第一部 第1章
「殺しなさい!」
カルラは冷徹に言い放った。幼いアリシアにとって姉の命令は絶対だった。だが、気の弱い彼女は怖気付いた。
カルラはひとつため息を付くと大きめの石を拾い、蜘蛛をたたき潰した。アリシアはグチャッと体液を飛ばして潰れるところを見るのが怖くて思わず顔を背けた。
「この蜘蛛は毒を持ってるの。だから殺さないといけないの」
姉の言うことはいつも正しい。それはわかっている。でも自分はとても姉のように強くはなれないと思った。
「いい?世の中にはもっと危険なこともたくさんあるのよ。その時あたしがそばにいなかったらあなたが自分でなんとかするしかないの。いつまでもあたしを頼ってちゃだめ」
「おねえちゃんどこかに行っちゃうの?」
「どこにも行かないわよ、例えばの話よ」
「じゃあずっと一緒にいる」
「・・・・・・しょうがない子ねまったく」
カルラはなぜか悲しげな顔をした。まるで遠からず訪れる過酷な運命を予感しているかのように。
「もう帰るわよ、さあ」
カルラは急かすように妹の手を引いた。嫌な胸騒ぎがする。アリシアのもう一方の手には摘まれた黄色い花が握られていた。
「今日はシチューだってママが言ってた」
カルラは家に近づくと念のため妹を安全な場所に潜ませて一人で向かうことにした。
「あたしが合図をするまでここにじっとしてなさいよ、いい?」
アリシアは怯えて手を離そうとしない。
(ああこの子にもわかるんだわ)
「すぐ戻るから」
手をふりほどいて駆け出す。振り返ると建物の陰にしゃがみこんでいる妹が見えた。
(神様、なにごともありませんように)
カルラは慎重に裏手から回りこむと窓から恐る恐る中を覗いた。1階には誰もいない。特に荒らされた様子もない。忍び足で中へ入ると小さな異変に気が付いた。テレビが付けっぱなしになっている。
「おねえちゃん・・・」
「!」
アリシアが心細さに耐え切れず付いてきてしまったのだ。
「だめじゃない、言いつけを守らない子は―」
瞬間、カルラの顔が青ざめる。どこから現れたのか迷彩服の男達に囲まれていた。待ち伏せていたのだ。手には小銃を携えいつでも発砲できる構えをとっている。
「ふたりともそのまま動くな!」
一人の男がガスマスクでくぐもった声で命じた。
「パパとママをどうしたの!?」
カルラはひるむことなく問うた。
「知る必要はない」
その言葉の調子からカルラはすべてを知った。たちまちカルラの瞳が赤みを帯びる。
「シールドしろ!」
男が叫んだ。だがそれよりも早くカルラは男達の脳に侵入し意識を絶ち切っていた。
「まさか、こいつ・・・」
為す術も無く枯れ木のように倒れる。
「死んだの?」
姉の手をぎゅっと握り締めアリシアが震える声で訊く。
「眠らせただけ。そのうち気づくわ。とにかくここから逃げるのよ」
一刻も早くここを出なければ。だがカルラは冷静になると妹の目を見て言った。
「お姉ちゃんお金取ってくるからここでじっとしてて。すぐもどるから」
カルラは両親からもしもの場合の備えを教わっていた。非常用の金が屋根裏に隠してある。しかしカルラはまた、その屋根裏が惨状を呈している可能性を強く感じていた。
はたしてカルラは見ることになってしまった。折り重なるように倒れた両親を。ショックのあまり顔を覆い立ちすくむ。が、すぐにキッと面を上げるといつもの毅然とした姿に戻っていた。
(わかっていたこと、こうなることはわかっていたこと)
トランクを手に階下に戻るとなにごとも無かったかのように妹の手を引いて家を出た。アリシアには聞きたいことが山ほどあったが今は黙って付いて行くべきだと思い口をつぐんだ。
二人を乗せた列車は西へ向かっていた。無関心な人々は無口な幼い姉妹のことを気に留めもしない。
アリシアはずっと震えていたが疲れたのかいつの間にか寝入ってしまっていた。頬には涙の跡が残っていた。
