深夜に聞こえる防災無線は無視してください〜地方怪談・怖い話〜
雨量計の数字は、1時間ほど前からほとんど同じ調子で増え続けていた。
午後11時に12ミリ、午前0時に13ミリ、午前1時にはまた12ミリ。山沿いでは強い雨だが、嶺川市の危機管理課にとって、ただちに避難を考えるほどの値ではない。
三浦はモニターに表示された雨雲の動きを確かめ、机の隅に置いていた缶コーヒーを1口飲んだ。とうにぬるくなっている。
庁舎の4階は静かだった。
窓の外では、街灯に照らされた雨が斜めに流れている。夜間当番になると、三浦は何時間も同じ画面を見る。雨量、河川水位、斜面計測値、県から届く気象情報。数字が大きく動かなければ、それでいい仕事だった。
「戸沢、まだ余裕ありますね」
向かいの席で藤原が言った。
危機管理課へ異動してまだ1年にもならない。防災情報システムには三浦より詳しいが、旧町時代から続く地区の事情には疎い。
「予報どおりなら、3時過ぎから弱まる。今夜はたぶん大丈夫だ」
嶺川市は人口2万人に届かない地方都市で、市街地から30分も車を走らせれば、山裾や川沿いに小さな集落が点在する。
戸沢地区もその1つだった。
34世帯、住民76人。川と山の斜面に挟まれた細長い地区で、大雨になれば市が早めに警戒する。三浦も危機管理課へ異動して3年になるが、戸沢で人的被害が出るような災害には当たったことがなかった。
午前2時を少し過ぎたころ、藤原が椅子の背にもたれた。
「このまま何もなければいいですね」
「そういうこと言うと何か来るぞ」
「やめてくださいよ」
藤原が笑った。
その声が消えた直後、庁内の確認用スピーカーから細い雑音が流れた。回線が開くときに聞く電子音に近いが、いつもの起動音より長く、耳の奥にざらつきが残る。
三浦が顔を上げると、藤原もすでに操作卓を見ていた。
スピーカーから女性の声がした。
「住民確認を行います」
三浦は眉を寄せた。災害時の定型文は一通り頭に入っているが、聞いたことのない文面だった。
「何か自動で入りました?」
「いや。そっちは?」
「何もしてません」
藤原が操作画面を開く。その間、女性の声は何かを待つように黙っていた。
やがて、
「戸沢地区、77」
と告げた。
そこで放送は終わった。
終了チャイムは鳴らず、庁内には空調の低い音と窓を叩く雨だけが残った。
三浦は壁の時計を見た。
午前2時17分。
藤原は送信履歴、自動放送、気象連携を順に確認したが、該当する記録はどこにもなかった。
「戸沢でも流れたか確認しよう」
自治会長の佐々木へ電話した。
3回目の呼び出しでつながった。
『はい』
寝起きの声ではなかった。
「市役所の三浦です。夜分にすみません。いま防災無線から変な放送が流れたんですが、戸沢でも聞こえましたか」
佐々木はすぐには答えなかった。
『市で流したんですか』
「いえ。こちらには送信記録がありません」
電話の向こうで、何か重いものを横へ滑らせる音がした。
『じゃあ、こっちでも聞こえてます』
「原因を調べます。現時点では誤放送と考えていますので、避難などの必要はありません」
そう伝えると、佐々木は少し声を落とした。
『今夜は確認に来なくていいですから』
「まだ現地へ出る予定はありません」
『朝になってからでいいです』
今度は、さっきよりはっきりしていた。
電話の向こうでもう1度、木が擦れるような重い音が聞こえた。
『こっちは戸を閉めます』
そこで通話が終わった。
藤原が三浦を見た。
「何ですか、それ」
「分からない」
その夜、戸沢から苦情の電話は1本も来なかった。
*
翌朝、保守会社にログの調査を依頼した。
午前2時17分の送信操作はなく、不正アクセスや通信障害の痕跡も確認できなかった。それでも、市役所と戸沢の屋外スピーカーから同じ内容が流れたことだけは確かだった。
昼前、藤原が住民基本台帳から出した一覧を三浦の机に置いた。
「戸沢、76人です」
34世帯、76人。消防の地区台帳も、自主防災組織の名簿も同じだった。
「昨日は77だったよな」
「はい」
「誰か泊まりに来てたとかなら分からないけど」
「それはあります。でも、防災無線には地区内に何人いるかを数える機能なんてありません」
三浦は頷いた。そもそも市役所にも、その時刻に各住宅に何人いたかなど分からない。
