不安な彼女
「君がジェアのことを気に入っているのはわかる。そして、ジェアが君のことを気に入っているのも、私はよく理解出来ている。だからこそ、君にこの話をしたんだ。恐らく、ジェアはこの話を君にすることはない」
ヒューゼは過去の話に一区切りを入れ、そして青井の反応を窺いながら再び話始めた。
「だって、理由は君でもわかるだろう」
青井はその言葉に一瞬だけ逡巡し、言葉を偽っても仕方がないだろうと思い、言葉を口に出す。
「自分に恐れを抱かれたくないから……ですか」
「あぁ、そうだ。これでも結構彼女と長い間暮らしているんだ。大人びた雰囲気の彼女でも、恐れを抱かれることほど恐いものは無いんだ」
青井はヒューゼの顔を見てみる。彼の顔は必要以上に強張っているように思えた。眉間に皺が寄っており、心なしか目つきが鋭い。
「……青井殿。この話を聞いて少しでも恐れを感じたのであれば、君はジェアを拒絶すべきだ」
ヒューゼはそう言って、紅茶を口に含んだ。青井もそれに倣うように紅茶を口に含む。先程まで湯気がたっていた紅茶も、今では冷め切ってしまっていた。
しかし、さすがヒューゼの淹れた紅茶であるのか、淹れたてよりも少しだけ風味が劣っただけで、確かに美味しい。
青井は乾いた喉を紅茶で潤わせて、そして厳しく且つ不安そうな表情を浮かべているヒューゼに向かって言った。
「たぶん、僕がジェアさんのことを嫌いになることなど、多分無いと思います」
「……それは、何故?」
「――だって、それは過去のことでしょう?」
ヒューゼに向かって青井はそう言い放つ。微かに、一瞬だけヒューゼの表情が崩れた。それは驚愕を表しているのかもしれない。
青井は知っている。過去という確執に囚われ続けてしまえば、未来さえも見ることが出来ない。
ジェアは、ヒューゼの話の中でなら、ジャック・ザ・リッパーも顔負けな殺人鬼になるかもしれない。彼女が多くの人間を屠ってきたのは、ヒューゼの話からでも理解できた。そして、そんな彼女に恐れを抱く人間も数多くいるだろう。
しかし、だからどうだというのだろうか。
今のジェアは、お淑やかで素晴らしい少女ではないか。
「僕は、過去のジェアさんを否定するつもりはありません。でも、今の彼女は、レベトリア怪盗団に所属しているキリングマシーンじゃ、無いです。正真正銘の、歳相応の可愛らしい女の子じゃないですか」
青井は、自分が思った言葉を、そのまま言葉に出し、ヒューゼに伝えた。ヒューゼは暫く無表情を貫いていたが、破顔させ朗らかな温厚な表情になった。
「君なら、そう言ってくれると思ったよ、青井殿」
そう言ってヒューゼは立ち上がって体を左右に伸ばす。人間と体の構造が同じなのか、小気味の良い骨の音が鳴った。先程の緊張した雰囲気から一変し、緩んだ空間となったリビングの状態に、青井は思わず笑ってしまう。
「さて、じゃあ私は新しい紅茶でも汲んでくるよ。君もいるだろう?」
「あ、お願いします」
「ハハハ、さて、少しだけ長く話しすぎたかな? 頑張ってね」
「え、何を」
不可解な言動をするヒューゼに疑問を呈するも、ヒューゼは先程の朗らかな笑みとは違う嫌らしい笑みを浮かべて、リビングを後にする。
青井は暫くはヒューゼが立ち去った扉を見ていたが、釈然としないながらも視線を紅茶へと落とした。
紅茶は淀みない深い紅色で、微かに波打っている。そして、そこには波打つ青井の背後の景色を映し出していた。
アンティーク調の本棚、小物、色褪せた子熊の人形、芸術品の品々。
そして、悠然と佇むメイド服を見に包む、ジェアだった。
「うわッ!?」
余りにも自然に背後を取られていたので、反射的に飛び退いてしまう青井。
「……ジェア、さん?」
しかし、ジェアは青井が飛び退くような失礼な行為をしてしまったのに、何のリアクションを起こさないどころか、顔を俯かせているせいで表情すら窺うことが出来ない。
「あの、ジェアさん」
