第一章~開幕~
「――――――――――――――――――――――――っはぁ!」
カーテンの隙間から差し込む日が眩しい。窓の外ではやかましい小鳥たちがちゅんちゅんと朝の合唱コンクールを行っていた。
年甲斐も無く悪夢に叩き起こされたらしい。その証拠に寝巻きが汗でぐっしょりになっていて気持ちが悪い。どうにも寝覚めが悪かった。。
「………………………………んー…………あー………………」
二言三言呻いてみる。僕の頭の中は眠気のせいなのかはたまたもっと深刻な何かのせいなのかはわからないが靄に包まれたようにぼうっ、としていた。
働かない頭で状況を確認。
「……………………んー?」
あれ、僕は昨夜どこで眠りに落ちたんだ?まったく記憶がなかった。この年から痴呆が始まっているのではないかと少し不安になりながらベッドから腰を上げた。まずはシャワーでも浴びよう、と不愉快に絡みつく汗を感じながら部屋を見渡すと、ある重大なことに気づいた。
「…………………………………………………………………………」
ここ、僕の部屋じゃねぇ。僕の部屋にはそもそもベッドなんか無い。
「………………あれ? 」
ここがどこなのかわからない。そしていつここに来たのかわからない。
これって結構やばいような気がしてきて。
「………………………………」
拉致か。
僕の脳内細胞が一瞬にして眠気を吹き飛ばし、冷静な判断を下せるような状態まで意識レベルを高める。
質問、この状況は何なんだ?
回答、拉致監禁及び生命の危機。
「………………………………ううむ」
正直、わけがわからない。だいたい僕なんかを拉致して何の得になるというのだ。確かに最近はとある事件について探ってたりはしていたが、こんなことをされるほど恨まれるはずはない。
とりあえず、僕はここから脱出することを最優先とし、出口を探すために部屋をぐるりと一周見回して見た。ドアしかなかった。
ドアがあった。
「……………………………………………………………………………………………………」
これはもしかすると、監禁ではないのでは?
僕の頭の中に疑問が浮かび上がってきた。
浮かび上がらないほうが幸せだった。
自分の不甲斐なさと痛々しさに赤面しつつ、
「……………………ま、いっか」
と誰に言い聞かせるでもなく呟いてそそくさとドアノブに手をかける。案の定ドアはあっけなく開き、僕の痛々しさをより激しく主張することとなった。
ドアの向こうから日の光が差し込んでくる。
やはり知らない家だった。僕の家はこんなに小奇麗としていないし、そもそもアパートであって階段は玄関を出て右に曲がらないと見えないはずだ。
とりあえずここに突っ立っていても仕方が無いので階段を下りてみることにする。
とん、とん、とんとん、とん、とんとんとん、とん。
階段を下りたその先、玄関には見知った顔が居た。
「ふわ。今起きたのか?随分と寝ぼすけなのだな君は」
「いや、あなたも今起きたばかりでしょう」
パジャマ姿の女性が玄関前で仁王立ちしていた。その女性は長い髪をたなびかせてくるりと振り向き、「おはよう」と笑顔で言った。
大学の一年上の先輩、東雲 陽凪であった。
「あれ、ここは東雲先輩の家なんですか?」
「あたりまえだろう。君は私の家に泊まりに来たのではないか」
さも当然、という風に先輩は語るが僕にはそのような記憶がまったく無かった。
「………………………………あー。まさか、まったく覚えていない、などと抜かすのではないよな?」
「まったく覚えていないですね」
「……………………………………………………」
思いっきり呆れられた。
そりゃそーだ。
「…………で、どういう経緯で?」
「君が『先輩の家で一夜をともにしたいのだぜ』と言ったので、私はその誘いに乗り君に私の体を委ねたのだ」
「……………………………………………………」