機械の故障なら、77という数字に意味などないはずだった。それでも、実際の人口より1人だけ多かったことが妙に頭に残った。
翌日の午後、三浦と藤原は戸沢へ向かった。
県道から細い市道へ折れ、戸沢橋を渡る。川の向こうには家々が続き、その背後から杉の斜面がせり上がっていた。
宅配便の軽ワゴンとすれ違った。軒先では男が農具についた泥を水で流し、小学生らしい子供が2人、自転車で橋の方へ走っていった。
公民館には佐々木のほか、数人の住民が集まっていた。
三浦が送信記録のない放送について説明しても、驚く者はいなかった。
「昨夜の放送、皆さん聞いていますよね」
佐々木が頷いた。
「ええ」
「77と言っていましたが、戸沢の住民登録は76人です。何か心当たりはありませんか」
誰かが顔を上げ、すぐに視線を伏せた。
佐々木は答えず、窓の外を見た。
代わりに、部屋の端に座っていた小野寺キヌが口を開いた。
「昔は山から聞こえたんだよ」
三浦は彼女の方を向いた。
「何がですか」
「人数」
小野寺キヌはそれ以上続けなかった。
「防災無線ができる前から?」
「そりゃ、こんなものはなかったからね」
少し笑ったあと、窓の外へ目を戻した。
「荒れた晩に聞こえたら、家の人間を呼んで確かめるなって言われたね。名前を呼ぶのも駄目だった」
「どうしてです?」
「さあ」
小野寺キヌは首を振った。
「昔の人だって、何でも理由を知ってたわけじゃないよ」
佐々木が壁の時計を見た。まだ午後3時を過ぎたばかりだった。
「設備を見るなら、今日は日があるうちにお願いします」
藤原が尋ねた。
「夜は駄目なんですか」
佐々木は藤原ではなく、三浦の方を見た。
「来なくていいですよ」
答えはそれだけだった。
市役所へ戻ると、久慈野は報告を聞き終える前から機嫌が悪かった。
「夜に現地確認する話は出してないだろうな」
三浦は顔を上げた。
「課長も知ってるんですか」
「何を」
「戸沢の話です」
「昔から、夜は余計なことをするなと言われてる地区だ。それだけだ」
「理由は?」
そこで久慈野はようやく三浦を見た。
「現地の連中が来るなと言ってるなら、来なくていいだろ」
三浦が何か言い返そうとすると、久慈野は書類へ視線を戻した。
「放送設備の異常なら昼間に調べろ。夜にしか出ないなら、まずこっちで記録を取れ」
それ以上は話さなかった。
*
数日後、再び弱い雨の予報が出た。
三浦と藤原はその夜も庁舎に残り、午前2時17分を待った。前回とは違い、2人ともその時刻を意識していたが、口には出さなかった。
時計が2時17分へ変わると、確認用スピーカーの奥であのざらついた音が揺れた。
「住民確認を行います」
今回は2人とも席を立たなかった。
「戸沢地区、77」
藤原は録音を止めてすぐに送信履歴を確認したが、やはり何も残っていなかった。
翌日、保守会社の技術者を伴って戸沢の屋外子局3基を点検したものの、通信状態にも電源にも保存データにも異常は見つからない。
その日の夕方、三浦は久慈野へ夜間の現地確認を申し出た。
「2回とも同じ時刻です。こっちのログだけ見ていても、これ以上は分かりません」
「佐々木には聞いたのか」
「来なくていいと言われました」
「だったら行くな」
「それで原因不明の放送を放置するんですか」
久慈野はしばらく三浦を見ていたが、やがて机の書類を閉じた。
「公民館前から出るなよ。設備には触るな。」
許可されたことに三浦が少し驚いていると、久慈野は視線を外したまま付け加えた。
「何か変だと思ったら、確かめようとするな。帰ってこい」
理由は説明しなかったし、三浦も聞かなかった。
*
次の雨の夜、2人は午後11時前に戸沢へ入った。
その時間にはまだ家々の窓に灯りがあり、テレビの音が道路まで漏れている家もあった。軽トラックから荷物を下ろしていた男が三浦たちの車を見て軽く頭を下げ、そのまま家へ入っていった。
公民館前へ車を止め、受信機とタブレットを準備する。
午前1時を回ったころ、山側の家で玄関灯が消え、少し遅れてその下の家でも窓の明かりが消えた。離れた場所から木の雨戸を引く重い音が響き、さらに別の家でも同じ音がする。
誰かが合図をしている様子はなかったが、戸沢から生活の気配だけが少しずつ引いていった。