青井は心配になり、ジェアの下に近づく。
そして、気が付いた。よく見ないと分からない程度だが、肩が少しだけ震えているのだ。それは、何か感情を押し殺しているようにも見えた。
「ジェア、さん?」
なるべく優しい声音を意識しながら青井はジェアに近づく。
すると、ジェアが口を開き、微かに掠れた声音で、青井に問い掛ける。
「……青井、さん。私を、怖く思ったりしますか?」
その言葉は青井の耳まではっきりと届いた。
掠れた声は、自分の感情を抑圧することに一生懸命になっている証だ。肩が震えているのは、青井に対して自分の弱さを気付かせないための気遣いだ。
しかし、何に対してジェアは感情を抑圧しているのか。答えは簡単だった。
ヒューゼが言っていたことではないか。
『恐れを抱かれることを恐れている』
ジェアは今、青井がジェアに対して恐れを抱くことを恐れているのだ。
「君は、ヒューゼさんと僕の会話をずっと聞いていたのかい?」
「……はい、すみません。盗み聞きをしてしまって。でも」
「いや、いいんだよ」
青井は別にジェアのことを叱りたいわけではない。そもそも怒られるべきなのは、本人の了承も得ないで身内話を聞いた自分の方だと青井は思っている。
「青井さん。私は、あなたのことを、好きでいたいと思っています。でも、あなたが私を嫌いになってしまう、の、で、あれば……私は、ただのメイドとしてあなたに振るまいます。今までのことは、全て忘れてもらっても」
ジェアはそう静かに語る。それはとても平坦で、区切れていて、機械的だ。それは明らかに彼女が感情を抑圧し、青井のことを傷つけまいとしている証だった。
しかし、青井はそのことに対して静かな怒りを抱いていることに気が付いた。
「ジェアさん」
青井はジェアの言葉を遮るように、言葉を放った。
そして、
「え」
ジェアの頭をくしゃくしゃと髪が乱れるほどに撫でる。
ジェアの髪の毛はとてもサラサラとしていて、撫で心地が良かった。身長差がかなりある二人であるからにして、撫でやすい。
「青井さん?」
困惑しているのか、ジェアは語尾を微かに上げるように青井に問いかけた。しかし、青井は返事をしない。
青井の腕の動きに身を任せるように、首を左右に動かしながら、ジェアはゆっくりと青井を見上げる。
俯いていて見えなかったジェアの表情がやっと見えた。そして、青井は思わずジェアの表情を見て、思わずクスリと笑ってしまった。
泣かないように表情を強ばらせた結果か、口元を一文字に締め、眉間に深い皺が寄っている。しかし、それでも涙を堪えることが出来ないようで、目の端には大量の涙の粒が溜まっていた。それも溢さないようにか、目を細めているせいで目の端に小皺が寄っていた。
「ジェアさん、勝手に決めつけないで下さい」
「……青井さん?」
「僕は、今結構怒ってるんですよ?」
「……え?」
「あなたみたいな女の子のことを、恐いだなんて思うはずないじゃなですか」
青井はそう言って、笑みを浮かべた。別に表情を形作ったのではない。ジェアが涙で目を潤わせて、こちらを見上げている姿は小動物を彷彿とさせて、思わず顔がニヤけてしまったのだ。
というか、何だか物凄くキザなセリフを吐いてしまい、青井は顔を背けたくなった。それを示すように青井の顔はみるみる紅潮している。
怒っていると言いながら、顔は紅潮させ且つニヤけている青井は何だか格好がつかない。
「か、可愛いだなんて、そんな」
しかし、青井の頬が赤くさせているのと同じようにジェアは頬を赤くさせ、また俯いてしまう。しかし、それは先程とは明らかに違う理由で、だろうことは察せられた。
青井はその姿を見て、再び微笑む。
「それに、僕は君が殺人鬼でも大丈夫だって、思う」
俯いたジェアの頭をまた撫でながら青井は言う。
「だって、僕は不死身だからな。斬り裂かれたり、溶かされたり、引き千切られても生きてる」
痛いのはゴメンだけどな、と付け加えながら言う青井。