「……………………………………………いやん」
先輩に対して敵意を持ったのは初めてではないが、殺意を持ったのは初めてだった。
そんな十九の冬。
やっと頭が覚醒してきた。『自分』を認識、出来る。
僕の名前は、雛嗣 七志。自分でもわかってる。変な名前だ。非、無し。名、無し。
父親がなんで僕にこんな酔狂な名前を与えたのか?それには理由があった。
「虐められ、『負ける側』の心を知ってほしい」
そういう願いの現れとしてこの名前に決まったそうな。まったくもって意味不明。
親の心子知らずとはまさにこのことである。
そんな僕も様々な試練に打ち勝ち見事志望大学に合格。キャンパスライフを堪能しながら素晴らしき日々を送っていたのだった。
数ヶ月前までは。
そう、数ヶ月前。大学生活開始から一年と一ヶ月が過ぎようとしているとある日のことであった。
二年生となった僕は友人からある相談を受けた。
『ストーカー被害にあっている。助けて欲しい』
今思うと、これがすべての始まりであった。
ストーカー?そんな生易しいものじゃなかった。
殺人。ヒトゴロシ。いや、殺人鬼。
僕はその事件を見事解決してしまった。
鮮やかに、美しく、艶やかに。模範解答をたたき出し。圧倒的な調和性を見せつけて。
犯人を弾劾し、尋問し、糾弾し。僕は、殺人事件の解を導き出した。
そのおかげで僕は大学内で有名人となり、毎日毎日僕の下へ『事件』が舞い込んでくることとなった。殺人窃盗ストーカー。痴情のもつれに三角関係。挙句の果てには猫探し。
そんな生活を送って数ヶ月がたったころ、僕は学園長から『探偵』の称号と、正式な活動権利を賜った。
そう、『探偵』。
世間一般には馴染みは無いかもしれないのかもしれない。だが、あいにくと僕は世間一般から林檎一個分ほど離れている。特異な家庭環境のせいで馴染みが深すぎるのだ。
なんせ母親が『探偵』なのだから。
僕が物心ついたときから母はやり手の探偵として働いていた。その所為か僕は母譲りの超人的な『推理』『調査』の能力を保持しており、まさに探偵に成るために生まれたような人間であるらしい。
そんなこんなで現在は冬季休校中。僕は探偵活動を手伝ってくれている友人たちとの思い出作りに勤しんでいるのであった。
「車を出してくれないか?」
先輩とともに朝食(トーストのみ。バター無し)を摂りながら今日の行動日程の打ち合わせをした結果、大学に赴くこととなった。
「僕と先輩の通う大学はここから車で三十分ほどのところにあり、歩きで行くにはちょっとばかり遠い。そこで便利になるのは『後輩』と『車』、つまりアシである。
先輩の家には車が二台あるが先輩自身は自動車免許を持っていない。
これは暗に後輩をアシに使う気満々である、ということ指し示す。
先輩はその類い稀なる美貌によって後輩を誑かし自らの移動手段に仕立て上げる。
先輩に魅了されれば最後、いや最期である。奴隷のようにこき使われ、雑巾のように使い倒され、挙句の果てに使えなくなった乾電池のように見向きもされずに棄てられる。
だが、棄てられた奴隷達はそれを最大の幸福と受け取る。
そんなまともな感覚を根こそぎ奪われた人間を量産し続ける魔女。
それこそが先輩の本性である」
「……………………………………………………………………………………………………」
「…………………………やだなぁ、冗談ですよ。そんな可哀相な人を見る目はやめて下さい」
一応フォローしておくと、先輩はごく普通の優しいおねいさんであり先述したような魔性の女ではない。二台の車はそれぞれ僕の車(中古)と先輩のお兄さんの車(ピカピカの外車)である。
仕返しになっていない仕返しも終わったことだし、そろそろ仕事モードに入ろう。
すうっ、と新鮮な空気を吸い込む。
脳内、心臓、肺、臓器、四肢。
徐々に酸素が補給されていくのがわかる。