「パパ、ママ・・・」
カルラは両親のことを努めて考えないようにしていた。自分は泣いていてはいけないのだ。
車掌が切符を切りに来たとき、カルラは軽く身構えたが気にかける様子はなかった。
だがカルラには車掌の心の声が聞くともなく聞こえていた。
(十歳と八歳くらいの姉妹・・・一応知らせておくべきか)
「次で降りるわよ」
車掌が座席から離れたのを確認すると妹を起こした。
「今どこ?」
アリシアは寝ぼけ眼で訊いた。
「伯父さんの家に向かう途中。ここからは車で行くわ」
(怪しまれないようにまだ動かないほうがいい)
アリシアは次の駅に停まってもなかなか動かぬ姉の手をつついた。
「降りるわよ」
ベルが鳴るのを待ってカルラは言った。
「さあ、急いで」
車両の向こうからスーツを着た数名の男達がこちらに向かって来るのが見える。二人が席を立ったのに気づくと走り始めた。
しかし二人が座っていた席に着いたときにはもう彼女たちは飛び降りた後だった。
二人とも伯父さんのことは両親からは聞いていたが実際に会ったことはなかった。知っているのは住所と名前だけ。なにしろ遠い親戚らしく、親類にもほとんど知っている人はいないらしい。それだけ追っ手の目も届かないと考えられる。
カルラはロータリーでタクシーをつかまえるとその住所の近くの地名を告げた。足が付かぬようそこからは歩いて行くつもりだ。
タクシードライバーの中年の男は小さな客にちょっと驚いたが、気のいい笑顔で応じた。
「おチビさんたちだけかい?」
「はい、お金は持ってますから」
「はっはっは、しっかりしてるねえ」
道すがら自分にも同じくらいの子どもがいることや学校のクラブ活動での活躍などの自慢話を聞かされた。
「ああ、そこのアメをどうぞ」
考えて見れば二人とも家を出てから何も口にしていなかった。口に放り込むとなんだかとても甘く感じた。
その時、カルラの視線がバックミラーに映るドライバーの目を一瞬捉えた。失態だ!油断した!この男は訓練された者だ!しかし気づいたときには遅く、アメに仕込まれた薬が二人の意識をぐにゃりと曲げ始めていた。
「停めなさい、さもないと」
「おやおや」
ドライバーはそれまでとまったく違った口調で言う。
「すごいね、よく見破ったね」
「匂いで、わかるわ。ドブのような匂いがするもの」
「達者だねえ。まあ、気の毒だけど政府には逆らえないんでね」
アリシアを見ると頭をグラグラさせて半分眠りかけている。
「起きなさい、しっかりして!いい、することはわかってるわね?これからあなたを『飛ばす』わ。一人で行くのよ」
「一緒に行く。一緒・・・」
「今は無理。あたしのことは心配しないで。なんとかするから」
「なんの話だ!?」
ドライバーが運転しながら振り向く。しかしカルラは構わず続ける。
「生きるのよ!生きていればまた会えるから!」
そして目を閉じると両手を胸の前で組み、なにかを一心に念じた。
「おい!」
ドライバーが振り向くと妹の方の姿が忽然と消えていた。
「どこへ―」
そういいかけた時、ドライバーの意識が途切れた。操縦者を失った車はガードレールにぶつかり、跳ね返ると対向車と激しく衝突し木っ端のように舞った。
夢を見た。深い霧の中で姉の後ろ姿を追いかけるが捕まえられない。遠ざかる背中に向かって声を限りに叫ぶがどんどん遠ざかって行き、見えなくなる。
泣き顔で目を覚ました時、あたりはすっかり暗くなっていた。そこは背の高い草むらの中だった。やはり姉の姿は無い。心細さに身悶えながらひとしきり泣くと不思議とすっきりした。そして姉の言葉を思い出す。
(また会えるって言ったから大丈夫)
今するべきことは伯父さんの家にたどり着くこと。ポシェットからくしゃくしゃになった紙を取り出すと小さな手でシワを伸ばして書かれてある住所を反芻する。そして意を決して歩き出した。
