間を空けて近親者が座る。

 僧侶が入ってきたことで、いよいよ通夜が始まると、拓蔵は数珠を片手に握った。

 僧侶がお経を読んでいる間に焼香が行われていく。

 そして拓蔵の番になると、焼香台の前に立ち、喪主であるりつに軽く頭を下げた。

 再び焼香台に体を向け、右手の親指・人指し指・中指、の三本の指で抹香まっこうを抓つまみ、、頭を垂れるようにしたまま、目を閉じながら額のあたりの高さまで捧げた。

『先輩……先輩はどうして急に亡くなったんですか? この前会った時は全然元気そうだったじゃないですか?』

 そう頭の中で云いながら、拓蔵は焼香を終え、自分が座っていた場所に戻ろうとしていた時だった。

「でも、本当急でしたよね?」

 若い警官らがぼそりと私語をしているのを拓蔵は耳にした。

 京本福介が最後に世話をしていた警官で、彼らもまたこの急な訃報に違和感を感じていた。

 それは仕事関係者のほとんどが思っていることだった。

 京本福介は定年退職し、警視庁を去った後も、心配なのか自分が世話をしていた警官によく会っている。拓蔵は警察を辞めた六年前までしか知らないため、来ている警官達の顔を知らなかった。


 お経が終わり僧侶が立ち上がると、京本りつと一言、二言会話を交わし、部屋を退場していく。

 僧侶が部屋からいなくなるや、京本りつがスッと立ち上がった。

「本日は大変お忙しい中、夫のために来てくださり本当にありがとうございます。夫も大変嬉しく思ってくださっていることでしょう」

 その言葉が引き金となったのかはさて置き、周りから再び啜り泣く声が聞こえてくる。

「それで、皆さんにひとつずつ弔花を渡し、夫の棺に入れていただこうかと思っております」

 その言葉に拓蔵は違和感を感じた。

 本来、弔花は通夜の次に行われる告別式にするものであるが、最近では一緒にすることも多いと云われている。

 娘である京本雨音が弔花が入った籠を持ち、それを弔問客に渡していく。

 拓蔵もそうだが、同じくらいの初老の警官たちは違和感を感じていた。が年代もそうだが経験の違いだろう。若い警官たちは首をかたむげる素振りすらしなかった。


「皆さん、花は行き渡りましたね。それでは……」

 りつがそう言った時だった。

 突然家の中が真っ暗になり、またどこから風が入ってきたのか、蝋燭の炎が消え、部屋の中は闇へと化した。

「みなさん落ち着いてください。雨音、ブレーカーの場所わかるわね?」

 そう云うが、視界は闇の中だ。

「わしが行こう。りつさん、ブレーカーの場所はどこじゃ?」

 拓蔵は横に座っていた警官からライターを借りて火を灯すや、ぼんやりとその周りだけが照らされた。

「入り口のすぐそばです。雨音、案内して差し上げて」

 そう云われ、雨音はうなずく素振りを見せた。

「こっち……」

 スーツの裾を引っ張る雨音に案内されながら、拓蔵はブレーカーの下へとやってくる。

 ライターでその辺りを照らし、場所を確認するや、落ちたブレーカーのスイッチを上げた。

 家の中の電気が点けられていき、明るさを取り戻していく。

「あっつ……」

 親指で擦って火を点けるタイプのライターだったため、頭の方は熱で熱くなっていた。

「大丈夫……?」

「んっ? ああ大丈夫じゃよ。さぁみんなのところに戻ろう……」

 拓蔵と雨音が客間に戻ろうとした時だった。

 突然女性の悲鳴が聞こえ、二人は急いで戻るや、客間の中は騒然としていた。

「ないっ! ないっ! ないっ! ないっ!」

 りつが棺の中を半狂乱になりながら何かを探している。

「い、一体何が?」

 拓蔵は近くにいた弔問客にたずねた。

「わ、わかりませんけど……電気が点いたから別れ花を入れようと棺の蓋を開けたら……そ、その……」

 弔問客はガクガクと震え、声がしどろもどろになっている。


 拓蔵は意を決して、棺の前へとやってくるや、その光景に唖然とした。

 本来棺の中には何がある?

 十中八九、死体が入っているはずだ。

 だが、その死体が綺麗になくなっていた。

 拓蔵は振り返り弔問客を見渡した。

 通夜の最中、棺を扱った人間はいない。

 むしろそんな罰当たりなことをする人間などいないだろう。

 だが一瞬停電が起き、人の目が隠れるような状態がある。

 が、誰が特をする? 死体を盗み出して……何の特が?