車のキーを、宙に放る。
重力に従い、落下する。
それを僕はぱしり、とキャッチする。
「さぁ、行きましょう」
これから始まるのは。
救いも決意も覚悟も愛も勇気も希望も絶望も憎悪も嫉妬も優しさも辻褄合わせもご都合主義も整合性も予定調和もお約束も理想も血も涙も慈悲も慈愛も倫理も論理も絶対も曖昧も苦痛も快楽も悦楽も喜びも悲しみも怒りも憂いも嘘も真も善も悪も主人公補正も特殊能力も終末もドラマも死者蘇生もどんでん返しも、何一つとして存在しない。
英雄も超能力者も魔法使いも天才も神も仏も悪魔も正義の味方も悪の化身も勇者も妖怪も幽霊も最強も異端児も強運持ちも異能者も名脇役も大怪盗も黒幕も悲劇のヒロインも喜劇のピエロも稀代の努力家も奇跡の体現者も不倶戴天の敵も股肱の臣も競い合う好敵手も愛しの恋人も、誰一人として登場人物にいない。
そんな、空虚で温くて。真綿で首を絞めるような。薄っぺらい。
×××××の、物語。
それでは、最期までごゆるりと。
お楽しみくださいませ。
「なんてね」
「でさぁ、結局のところこの犯人は何をしたかったわけなんだ?」
目の前にいる白衣の男性はコーヒーカップを片手に僕に問いかける。
「ここで新たに被害者を出しても全くメリットにならないどころか犯人だと疑われるリスクはめちゃくちゃ上がるじゃんか。それならいっそ何もしない、っていうのが最高の選択だったんじゃないのか?」
彼はキラキラと輝かせた瞳で僕を見る。
男からそんな熱視線を受けて嬉しい訳が無い。暑苦しい。
「……………………犯人の意図なんてないよ」
「はぁ?だってお前、首切り死体が意志も無く作られるわけねーだろーよ。人体切断って意外と難しいっていうぜ?」
何言ってるんだこいつ、みたいな視線を向けるな。
それはそれでむかつく。あとドヤ顔するな。
「それともアレか?《自殺した後おもむろにしたいが起き上がって自分の首を切断した》なんて馬鹿なことは言わないよな?」
言うか馬鹿。お前が馬鹿だ。
というかその発想はどこから生まれてきたんだよ。
「違うって。ただ半分アタリ」
「なぬ、死体が起き上がったのかっ!」
そこじゃねーし。
「つーことは…………………………自殺?」
「正解。犯人は意図せず出現した死体を糸を使って解体した」
「そーか!つまり犯人は――あっぢい!」
興奮しすぎてカップを床に叩きつけやがった。
こぼすならまだしも叩きつけるなよ。怖ぇよ。
飛び散った黒い液体が彼の素足にぶっかかったようだ。
……………………………………何で素足なのかは聞きたくなかった。
この馬鹿は僕の高校時代からの友人である、入樹 歩貴。
どうしようもない位に馬鹿なくせに研究室を任されている。
どうしようもない馬鹿であり、同時に世界に通用するレベルの天才科学者。
いや、天才というにも生ぬるい。明らかな異常人である。馬鹿とナントカは紙一重、という言葉を正に体現したような人間。
二十歳という若さで教授レベルの学力、実績を持つ、僕の友人。
「あぢー!クソッ!何でホットなんだよ!アイス頼んだのに!」
「ああどうもすいません。間違えました」
入樹が憤慨すると、後ろの実験スペースからひょこっと顔を出し、まったく申し訳なさそうじゃなく言った。実験中なのか太いビニールパイプの切れ端が足元に散乱している。
「いつもアイスなのに!今日に限って何でホット!?ホワイ!?」
「犬の躾と同じです。先輩のそのコップを叩きつける癖が迷惑なんで痛みを伴ってもらいました。雛嗣さんが来たときはいつも興奮してるんでもしかしたら今日も叩きつけるのでは、と思ったんですが、ビンゴでした」
すたすたと僕らの近くによってきて無表情でサムズアップした白衣の女性、春夏冬 秋。表情の起伏の少ない、一年生の後輩である。ちなみに体の起伏も少ない。美人さんというよりはかわいい系のオンナノコであり、悪戯好き。実験室のマスコット。