そう、青井は基本的に死ぬことはない。それはこの世界に到着した瞬間、即死の重症を負ったにも関わらず、驚異的な回復能力によって回復したことが証明している。とは言っても、この不死性の全てを把握しているわけでも、もちろんない。
逆に、青井の身に宿っている不死性に関しては、謎ばかりだ。
けれど、青井は確信している。
もしもジェアが青井を殺しに掛かってきても、青井が殺されることが無いだろうことを。
「あ、あおい、さん」
ジェアが呟いた声は、先ほどのような機械的な声音ではない。もちろん、平坦でもない。
それは正真正銘、女の子が泣いている時に出す、感情を露わにしている声だった。
「ほら、泣きたきゃ泣けばいいんだ」
青井はジェアの背中にそっと手を回し、優しく抱きしめた。ジェアはその行為に驚いたのか、体を一瞬だけ震わせたが、やがて青井に体の体重を預けるように凭れかかった。
「あ゛おい、ざん」
青井の胸に頭を擦り付けながら上擦った声で繰り返し青井の名前を口に出すジェア。青井はそんなジェアを落ち着かせるように、背中を優しく撫でる。
「やっぱ、あなたが、好きです」
それは青井に言っているようにも聞こえたし、自分の言い聞かせているようにも聞こえた。青井はただただそれに頷きながら、背中を撫で続けた。
「おうおう、見せてくれるのう」
青井はジェアが泣き止むまで、彼女のことを抱き締めていた。ある程度落ちついたジェアは、醜態を晒したという自覚があるのか、青井のことを直視出来ないでいた。
ヒューゼが戻ってきて、この気まずい空気を改善してくれることを望んだ青井であったが、いつまで経ってもヒューゼが戻ってこない。
そのことを口に出すと、どうやらヒューゼは紅茶を注ぎに行ったのではなく、何やら用事があると外に出て行ってしまったらしい。
何だかヒューゼの手のひらの上でダンスしているようで気分の悪い青井であったが、取り敢えずまだ少しだけ涙ぐんでいるジェアを彼女の個室まで送り届けた。
そして、自室に戻るとさも当然のように、青井のベットの上ではアルジェントヴォルフが胡座をかいて青井のことを出迎えてくれていた。
青井はアルジェントヴォルフが何故、自分の部屋にいるのか尋ねようとしたが、止めた。
「何だ、見ていたのか?」
「いいや、ここから聞いていたのじゃ。うむうむ、人の恋路というのは、中々に甘美なモノじゃのぉ」
「趣味が悪いぞ」
「我が恋敵の偵察じゃ。これもお主を儂に惚れさせるための作戦なのじゃ」
「偵察って……」
青井が呆れながら言うと、アルジェントヴォルフが物凄い勢いで銀色の尻尾を振りながら、青井に近づいてくる。そして、そのまま青井に抱きついた。
「お、おわァ!? お前、何して」
「こうやって儂の気高き匂いを其方に擦り付けるのじゃ」
青井の言葉を遮るようにアルジェントヴォルフは、上目遣いで青井を見上げる。青井は思わずなんとも言えないような顔をしてしまう。生来の性格で、あまり押しには強く出られないのだ。
そのことを見きったのか、アルジェントヴォルフはそのまま、青井の胸に頬を擦り付ける。アルジェントヴォルフは基本的に人間よりも力がかなり強い。だからなのか、青井はそのまま地面に押し倒されてしまった。
「青井……其方はこんなか弱き少女の体も支えられんのか」
「す、すまない」
何故か残念そうに呟く青井に、生前の癖でつい反射敵に謝る青井であった。
しかし、残念そうな声音で先ほどのセリフを言ったはずなのに、それでも青井の上に乗りかかっているという状況が嬉しいのか、獰猛な笑みをアルジェントヴォルフは浮かべた。そして、そのままぺたりと青井の上に寝っ転がった。
「お、おいおい。アルジェントヴォルフ。お前……」
「あの小娘には、あのような所業を許しておいて、儂にはさせてくれんのか」
こう言われてしまえば、青井は何もすることが出来ない。青井はまるで降参するかのように両手を挙げて、アルジェントヴォルフに服従の意を示した。