 拓蔵はただならぬ空気に飲まれていた自分に活を入れるかのように大きく咳払いをし、

「警察に連絡はせんのか?」

 周りの『警官』たちに言い放った。

 横にいた雨音がキョトンとした表情というべきか、不思議そうな目をして首をかしげている。

 この家に来ている人間の何人かが警察の人間である。だからこそ不思議に思ったのだ。

「この中に鑑識班の人間はおるか?」

 拓蔵がそうたずねると、まばらではあったが一人、二人と手を挙げていく。

「君たちは建物の中から『粉』を取ってきてくれ。他に筆とセロハンテープも持ってきてくれ」

 まるで上司に云われたような感覚に陥った警官の二人が、背筋を立てると無意識に敬礼し、急いで云われた物を探しに広間を出て行った。

「それから、あの二人と雨音ちゃん以外、わしがブレーカーを上げに行っているあいだと、今の人数が合っているか確認はできるか?」

「ここに弔問客の帳簿があります」

 そう云って、帳簿を手渡したのは世話役の人間であった。帳簿には『慳貪屋(けんどんや)』と書かれている。

「僧侶にも連絡を。彼にも疑いがあるからな。鑑識の手伝いをする者以外は他の弔問客への聞き込みと出入口の警備。並びに不審な人物がいなかったのかを外で訊きに行ってくれ!」

 拓蔵は帳簿に書かれている弔問客の名を呼びながら確認を取った。


「……何なんですか? 一般人が……」

 一人の若い警官が拓蔵に食ってかかった。先ほど福介の死に違和感を持っていた青年だ。

「あなた、一般人ですよね? それなのに、どうしてそんなに冷静でいられるんですか? それに私たちはあなたに命令される筋合いはありません!」

 たしかにそうだと、他の若い警官たちが頻りに言い出す。

「――やめんかぁっ!」

 そう声を張り上げ、若い警官たちを制止したのは、拓蔵にライターを貸した老刑事だった。

 彼と同じくらいか、少し歳老いた警官たちも、若い警官たちをジッと睨みつける。

「で、ですが……」

 その険しい表情に、若い警官らはたじろぐ。

「お前たちは目の前のことしか頭に入っておらんのか? この人は、わしらと一緒の場所に座っておったじゃろ?」

 しかし、若い警官らが通夜の経験などあるかないか。座り場所に詳しいわけではない。

「いの一番で行動しなければいかん我々警察が、まるで独活の大木と言わんばかりになにもせんとは、これでは京本警視長に示しがつかんじゃろ!」

 老刑事がそう言うと、若い警官たちは口を閉ざした。

「――さぁ彼に云われたことをせんかぁっ!」

 そう言われ、各々が行動をし始めた。


「助かった。礼を言うぞ」

 拓蔵はそう言いながらちいさく苦笑いを浮かべた。。

「いやいやお止めください。私目(わたくしめ)には勿体ない」

 先ほどとは打って変わって、老刑事は腰の低い返事をした。

「しかしさすが黒川『警部』どの。プランクを感じさせない指示でした」

 老刑事は拓蔵に対して敬礼をする。他の初老とまではいかないか、それくらいの警官たちも同様だった。

「もう辞めて六年以上経つんじゃがな。それとひとつ調べて欲しいことがあるんじゃが、良いかな?」

 そう訊かれ、老刑事や周りの何人かがうなずいた。

「今回の京本先輩の死因じゃ。話では転落と聞いていたが妙に奇麗すぎる」

「黒川元警部の仰る通り、警視長の死について私達も不審に思っていたんです。ですが……」

「――分かっておる。わし()これ以上首を突っ込まんよ」

 拓蔵が諦めた声でそう云う。いくら元同僚とはいえ、辞めた人間にこれ以上事件に関わってほしくないのだ。

 ――が、老刑事は出来れば参加して欲しいと思っていた。

 本来ならば自分たちが指示をしなければいけないのだが、いの一番に拓蔵がしてくれている。それも的確に……。


 先ほど粉と筆を持ってくるようにいったのも、指紋を取るためである。指紋検出には主に『アルミニウム粉末』を刷毛で塗布(とふ)して検出する『粉末法』や、『エチルアルコール』に『ニイヒドリン』を微量に混ぜて噴霧(ふんむ)し、それをドライヤーやアイロンなどで加熱させて反応を出す『液体法』などがある。