「お前、仮にも俺は実験室任されてるんだぞ!一応上司だぞ!えらいんだぞう!」
「それは実験中のみですよ。それ以外の雑談時間までそのルールは適用されません、残念でした」
「ふん、じゃー今から実験な!テーマは人間が打撃にどれだけ耐え切れるか!さぁ、ナナシ!十秒耐えたら褒めてやる!」
「やるかぼけ」
僕はこの痴話喧嘩もどきが僕のほうまで波及してきたので、お暇することにした。
つーか、こいつらに巻き込まれたらたまらん。
時間の活用は有効に。
「ところで君、用事とは何だね?」
「ああ、そうでした」
理事長室に入るや否や理事長に「おお、ちょうどいいところに来た。羊羹でも食べたまえ」といわれ半ば強引にお茶に誘われた。三十分ほど歓談をしたのち、やっと本題に入ることが出来るようになったが、いやはやどうしてお年寄りというのは話が長いのだろうか。
この大学の理事長である、姫宮 源三は、僕の母親の恩師であり、同時に僕たち親子の商売相手である。堅物だがユーモアのある人格者であり、生徒からの人気も高いという珍しい理事長である。
「本題は、まぁ依頼された件についてなのですけれど」
僕は鞄の中から封筒を取り出し、机の上にそっと置く。羊羹をつまんでいた理事長の緩みきった顔が一気に険しくなる。
「結果は…………どうだったのかね?」
「簡単に言えば、該当者一名、ですね」
ガバァ!と理事長が立ち上がり、テーブルの上の封筒を乱暴に取り上げ、中身を取り出す。書類を読み進めるに連れて顔面が死人のように青白くなっていく。呼吸は荒くなり、双眸はギラギラと光を発する。
「こいつが…………」
恐る恐るという風に言葉を発する。僕は少し気の毒に思いながらも、真実を告げる。
「はい。この人が」
僕はいったん呼吸を置き、ゆっくりと言葉を形作る。
「お孫さんの恋人です」
「おおおぉおぉぉぉぉおおおおおおおおおおぉぉぉおぉおおぉぉおおおおお!!」
大仰に頭を振る理事長。むしろヘッドバンキングと言ったほうがいいかもしれない。
僕が今回理事長に受けた依頼は『孫娘に恋人はいるのかどうかの調査』である。このおじいちゃんはどうやら孫娘がよっぽどかわいいらしく、どこかに嫁に行ってほしくないらしい。過保護を通り越して過干渉だ。愛が重い。
「おおおお!風香あああああああああああああああああああああああ!」
「理事長うるさいです」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「うわ本気でうるさい」
一秒ごとに増幅し続ける老人の絶叫はとどまるところを知らず、だんだんと苦痛になってきた。頭が音の波によってゆすぶられる。
「――――っ!」
駄目だ自分の声すら聞こえない。ていうかどんだけ声だして――――
「うるさぁあああああああああああああい!」
ドアをバタン!と乱暴に開ける音と同時に騒音を斬り貫くように鋭い怒声が部屋を鎮圧した。くあんくあんと耳鳴りのする耳を気に掛けつつドアのほうへと視線を向けると、そこには『稲妻』がいた。
凛凛しい顔立ち、服の上からでも分かるしなやかな肉体。稲光のように爛々と煌く二つの瞳。ギザギザのショートヘア。
「おじいちゃん!今度は何なの!?いいかげんに――――ってヒナ。アンタなんでここに居んのよ!?」
怒鳴られて驚いたのか半分意識を失い口をパクパクしている茫然自失理事長のことをおじいちゃんと呼ぶ彼女――――と呼ぶには少しばかり男らしすぎる――――は何を隠そう、孫娘の姫宮 美雷である。だがこの稲妻台風天変地異女は件の「恋人のいる孫娘」ではない。このおしとやかさとは無縁も無縁の女の妹である、姫宮 風香という可愛らしく、素晴らしい妹のことである。ああ素晴らしき妹。
「またヒナがくだらないもん調べたんでしょ!」
ツカツカとこちらに向かってきた。やばい、殺される。