しかし見知らぬ街でどこをどう探せばいいのか。さまよい歩くアリシア。
と、一人の夫人が少女の一人歩きを見とがめて声をかけてきた。
「どうしたの、お嬢ちゃん。お母さんとはぐれたの?」
優しい口調だった。だが先程のドライバーのことが頭をよぎり、アリシアは無言で後ずさると駆け出していた。いったい誰を信用すればよいのか。
闇雲に逃げると人気のない路地裏だった。息を切らし、片隅にしゃがみ込む。しばらくして落ち着くと今度は疲労と空腹が襲ってきた。次第に絶望が押し寄せてくる。
ふと思い出しポシェットの中を探るとビスケットの食べかけが見つかった。無心で頬張ると少しだけ落ち着いた。
だがその時、暗闇に気配を感じた。明滅する切れかけた外灯に浮かび上がる黒い影。犬だ!野犬がゆっくりと近づいてくる。痩せこけ、目をぎらつかせ、喉の奥からグルグルと嫌な音を響かせた野犬。小さなアリシアにとっては怪物に等しい。
背後を壁に遮られ逃げ場もなく佇む。
(お姉ちゃん助けて、助けて、助けて・・・)
「あっちいけ!コラッ!あっちいけ!」
野犬が今にも飛びかかろうかと思われたその時、救いの手が現れた。少年が棒切れを振り回し犬を威嚇した。犬は唸りしばし睨んだが、あきらめるとすごすごと遠ざかっていった。
「大丈夫か?」
姉と同じくらいの年頃の、ジャンパーに野球帽をかぶった少年だった。棒切れと見えたのは野球のバットだった。
アリシアは小さく頷いた。
「おまえ、なんでひとりでこんなとこにいるんだ?親とはぐれたのか?」
黙ったまま応えないアリシアにじれて、
「おまえの家どこ?」
アリシアはポシェットからシワシワの紙切れを取り出して見せた。
そこに書かれた住所と名前を見て、
「あ、この人なら知ってる。俺んちの近くだ。よし、じゃあ連れてってやるよ、来な」
躊躇するアリシア。
「さあ」
少年はその手を取ると歩き出した。
(この人は悪い人じゃない)
手をつないだ時、アリシアには直感でわかった。
伯父さんの家はそう遠くない場所にあった。カルラはそこまで計算して『飛ばして』いたのだ。
閑静な住宅街の一軒家。看板に「阿須間ピアノ教室」と書かれている。
少年がベルを鳴らすとメガネをかけた中年の痩せ型の男が扉を開けた。
「この子、迷子になってたんで。先生の知り合いみたいだから連れてきました」
男はどこか表情に乏しい無愛想な顔つきで、アリシアを物でもみるかのように一瞥した。アリシアは思わず少年の背中に隠れてしまった。
「来栖アリシア、入りなさい」
男はそう簡潔に命じた。
アリシアは名前を呼ばれたときビクっとし、少年の服の裾をぎゅっと握りしめた。少年は少し困った顔をしたが中に入るように促した。
「じゃあ、ボクはこれで」
男は頷くとひとこと「ありがとう」と言った。
少年はどこか後ろ髪をひかれるようにガシャンとしまったドアを振り返りながら家路についた。
阿須間ブンゴは近所でも評判の変わり者であった。近所付き合いもなく、姿を見かけることも稀であった。ただ、時折聞こえるピアノの音だけがそこに暮らしていることを示していた。
阿須間はアリシアに食事や日用品など不自由なく与えたが、ほとんど口を利くことはなかった。アリシアも怯えて与えられた二階の部屋に閉じこもる日々が続いた。
「あの人嫌い・・・」
ベッドに突っ伏してつぶやく。だが時折聞こえるピアノの音色だけは違った。その調べを聞くといつも心が落ち着くのだった。
どうしてあんなに冷たい人があんなに温かい音を出せるんだろう、と不思議でならなかった。
そしてうつらうつらしながらあの日の少年のことを思い出していた。まだお礼も言ってなかった。近く、と言っていたからまた会えるに違いない。
はっと飛び起き窓を開けて外を見ると、はたして見覚えのある野球帽が見えた。バタバタと階段を駆け下り飛び出す。角のところで追いつくと少年は驚いて立ち止まった。