 弔問に来ている何人かが警察だと知っていた拓蔵は、指紋検出に使うため取りに行かせたのだ。


「持ってきました」

「佐々木くん、阿弥陀警部や湖西鑑識官が来る前に……」

 拓蔵にそう云われ、老刑事――佐々木は頷いた。

 持ってきた粉を筆に少量つけ、棺の蓋の裏上下それぞれに付けていく。手に持つ場所がちょうどその部分になるからである。

 棺を開ける際、その部分に指紋は強く残ることを拓蔵は知っていた。

 徹底的にするために他の部分にも付けるのだが、この方法では強く指紋を押した部分しか検出されない。


 それから数分後、通報を受けた阿弥陀警部ら捜査一課は、現場状況に呆然としていた。

「こりゃ、私たちの出番はないでしょうねぇ?」

 事件が起きてから小一時間。ようやく来た阿弥陀が唖然としているのも無理はない。

 拓蔵の指示によって、聞き込みや実況見聞などは既に済ませていたからだ。事件にとって初動捜査が最も重要で、これがしっかりしているのとしていないのでは、雲泥の差が出てくる。


 喪主である京本りつと遺族である娘の雨音。

 葬儀実行委員長と世話役の女性が二名の三人。

 親族は弟である京本萩助と妻、その子供の兄妹のみで四人。

 知人、友人が五人来ており、近親者は従姉弟いとこの京本亘輝一人の計十五人。

 そして残った仕事関係者。つまり警官となっている。

「湖西は来ておらんみたいじゃな?」

 周りを見渡しながら、拓蔵は阿弥陀にたずねた。

「あれ、神主さん……?」

 阿弥陀と大宮が首をかしげる。

「湖西刑事なら、ちょっと休んでますよ。まぁ低い体勢で作業をしていたらしくて、腰の調子が」

 大宮が苦笑いを浮かべながら、説明する。それを見て、拓蔵は失笑した。

「やはり歳には勝てんかな?」

 だが、やわらかな表情は一瞬にして、険しい物へと変化していった。

「阿弥陀警部、今回の事件……もしかするとあの子らの力が必要かもしれんぞ?」

 拓蔵にそう言われ、阿弥陀は訝しげな表情を浮かべた。

「どういうことですかな?」

「棺の中に入っていたはずの京本福介の死体が無くなっていた。しかも全員が見ている通夜の中でじゃ。一回だけ部屋の中が停電で真っ暗になったが、その間、五分とない」

「さらに言えばそのあいだ、先輩は京本警視長の娘さんである雨音さんと一緒にブレーカーを上げに行っていたあいだ、全員その場を動かないようにしていたし、家から出たものはおらんかったよ」

 佐々木が付け加えるように言った。

「つまり……その間、『全員が全員のアリバイを証言出来る』というわけですかな?」

「一瞬の隙があったとしても、まぁそうなるわな……」

 阿弥陀はそう聞きながらも、どうして拓蔵が皐月たちの力が必要なのかが気になっていた。

「何か、妖に関するものがあったんですね?」

 そう言われ、拓蔵は阿弥陀と大宮を棺の前まで連れていくと、ある場所を指さした。

「こ、これは……爪痕?」

 そこには本来あるはずがない、猫が引っ掻いたような爪痕があった。

 拓蔵はそれを見ながら、納得の行かない表情を浮かべる。

「どうかしましたか?」

 佐々木が覗き込むようにたずねた。

「この状況で妖怪の仕業じゃとしたら、考えられるのはあれしかないんじゃけど」

 拓蔵は部屋のすみで邪魔にならないようにと座っているりつと雨音を見やった。

「なにか先輩について噂は聞いておらんか? 誰かに恨みを買われるようなものは」

「いえ、特には……」

 佐々木が申し訳ない表情で云った。

「まぁ、我々の職業が職業ですからね。怨まれるのも慣れっこですよ」

 阿弥陀が砕けた表情で言う。

「阿弥陀警部、空気読みましょうよ」

 大宮があきれた表情で言った。

 拓蔵は一人、考えに耽っていると、

「あの、ここからは我々がしますので、その黒川さんは――」

 若い警官が申し訳ない表情で言った。

「ああ、スマンな」

 拓蔵は時計を見やった。時間はすでに十時を回っている。


 停電の時、数分ではあったが、そんなに消えてから点くまでの間隔は開いていない。云ってしまえば前に座っていた数人にしか、遺体を消すチャンスはなかったのである。

 棺をくまなく調べてみたが、人を隠すような特別な仕掛けもされていない、極々普通の棺だった。

 また、拓蔵が思い浮かべている妖怪は、伝承にもよるが、この状況で考えられる特徴があった。

 その特徴が妙に引っかかっていたのである。

 ――『火車』は『罪人』を連れ去ると言うが、先輩はなにか罪を犯していたというのか?

 拓蔵は時間的に遅くなってしまったため、後ろ髪をひかれるような形で、現場を後にした。


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