軒下につながれていた犬が家へ入れられ、まだ開いていた窓には厚いカーテンが引かれた。1時40分を過ぎるころには道路に人影はなくなり、家の中から聞こえていたテレビや話し声も消えていた。
どの家も、ただ眠ったようには見えなかった。
1時55分、佐々木から電話が入った。
『まだ公民館ですか』
「はい」
『もう外には出ないでください…車の外で何か聞こえても、そのままでいてください』
「何が聞こえるんです」
また沈黙があった。
『分からないから、そうしてるんです』
通話はそこで切れた。
午前2時を過ぎると雨脚が細くなり、車の屋根を叩いていた水滴にも隙間ができた。ワイパーを間欠にしても、道路の先まで見通せる。
藤原は無線受信機とタブレットを確認していた。どちらにも異常はない。
時計が2時17分を示しても、数秒のあいだ何も起こらなかった。
三浦が時計を見直したとき、公民館の屋根の向こうから妙な音が届いた。風が木を鳴らしたにしては細く、電子機器の雑音にしては妙に生々しい。乾いた布の表面を、爪の腹でゆっくり撫で続けているような音だった。
その音がまだ残っているうちに、防災スピーカーから女性の声が流れた。
「住民確認を行います」
藤原が録音を開始する。
「戸沢地区、77」
放送が終わると、また雨音だけになった。
「履歴、ありません」
藤原が画面へ視線を落とした直後、山側の道で小石が擦れた。人が砂利の上へ靴を置き、ゆっくり体重を乗せたときの音によく似ている。
しばらくして、また鳴った。
歩く速さを想像すればまだ遠くにいるはずなのに、2度目の音は三浦が考えていたよりずっと近い場所から聞こえた。
2人は話さなくなった。
足音は道沿いの1軒目の前で止まり、しばらくそこから動かなかった。やがて再び砂利が鳴り、次の家へ移ったらしい音がして、また止まる。それを繰り返しながら、家を1軒ずつ確かめるようにこちらへ下ってきていた。
藤原が声を落とした。
「戻りましょう」
三浦も頷き、エンジンを始動した。ヘッドライトが点くと、濡れた道路が白く浮かび上がった。
光の端に、人が立っていた。
20メートルほど先だった。傘は差しておらず、背丈も体つきも、離れて見る限り人間と大きく違わない。
ただ、顔だけが見えなかった。
暗いからではない。ヘッドライトは胸元まで届いているのに、その上だけが妙に深く沈み、輪郭すら決まらない。
三浦は俯いているのだと思ったが、そう考えた直後には人影はこちらを向いていた。首を動かしたところは見ておらず、いつ向きが変わったのかも分からなかった。
藤原の呼吸が浅くなる。
人影はゆっくりと歩き始めたが、次に砂利を踏む音が聞こえたときには、最初の半分ほどまで距離が縮んでいた。
三浦はギアを入れ、公民館の駐車場から道路へ出るために車を切り返した。その間にも人影は走ることなく歩き続けているのに、バックミラーの中では少しずつ大きくなっていった。
前方の道路には、風で折れたらしい杉の枝が落ちていた。完全に道を塞ぐほどではなく、左へ寄せれば抜けられる程度だった。
三浦が速度を落としたところで、助手席の藤原が何も言わず腕を掴んだ。
倒木の向こうに、人影が立っていた。
さっきまで後ろにいたはずだった。
どうやって前へ回ったのか考えかけた三浦は、久慈野の言葉を思い出した。
《確かめるな》
三浦はすぐに車を後退させ、公民館の脇から佐々木宅へ抜ける細い道へ入った。ところが途中で後輪が路肩の泥へ落ち、アクセルを踏んでもタイヤが空転する。
佐々木の家までは30メートルもない。その背後では、砂利を踏む音がゆっくりと近づいていた。
「行こう」
2人は車を降り、雨の中を走った。
玄関まで来たところで、三浦は戸を叩こうとして手を止めた。誰から禁止されたわけでもない。それでも、すべての家が息を殺している戸沢の中で、自分の声や拳の音だけを響かせることが、ひどく危険なことに思えた。
後ろで砂利が鳴り、藤原が振り返った。
人影が道へ入ってきている。相変わらず歩いているだけなのに、見ている間にもこちらとの距離は縮まっていた。
そのとき、玄関の引き戸が音もなくわずかに開き、中から佐々木の手が伸びた。
三浦が藤原を先に押し込み、自分も身体を滑り込ませると、戸はすぐに閉まり、錠が掛かった。