「ああ、なんだおまえか。どうした?」
もじもじとするアリシア。
「なにかあったのか?」
「あ・・・りがとう。お礼、言ってなかった」
少年はニコッと笑った。
「なんだおまえちゃんと喋れるんじゃん。オレ、キリオ、司馬キリオって言うんだ」
赤くなるアリシア。
「あの人、ちょっと変わってるだろ?」
なんと返事していいものやら戸惑うが小さく頷くアリシア。
「でもオレの姉ちゃんが言ってたけど悪い人じゃないってさ。姉ちゃんあの人にピアノ習ってるんだ。無愛想だけどやさしいって。オレは苦手だけどな。あ、オレ練習あるから、じゃ」
残されたアリシアはとてもやさしいようには見えないけど、と思っていた。
その時いきなり背後から腕をつかまれた。驚いて見ると阿須間が硬い表情で立っていた。
「勝手に外に出ないように。さあ戻りなさい」
それからは外に出ることも禁じられ一日中部屋に閉じこもるようになっていた。陰鬱な日々。ただ時折聞こえるピアノの音だけが心を癒してくれていた。
ある日のことだった。阿須間が珍しく留守にしているのを見計らうと、こっそりピアノを弾いてみた。見よう見まね、耳に残ったメロディをイメージしてなぞってみる。初めてなのに自分でも驚くほどうまく弾ける。いつしか時間を忘れてしまう。
後ろで音がしてはっと振り向くと買い物袋を抱えた阿須間がつっ立っていた。慌てて椅子を降り、駆け抜けようとしたアリシアを阿須間は呼び止めた。
「待ちなさい」
怒られる、と思った。だが意外にも阿須間はアリシアをぎゅっと抱きしめた。
「これからはいつでも好きなときに好きなだけ弾きなさい」
アリシアが顔を上げると阿須間は泣いていた。
「わたしは君にどう接したらいいのか思いあぐねていたんだよ。君は自分でも気づかないようなとても大きな力を持っている。君の姉さんよりももっともっと大きな力を。それが怖かった。とても怖かったんだ。
でも君のピアノを聴いて君の心根がとても綺麗なことがよくわかった。君は自分が正しいと思うように生きればいいんだ。それはわたしが決めることじゃない」
そして姿勢を低くしてアリシアの目線に合わせて続けた。
「臆病なわたしを許して欲しい。これからはもっといろいろ話そう。わたしのこと、君のこと。さあ、ご飯にしよう。手を洗ってきなさい」
アリシアは食事の用意にキッチンに向かう阿須間の背中を見て思った。
(悪い人じゃないんだ)
その日から、二人の関係に少しずつ変化が見え始めた。季節が春へと向かうのに合わせるかのようにぬくもりが芽生え、花を咲かせようとしていた。
阿須間はアリシアを学校に通わせない代わりにピアノだけでなく、勉強も教えた。覚えの早い子でスポンジのように吸収してしまう。
だがひとつ気がかりなことがあった。「力」についてどう教えたものだろう?彼女の適性さえ未だわからぬまま思いあぐねる日々が続いた。
「アリシア、君はとても感受性の強い子だ。頭に受かんだメロディをそのままピアノに乗せて奏でられるほど強くイメージできる。そのイメージが君の力の源になるはずだ。今はまだ難しいかもしれないけれど、心のなかのイメージをコントロールする術を学んでいかなければならない。わかるね?」
アリシアは阿須間が話すときにはいつも真っ直ぐな瞳を向ける。まるで心の奥底まで見透かされているかのようだ。この子には嘘はつけないし、またこの子自身も嘘のつけない性格なのだろう。
「あたし、そんな力ないもん」
ああ、本当にそうならばどんなにいいだろう。なにもない、平凡な日常が永遠に続いて欲しい。それは否定ではなくむしろ願望の言葉であった。
「どうしてあたしたちはいじめられるの?なにも悪いことしてないのに」
阿須間は幼い子が背負わされたその理不尽さに胸を痛めた。