幼少時、母親が仕事に言っている間僕はよく姫宮家に面倒を見てもらっていたのだが、そのときの関係がずるずると続いており、この姉妹とは大学まで全部一緒である。
当然虐められているときも一緒だったわけで。
まぁ、つまりなんやかんや言って、こいつらには感謝しているのである。
だがそれ以上に、殺されかけたことも何度かあり、その結果としてこいつに対する機器察知能力が異常なほど鋭敏になってしまった。悲しい。
「ちょ、馬鹿、なんで逃げんのよ!」
美雷はどんどんと僕に近づいてくる。それと同時に僕は彼女との間をキープするように後ろに下がる。つかまれば死ぬ。僕の本能が大音量でアラートを鳴らしている。
「なんにもしないから!なんにもしないから!」
「そうか。じゃあまずその握りこんだこぶしを解こうか。残念ながらその拳が僕の鳩尾にぶち込まれる未来しか想像出来そうにないや」
「それはやましいところがあるからでしょう?怒らないから洗いざらい全部吐きなさい」
「風香ちゃんの恋人調査してました。そこの理事長の差し金です」
「オーケイ。怒らないとは言ったが殴らないとは言ってない。ぶん殴る」
「あぶねぇ!」
僕は美雷のパンチを紙一重でかわす。当たれば致命傷確実の稲妻パンチ。
「避けんな!素直にぶちかまさなさい!」
「嫌だよ!理不尽だ!まずはそこの理事長ぶっ飛ばしてからにしろ!」
「了解した。逃げないでよ?」
じろりと一睨みした後、放心している理事長に向かって突進していく。
「おじいちゃん!何で本職探偵に依頼してんのよ!反則じゃない」
「…………ハッ…………そ、そうだ、あれだ、その、」
しどろもどろになりつつ、じりじりと後退する理事長。もはや後ろに後退する、という間違った日本語さえ罷り通りそうな勢いだった。
「三秒以内に答えなさい。どんな意図があったの?」
「すいませんでした。孫の恋人が気になっただけです」
「本音は?」
「見つけてしばく」
「おじいちゃん」
「はい」
「しばくぞ」
「ごめんなさい」
土下座だった。それは見事な土下座だった。素晴らしい土下座だった。どこからどう見ても土下座だった。孫に嫌われたくないがために土下座する理事長。どれだけ親馬鹿、嫌祖父馬鹿なんだろう。この人なら学校一つ孫のために売りそうな気がする。
「…………はぁ。おじいちゃん。風香は確かに付き合ってるけど…………でも、本当に信頼できるヒトだから。ね?ヒナ」
「ええ、その点は僕のほうからも保障できます」
「だが許さん」
もう何がしたいんだこの老人は。美雷でさえ呆れた顔をしている。
「まぁ、もういいけど」
「ええぇー…………」
驚くほどの飽き具合だった。彼女はすでにドアを開けてすたすたと歩いていってしまった。しかし部屋から出る直前にこちらを振り向かずに、ぼそりと僕に向かって言った。
「中庭で待ってるから」
「お…………おう」
カツンカツンと廊下を足音がこだまする。
「えっと………………」
「まぁ、行かせてやれ」
理事長はぱんぱん、と足についた埃を払って立ち上がると、僕に向かって言葉を放った。
「あいつも妹が大人になっていくのを見て、寂しくなったのだろう。風香は体が弱いからいつまでも子供のように感じるが、確実に大人になっている。そのことを感じて、何か感じるものがあったのだろうな」
「まぁ、いや…………」
それもあるだろうけど、あなたに対する呆れも五割以上あると思うのですが。
「遅いよ」
「お前が先に行ったからだろ?どうしたんだ?」
中庭のベンチには美雷が座っていた。
「いや、最近話す機会少なくなったでしょ?だからいろいろ話そうと思って、さ」
少し顔を赤らめながら僕のほうをしっかりと見つめて、言った。
畜生、少し可愛いじゃないか。普段は粗暴でガサツなくせに、こういうときだけ幼馴染度がマックスになるなんて少しばかり卑怯じゃないか?