家の中は暗く、佐々木と家族3人が灯りもつけずに座っていた。誰も三浦たちへ事情を尋ねようとはしない。
三浦は荒くなった呼吸を抑えながら、玄関を見た。
外の足音が止まった。
軒から落ちる雨水の向こうで、何かが引き戸に触れる細い擦過音が聞こえた。濡れた指先を這わせているのか、枝が擦れているのか、それすら分からないまま、音だけが戸の端から端へ急ぐことなく移動していく。
やがて錠が、ごく小さく震えた。
藤原が口元を押さえたが、佐々木も家族も動かなかった。三浦も、それが何なのか確かめたいとはもう思わなかった。
しばらくして戸から気配が離れ、次の足音は少し遠い場所で鳴った。そのさらに次は、隣の家の前だった。
佐々木がようやく息を吐いた。
「朝まで、ここにいてください」
三浦は玄関を見たまま尋ねた。
「あれは、いつもこうなんですか」
佐々木は少し考え、
「いつもかどうかも、分かりません。誰も見に出ませんから」
とだけ答えた。
翌朝、市役所へ戻ると、久慈野は2人の顔を見ただけで、だいたい察したようだった。
「見たのか」
三浦が頷くと、久慈野は詳しく聞こうとはしなかった。
「課長、あれは――」
「知らん。佐々木たちも知らん。昔の連中も、たぶん知らん。戸を閉めて朝まで待つ。それだけ残ってる」
目で見れば何かが分かると三浦は思っていたが、実際には逆だった。輪郭を見たことで、分からないものが確かに存在していることだけが分かってしまった。
*
2日後、気象台から大雨の予報が出た。
今度の雨は、それまでとは違った。夕方から雨脚が強まり、午後11時には戸沢上流の観測値が警戒基準へ近づき、午前0時を過ぎると斜面の簡易計測器にも小さな変化が現れ始めた。
消防団が戸沢へ入り、高齢者世帯には避難準備を促したが、佐々木から市役所へ電話が入った。
『年寄りが外へ出たがらないんです』
三浦には理由を聞く必要がなかった。あの夜、自分も車の外へ出たくなかった。
それでも、画面に出ている斜面の変化は、戸を閉めて朝まで待てば消えるものではない。
「今すぐ出なくていいです。ただ、全員すぐ動けるようにしてください。消防も中に残します」
時刻は午前1時38分だった。
藤原が斜面計測値を確認し、久慈野も横から画面を覗いた。
「まだ持つか」
「今の変化なら。ただ、次に大きく動いたら待てません」
午前2時を過ぎても、76人全員がまだ戸沢地区内にいた。避難準備は終え、車には荷物が積まれ、消防団員も配置についている。
2時17分になると、庁舎のスピーカーからあの音が流れた。
最初に聞いた夜なら、ただの回線雑音だと思っただろう。今の三浦には、その音が戸沢の暗い道と結びついて聞こえた。
「住民確認を行います」
続いて、
「戸沢地区、77」
と告げた。
声が途切れた直後、藤原のモニター上で斜面計測値が大きく跳ねた。
三浦は数字を確認し、もう待てないと判断した。
「避難指示を出します」
久慈野が頷き、正規の防災放送が戸沢へ送られた。待機していた消防と佐々木にも一斉に連絡が入り、戸を閉めて朝を待つはずだった夜に、住民たちは外へ出なければならなくなった。
*
三浦と藤原が戸沢へ着いたとき、住民の避難はすでに始まっていた。
閉め切られていた家の戸が1軒ずつ開き、高齢者が家族に支えられて車へ乗り込む。子供を抱いた女が足元を確かめながら橋へ向かい、消防団員が最後まで残った家を回っていた。
住民たちは必要な会話しかしなかった。山側を振り返る者もほとんどいない。
三浦は名簿の上でだけ人数を確認し、橋を渡った世帯へ順番に印をつけた。家族4人、高齢者2人、単身世帯1人と数字は積み上がったが、声には出さなかった。
最後の数世帯を出すため、三浦は佐々木と山側の道へ戻った。
その途中で砂利を踏む音が聞こえ、三浦の足がわずかに止まりかけた。佐々木は振り向かず、「行きましょう」とだけ言った。
老人を消防車へ乗せるあいだにも足音は続いていた。一定の間隔で鳴っているだけなのに、次第にこちらとの距離が縮まっているのが分かる。
最後の家族が外へ出たところへ藤原が橋側から戻り、「これで全員です」と告げた。三浦は名簿を確認し、あとは住民全員を地区の外へ出せばいいと判断した。
住民たちはまとまって戸沢橋へ向かい、三浦は最後尾についた。雨で濡れた道路の先に橋が見えている。
その背後で、続いていた足音が止まった。