「人間という動物はね、自分より優れた者を認めたがらないんだよ。そういった者たちがそのうち自分たちを支配してしまうんじゃないかと不安を感じてしまうんだ」
「そんなことしない」
「そう、君はしないだろうね。でもそういった人たちは言っても信じてはくれないんだ。そのうち気が変わるだろうから今のうちに芽をつんでしまおうと考えるんだ。なぜなら、彼ら自身がそうだったから。彼らはそうやって権力を手にいれてきたから今度は逆の立場になるのが怖いんだよ。君にはその気がなくとも降りかかる火の粉は振り払わねばならないんだ」
アリシアはとても悲しげな顔をした。それを見かねて、
「この話はまたにしよう。今は楽しいことだけ考えよう。そうだ、今度遊園地に行こう。ずっと家の中にいても塞ぎこんでしまうからね。うん、そうしよう」
「遊園地?」
ずっと前に家族で行ったことを思い出した。楽しかった思い出が今は逆に辛い。だが阿須間の気持ちを傷つけないように頷くと努めて明るく笑ってみせた。自分が悲しむことでこの人を悲しませてしまう。それはもっと辛いことだったから。
だがしかし、アリシアはほどなく知ることになる。こつこつと築き上げた平凡な幸せは一瞬の残酷な現実に駆逐されてしまうものだということを。
司馬キリオの父は警察官だった。そう教えられていたがそれ以上の詳しいことは知らない。なんでも国の重要な任務に付いているらしい、とだけ聞いていた。
いつも帰りが遅く夕食は母と姉との三人だけで済ませることが多かったが、この日は珍しく父が早く帰ってきて一緒だった。
これが本来の形のはずなのにどこかギクシャクとした雰囲気。いつもと違うからか。それだけではなかった。キリオも姉もこの父がなんとなく苦手だったのだ。
「キリオ、ちゃんと真面目に学校に行ってるか?」
「うん・・・」
「なにか変わったことはないか?ん?」
「別に・・・」
弾まない会話。本当はそんなこと興味がないことくらいすぐにわかる。こういう時はなにか他に話があるのだ。
「そう言えば」
(ほら来た)
父は一枚の写真を取り出した。
「行方不明の女の子を探してるんだが、この辺で見かけたという情報があってな。おまえこの子に見覚えないか?」
知っている、アリシアだ!だが直感でそれは隠すべきだと感じた。
「さあ、いちいち注意して見てないしわかんないよ」
しかし父は職業柄キリオの表情が一瞬固まったことを見抜いていた。それはキリオにもわかっている。そして実の子どもでさえそういう目で見ている父をあらためてうとんじた。
だが父は強くは問い詰めなかった。
「もし見つけたら、連絡してくれ。いいな?」
「うん・・・」
遊園地に出かける日、出発前に阿須間からアリシアにプレゼントが渡された。それはやや大きめの麦わら帽子。露骨には言わなかったが顔を隠すのが目的だった。知ってか知らずかアリシアは礼を言うとすぐさま頭に載せ、鏡に向かってなんども角度を変えてその姿に見とれた。
遊園地はそう遠くない。阿須間の運転する車で三十分足らずだ。久しぶりの外出に胸踊らせる。車窓の外の景色も新鮮に映った。
「あっ」アリシアが小さく声を上げた。
ちょうど偶然自転車に乗ったキリオとすれ違ったのだ。向こうも気づいたようで、驚いた様子のキリオに無邪気に手を振る。そして窓を開けると叫んだ。
「これから遊園地に行くの!」
やがて車はキリオを置き去りにして目的地へと向かった。
切符を買ってゲートをくぐると、平日にしては結構な込み具合であった。ティーカップ、メリーゴーラウンド、観覧車・・・。楽しい時間はあっと言う間に過ぎていく。
ベンチに腰掛け一息いれる。阿須間がソフトクリームを買いにその場を離れたその時だった。見計らったように男達がアリシアを取り囲んだ。およそ娯楽施設には相応しくない物々しい装備をした特殊部隊。自宅で姉と囲まれた時といっしょだ。なぜ気付かなかった?