僕は美雷の隣に座る。少女特有の爽やかな甘い匂いが風に乗って漂ってくる。
「ねぇ、危険なこと、してない?」
いきなり核心を突かれた。咄嗟に視線を外そうとしたが、彼女の真剣な瞳の中に見え隠れする心配が僕の目をホールドする。
「また、おなか刺されたり、しない?」
「それはない。あいつがイレギュラーだっただけさ」
この探偵大学生生活のきっかけとなったあの殺人鬼を思い出す。
崩れた笑顔。腐った心。壊れた精神。病みきった瞳。美しい憎悪。狂った台詞。殺された神経。いかれた良心。終わった常識。論理的な矛盾。曖昧な殺人動機。儚さを纏った肢体。憂いを帯びた仕草。赤く染まったナイフ。黒板を爪で引っかくような、心地いい声。
今でも彼女の一挙一動を思い出す。
もしかしたら、アレは恋だったのかもしれない。
いまとなっては、どうしようもないし、どうでもいいけれど。
「僕は――――探偵だ」
「…………」
「依頼があれば、なんでもする。謎があれば、何でも解く。困ってる人がいたら、迷わず助ける。たとえどんなに危険でも僕はそうやって生きていくって、決めたんだ」
「…………っ」
顔を伏せて、下唇を噛む美雷。
「だから――――」
「言わないで」
僕が次の言葉を発しようとした刹那、彼女は僕の口を手で覆った。
彼女は泣いていた。僕は泣いていなかった。
「死ななければ、いい」
彼女の頬を涙が伝ってく。
幼いころに両親を失った美雷にとって、『死ぬ』ということはただの恐怖対象ではない。
彼女は別れを嫌う。病的なまでに嫌う。さよならの言葉さえ、言ったことは無い。
そんな彼女を、心配させてしまった。
少しだけ、離れすぎた。
「絶対、死なないで」
強く、しかし弱弱しい雨に濡れた子犬のような瞳。
彼女は、そっと僕の口を覆っていた手を離す。
離す、離す。離れる、離れる。
「…………うん。僕は、絶対に帰ってくる」
「…………約束、だかんね」
「ああ、約束してやるさ」
「…………そっか」
涙をごしごしと拭った後、すっきりした顔で、腕をぐーっと上に伸ばす。
「うん!元気出てきた!あー!おじいちゃんそのままにしちゃったんだよなぁ…………うん、私謝ってくるね!」
美雷は僕のほうを振り返らずに、いってしまった。
彼女は泣いていなかった。僕は、泣かなかった。
いや。
泣けなかった。
美雷との会話を終え、帰ろうと駐車場に行くと、車の前にはすでに先輩が立っていた。 缶コーヒーを啜りながらぼーっとどこかを見つめていた。
「先輩、待たせちゃいましたか?」
「いや、私も今来たばかりだよ」
先輩は手に持っていた缶コーヒーを一気に呷り、屑籠に投げ入れた。
「ナイスショット」
僕はキーをズボンから取出し、滑らかな動作で鍵穴に差し込む。
「ところで」
先輩はドアを開けきっちりとシートベルトをつけるといきなり話しかけてきた。
「今日は我が家で鍋でもしないかね?」
「お、いいですねそれ。是非」
思わぬ収穫だった。
「じゃあ帰り道にスーパーで材料を買っていきましょうか」
「ブラックサンダー買おうブラックサンダー」
「おやつは三百円までですからね」
そんなこんなでお泊り二日目、なのだった。