近づいてくる音より、急に何も聞こえなくなったことの方が嫌だった。三浦はそのまま歩こうとしたが、背中に何かを向けられている感覚がどうしても消えず、1度だけ振り返った。
街灯の下に、あの夜と同じ人影が立っていた。
50メートルほど離れているように見えたが、三浦が瞬きをすると距離の感覚だけが狂い、今度は30メートルほどしかないように見えた。歩いたところは見ていない。
ただ、近くなっていた。
橋の向こうから藤原の声がした。
「三浦さん!」
三浦が走り出すと、人影もまた歩き始めた。こちらは息が切れるほど全力で走っているのに、背後から聞こえる足取りは相変わらずゆっくりしている。それでも砂利を踏む音は遠ざからず、むしろ少しずつ大きくなった。
橋へ入ると足元の感触が砂利から舗装へ変わり、その下では濁流が橋桁を震わせながら流れていた。
三浦は住民たちが全員対岸へ出ているのを確かめ、そのまま橋を渡り切った。
その瞬間、背後の足音が途切れた。
息を整えながら振り返ると、人影のようなものが戸沢側の橋の入口に立っていた。橋の中へは入ってこない。
人影のようなものは、しばらくこちらを向いていたあと、ゆっくり身体の向きを変え、誰もいなくなった戸沢の家並みへ戻っていった。
*
午前3時過ぎ、戸沢地区の住民76人全員の避難が確認された。その約30分後に上流で土砂崩れが発生し、住宅2棟と倉庫1棟が損壊したものの、死者も行方不明者も出なかった。
夜が明けてから、三浦と藤原は消防とともに戸沢橋の手前まで戻った。
ほとんど眠っていない身体は重く、雨具の内側まで湿っている。橋そのものに大きな損傷はなかったが、その先の道路には山から流れ出した泥や枝が積み重なり、地区内へ車両を入れられる状態ではなかった。
住民はまだ誰も戸沢へ戻していない。
藤原がタブレットで設備状況を確認すると、地区全域で商用電源が落ち、3基の防災子局も最後の監視記録では予備電源まで停止していた。その後は通信そのものが途絶えている。
「少なくとも、設備上は鳴りません」
藤原の言葉に、三浦は小さく頷いた。
橋の向こうには、雨戸を閉じた家々が朝の湿った空気の中に並んでいた。昨夜までそこにいた住民76人は、いま全員こちら側にいる。避難所の名簿だけでなく、消防も佐々木も確認しており、1人も欠けていなかった。
そのとき、向こう岸のスピーカーから、聞き覚えのある微かなざらつきが漏れた。
藤原がすぐにタブレットへ目を落としたが、表示は変わらない。
三浦の胸の奥だけが、先に冷えた。昨夜、あの人影が歩き始める直前にも、この音を聞いている。
やがて、無人の戸沢から女の声が届いた。
「戸沢地区、1」
徹夜の疲労に加え、また同じ声が届いた不気味さが重なり、三浦は思わず目を閉じた。
…ところが、瞼の裏で、昨夜の人影が姿を持ち始めた。
長い黒髪。
雨に濡れ、頬に張りついている。
白い顔。
落ち窪んだ目の周りだけが、墨を滲ませたように暗い。
女だった。
汚れた白い着物をまとい、全身が雨の中から引き上げられたばかりのように濡れていた。
三浦は目を開けようとしたが、瞼に力を入れることができなかった。女は昨夜の道路に立っているのではなく、もう手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる。
濡れた袖から白い手を差し出し、細い指をゆっくり、何度もこちらへ曲げていた。
唇はそのまま静止しているのに、防災スピーカーと同じ女の声が、三浦の耳のすぐそばで湿って響いた。
「こっち……」
笑っているのか、息を漏らしているのか分からない声を聞いた瞬間、三浦は、橋の向こうにいたはずのものが、もう自分のすぐそばまで来ているような恐怖に襲われた。
女は白い手を差し出したまま、なおもゆっくりと手招きを続けている。
「……おいで」
三浦は目を開けた。戸沢橋と、濡れた家並みが目の前にあった。
ゆっくり息を吐き、呼吸を整えようと深く吸い込む。耳に聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけだった。
そこへ、湿った呼吸が重なった。
三浦が息を止めても、それは止まらない。
やがて、その湿った息が言葉の形を帯びた。
「こっちおいで」