そのなかにひとりだけ、グレイのスーツを着た男がいた。銃をもった迷彩服の男達の後ろからゆっくりと歩み寄ると、落ち着いた、しかし冷たい声で言った。
「来栖アリシア、おまえを拘束する。無駄な抵抗はしないように」
固まっているアリシアの肩に男が手を掛けようとしたとき、阿須間が間に割って入った。道には投げ出されたソフトクリームが二つ落ちていた。
「あなたたちはなんの権利があってこの子をいじめるんだ!なんの罪もない女の子を!」
「阿須間ブンゴ、公務執行妨害で逮捕」それは短く簡潔な命令だった。
なにごとかと人が集まりだしていた。手早く処理する必要がある。
なにか小さくつぶやく阿須間。銃口が一斉に向けられる。
「無駄だ。我々はシールドされている。貴様程度の力では丸腰の私にさえ通じない」
だが阿須間の顔が見る間に紅潮しだすと男達に異変が生じ始めた。
「う、頭が・・・・」
「こいつ・・・」
スーツの男が苦々しげに阿須間を睨む。
「いまのうちだ、行こう!」
阿須間はアリシアの手を引くと抱き抱えるようにしてその場から離れた。
それを見て男は命じた。ただ一言。
「撃て!」
遊園地に銃声が響いた。背中から無数の銃弾を浴びて阿須間はのけぞるように宙に浮いた。そしてまるでスローモーションのように突っ伏して倒れた。一瞬にしてあたりは修羅場と化し、逃げ惑う観客でパニック状態となる。
アリシアは無傷だったがはずみで麦わら帽子は飛ばされ、白いワンピースは阿須間の返り血を浴びて赤く染まっていた。そして声もなく立ち尽くす。
「くそっ、雑魚が!」
スーツの男が阿須間を蹴り上げた。
それからなにが起こったのか?幸いと言うべきか、アリシアにはその時の記憶が曖昧である。ただ、覚えているのは暗いイメージ、どす黒く、うねる漆黒のイメージ。
後に一部始終を見ていた遊園地の係の者が語ったところによると、急に男達がブルブルと震えだし一様に声にならない声を上げ始めたと言う。あるものは喉をかきむしるような仕草を、あるものは手足をバタバタとさせ、あるものは口から泡を吹いていたと。その時少女の周りには包みこむような赤いオーラが見えたとも言う。
そして次の瞬間、世にもおぞましい光景が繰り広げられた。男達がまるで内部から爆発したかのように体中から血を吹き出して倒れたのだ。誰もが目を背けたが、即死であることは確認するまでもなかった。
アリシアが気づいたのは阿須間の振り絞るような叫びによってだった。倒れた阿須間の顔を覗き込む。
「アリシア・・・いいんだ、君は悪くない、あれはあいつらの運命だ。大丈夫、大丈夫だから」
「病院!病院行こう、ね、救急車!」
「いいから、いいから。これから話すことを良く聞いて・・・」
阿須間の口に耳を近づけて聞き漏らすまいとそばだてる。
「人はみな、幸せになるために生まれてくるんだよ。みんなに幸せになる権利があるんだ。この先どんなに辛いことがあってもそれを忘れないで。幸せになって・・・それが私の最後の望みだから・・・。君がみんなを愛すればみんなも君を愛してくれる。忘れないで。ああ、すべての人たちがこの子を愛してくれますように・・・」
それきり、いくら揺さぶっても阿須間が目覚めることはなかった。顔をくしゃくしゃにして泣き続けるアリシア。
どれほど泣き続けたろうか。
「通して!通してください!」
一人の少年が人ごみをかきわけ駆け寄って来るのがわかった。振り向くとキリオが血だるまの男達の前に立ち尽くしていた。悪い予感がしてアリシアたちの後を追いかけてきていたのだ。
普通なら逃げ出したくなるほどの恐ろしい光景の中で、不思議と冷静な様子でグレーのスーツの男を見下ろしていた。
「とうさん・・・」
振り返るとアリシアと目があった。何があったのか、おおよそ見当がついた。だが、どういうことだ?これをやったのはあそこに倒れている男なのか?それとも・・・まさかアリシア・・・そうなのか?