アルジェントヴォルフは青井のその行動の意味を理解し、そのまま頭を青井の胸にぐりぐりと押し付ける。それは、先程ジェアがやっていた行動の模倣なのだろうか。
青井には分からない。
ただ、青井はアルジェントヴォルフの頭を撫でてやる。すると、今度は撫でている手に対してアルジェントヴォルフは頭を擦りつけ始めた。
驚いて手を引こうとすると、アルジェントヴォルフ持ち前の状況反射能力で、青井の手を、彼女の小さな手で掴み、そのまま頬擦りをする。
「なんだか、小動物みたいだな」
「儂は小さくて可愛らしい少女の姿をしておるからの。この姿を利用しないわけにはいかないのだ」
小さな少女の姿を利用した策で、籠絡されてしまえば青井はロリコンというレッテルを貼られてしまうことになるのだが、青井はそんなことを口にせずアルジェントヴォルフに全てを任せる。
そして、幾許かの時が経った頃合いだろうか。
ふと、耳を傾けるとカツカツと何処か固い足音が聞こえ出した。
「アルジェントヴォルフ、さすがに終わりだ」
「うぬぬ、惜しいけれど、我儘なだけの女だとは思われたくないからの。これで勘弁してやるのじゃ」
アルジェントヴォルフは残念そうに顔を歪めながらも、青井の上からどいてくれた。
青井は服の乱れを直しながら立ち上がり、苦笑した。
「今後、今みたいなのは勘弁してくれよ」
「うむむ、儂の魅力に其方は気が付かなかったのか? 男は甘える女に弱いと本に書いてあったのにのぉ」
「あはは……」
思わず青井は乾いた笑いが出た。アルジェントヴォルフは外見的な幼さ故に、彼女が甘えるような行動に出ると、女性特有の色香が出る甘えではなく、子供特有の甘えに見えてしまうのだ。
「取り敢えず、頭を撫でてやるぐらいのことはいつでもしてやっから」
それをアルジェントヴォルフ本人に言うわけにもいかず、青井は話題を逸らすかのようにそう言った。
「ふむ、まぁそれでよい」
アルジェントヴォルフはそう言って、青井の部屋の扉に近づく。
「戻るのか?」
「あぁ、そうしようと思う。取り敢えず、昨日来たままの服装で、外にでるわけにはいかんのでな」
アルジェントヴォルフはスカートの裾をつまむ。
「今まで着たことの無い服であったが、これはこれで可愛らしい。儂の好みじゃ」
「そっか。よかったな」
「ふふ、もっと可愛らしい服装を着て、其方をのうさつ? をしてやるから、首を洗って待っておれ!!」
朗らかな笑顔でアルジェントヴォルフはそう言うと、スカートの裾をわざとらしく翻し、青井の部屋を後にした。
思わず青井は嘆息するが、まるですれ違うかのように、扉を開ける音が聞こえた。扉に視線を寄越すと、そこにいたのは小脇に資料を抱えているレイであった。
あいも変わらずの無表情である。
「おはようございます、アオイさん」
「あぁ、おはよう」
部屋に入ってきたレイは青井にぺこりとお辞儀をしながら挨拶する。青井も礼儀正しく挨拶を返した。
「私とヒューゼ様は準備が出来ましたので、アオイさんも準備が出来次第下に降りて下さい。フードも忘れずにおねがいしますね」
「分かった」
ただ端的に要点を纏めた数回の言葉の応酬だけで、会話が終了したようでレイは青井の扉を出ようとした。しかし、ドアノブに手を掛けた瞬間に、立ち止まった。
「ん? どうかしたのか?」
「あの……、いや、なんでもありません」
言葉を言い掛けたレイだったけれども、途中で言葉を紡ぐのを止めて口を噤んだ。
「その、失礼しました」
「え、あの、レイさん?」
そう呼び止めようとするも、レイは青井の言葉を聞かずに部屋を出て行ってしまった。青井には心なしか急いでいるようにも見えた。
「……一体何なんだ?」
青井は釈然としないながらも、考えてもしかたがないと思い、準備をし始めた。
すると、先ほどの釈然としない感情は、荷物を準備していく内に薄れていき、消えていってしまった。