「ア、アリシア・・・」
アリシアはその様子を見ていたが、キリオが手を伸ばすと怯えた表情で後ずさった。そして落ちていた麦わら帽子を掴むと走って逃げ出した。
「待って・・・!」
追いかけようとして足が止まる。
(ボクはどんな顔をすればいいんだ?父さんが殺されたのにそのことよりあの子のことの方が心配だなんて。ボクはまともじゃないのか?なぜこんなに冷静でいられるんだ?)
アリシアの頭の中に様々な思念が雑多に流れ込んでくる。周りの人々の意識が防ぎようもなく押し寄せ、満たし、溢れ、こぼれ落ちていく。恐怖や焦燥、不安に混じって快楽や嘲り、憤怒など捉えようのない感情がうずまき制御不能になる。
ゲートは出口へと殺到する客で充満し、その間を衣服を血に染めた少女がすり抜けていくが、そのことに誰も気づきもしない。いや、実際には他のものには彼女の存在は見えていないのだ。なぜなら彼女がそう望んだから。
アリシアは息が続く限りただ闇雲に走った。だが、どこへ行けばいいのか。帰る家は遙かに遠い。よしんば戻ったところで安全ではないだろう。
疲れ果てもう動けないとしゃがみこんだ時、悪寒が走った。なんだろう、この刺々しい感覚は?追っ手だ!それもかなりの数。見つかったら今度こそ逃げられないだろう。
小さな公園を見つけ遊技用のオブジェに身を潜めた。そこから覗くと大型の人員輸送車が次々と集まって来るのが見える。だめだ、気づかれている。でももう動けない。
輸送車から降りてくる特殊部隊はさきほどの者たちとは違い重厚で特殊な装備を身にまとっていた。まるで宇宙服のようだ。「力」を防御するための防護服なのだろう。そして数十名の隊員は列を作り、一斉に少女に銃口を向けた。
「そこに隠れてないですみやかに出てきなさい」
拡声器を持った隊員が投降を呼びかける。アリシアは震えたまま動かない。指揮官の合図で数名の隊員がにじり寄ってくる。
「さあ!」
一人の隊員が手を伸ばした時、突如アリシアと隊員の間に炎の壁がせりあがった。弾かれたように飛ばされる隊員たち。見る間に炎はすべての隊員たちを取り囲んでしまった。標的を見失いむやみに発砲しようとした隊員を指揮官は諌めた。
「待て、撃つな!生きたまま捕獲しなければならない。脳に損傷があってはならない。撃つな!」
やがて炎の壁が消えたとき、目標は姿を消していた。
「今のも被験体の能力でしょうか?」
「いや・・・あれはおそらくPSISの者だ。聞いたことがある、炎をあやつる能力者がいると。まずいことになったな」
その頃アリシアはその男におんぶされて下水道を移動していた。
「ちょっと臭いけど我慢してくれよ。ここはやつらのセンサーが届かないから都合がいいんでね」
アリシアには肌に触れるとその者が自分に危害を加える者であるかどうかが見分けられた。この男には危険な匂いが無い。むしろ暖炉のような暖かい温もりが感じられた。
「おじさん、誰ですか?」
「おじさんかよ~。ま、いっか。お兄さんの名前はアグリ、君と同じPSI、特殊な力を持った者だよ。君のことは阿須間からよく聞いてるよ」
「阿須間の伯父さんの知り合いなの?」
「ああ、やつとはよく喧嘩もしたが一番の友だちでもあった。あいつは真面目すぎたんだな。平和な争いのない世界を望んでいた。力に頼らずともいつか分かり合える日が来ると信じていた。だから自分の力を敢えて使おうとはしなかったんだ。それを宿命から目をそむける臆病者だとなじるやつらもいたが俺はそうは思わなかった。多くの者はベーシックとの対立を選んだがあいつは違った。あいつはあいつなりに一人で戦っていたんだ。
おっと、まあ難しい話はともかく、あいつになにかあったらよろしく頼むと言われてたんでね」
「どこに行くの?」
「仲間のとこさ。君くらいの子供も何人かいるからすぐに友達もできるさ」
「たくさん?お姉ちゃん、来栖カルラを知りませんか?」
アグリはその名前を聞いた時、言葉に詰まった。
「残念だけど・・・。でもどこかできっと生きてるよ。俺にはなんとなく分かるんだ」
「あたしもわかる!やっぱりそうなんだ、あたしわかるもん!」
「ああ生きてるよ、きっと・・・」
この時すでにアグリにはカルラの消息に関するある歓迎されない情報が届いていたが、今はとても伝える気にはなれなかった。
だが感受性の優れたアリシアはアグリの意識にベールに隠された部分があることを感じ取っていた。でもそれ以上そのことを追求するのはよそうと思った。この人は悪い人じゃない。その人が言いたくないことは無理に聞くべきじゃない、と。
下水道から出るとすぐそばに車が待たせてあった。
「ご苦労さま」
二人が後部座席に乗り込むと運転手の女が声をかけた。
「この子が・・・そう」
「こいつは」とアグリ。
「ユバ。隠密、そうだな隠れてこそこそするのが得意なやつだ」
「その言い方はひどいんじゃありませんか?」車を出す。
「悪い悪い、なんていうかな、やつらに見つからないための能力に優れてるんだ。だからこの車もやつらのセンサーには映らないんだぜ?」
「飛ばしますよ」スピードを上げる。
「おおっと。このおねえちゃんこう見えても面倒見がいいから困ったことがあったらなんでも聞くといい」
「こう見えてもってのが引っかかりますけどね」
「ははは、褒めてんだよ。別嬪で気立ても良くってってな。でもなぜか男運は悪いんだよなあ」
「ほっといてくださいよ」
ほどなく車は郊外のひなびたモーテルに入った。看板もなく営業してる様子もない。
「ついたぞ、さあ降りた」
せかされて降りるとその様子を数人の子供たちが見ていた。男の子が年長の女の子に言うのが聞こえた。
「あいつ、新入り?」
「そうよ、仲良くするのよ」
「女かよ」
「わっ、服に血がついてるぞ」
人見知りをするアリシアを見かねてユバが肩に手をやり紹介してあげる。
「このこはアリシア、よろしくね。サラス、この子になにか着替えを用意してあげて」
サラスと呼ばれた年長の女の子はアリシアの手を取ると言った。
「行こ、あたしのおさがりで良ければあなたにぴったりのがあるわ」
そして男の子たちに向き直り
「覗いたら殺すわよ!」
「はーい」
「怖え怖え、しゃれにならねえよな」
サラスに手を引かれ、アリシアはまた姉のことを思い出していた。そしてとても悲しい別れ方をした少年のことも。