婚約破棄された公爵令嬢は、物乞いになった
王都の道を行く人は、誰も私のことなど見ない。
見たとしても、見ていないふりをして通り過ぎる。
私は卑屈な笑みを浮かべて、施しを求める。
応じてくれる人はほとんどいない。
王都は不景気で、他人に施せるほど余裕のある者はほとんどいない。
そこに、誰かが私の前で足を止めた。
顔を上げて見ると、一人の若い男がおり、私のことをじっと見つめていた。
服装からして貴族令息なのだろうが、薄汚れて擦り切れた上着を見ると、とても裕福な貴族ではなさそうだ。
「何か恵んでいただけませんか?」
私は期待もせずに、そうお願いした。
すると、男は手にしていたパンを差し出してきた。
「これを買ってしまって、お金はもうなくて……すみません」
私はなぜ謝られているのか不思議に思ったが、もう丸二日何も食べていなかったので、パンはありがたかった。
「ありがとうございます」
そう言ってパンに手を伸ばそうとしたときだった。「ぐぅ」と若い男の腹が鳴り、私は思わず手を止めてしまった。
この方は、ご自分もお腹が空いているのに、私にパンを差し出そうとしている……。
「ああ、すみません。お気になさらないでください」
私も気にせずパンを食べたかったが、どうしてもそれが間違ったことのように思えてならず、パンを受け取ることができなかった。
「……やっぱり気になりますよね。実は僕もお腹が空いていて……。半分ずつ食べましょう」
そう言って、若い男が私の隣に座った。
私は自分の匂いがするのではと、恥ずかしくなったが、男は気にしていない様子だった。
「どうぞ」
男はパンを半分にちぎり、大きい方を私に差し出した。
私は頭を下げて、パンを受け取った。
パンを齧ると、固かったがおいしかった。
公爵令嬢だったときに食べていた柔らかいパンの何倍もおいしかった。
「そんなおいしそうに食べていただけると、僕も幸せな気持ちになります」
若い男もパンを齧る。
「おいしいですね。固いですけれど」
そう言って男は笑った。
二人であっという間にパンを食べ終えると、男が口を開いた。
「僕はレナートと言います。一応、貴族の息子なんですが……父がお人好しで、あまり財産はないんです」
私と話をするつもりなのかと驚いたが、パンをもらった手前、黙って聞くことにした。
「父は頼まれると断れない性分で、先日も、ヴォルフラム殿下に頼まれてお金を貸したようなのですが、領地を担保にしてまでお金を作らされて……。それで、殿下はまったく返してくださる様子もないようで……」
ヴォルフラム殿下……王太子だ。私にも少なからぬ因縁がある。
「ああ、すみません。僕の話なんてしてしまって。何だかあなたが他人には思えなくて。失礼ですが、仕草を見ていると、もしかしたらあなたも貴族だったのではと思いまして……」
私は頷いた。
「はい、私は貴族でした。私はマルガレーテ・ラウエンシュタインと言います」
「ラウエンシュタイン? 公爵家の?」
「申し訳ございません。私はもうラウエンシュタインの人間ではございませんでした。ただのマルガレーテです……」
「そう……。何だかいろいろ事情がありそうだね」
レナートが立ち上がる。
「また、パンが手に入ったら来ますよ。どうか、お元気で」
「あなたも。……レナート様。貴重なパンをありがとうございました。このご恩は決して忘れません」
「そんな大げさな。気にしないでください」
そう言ってレナートは笑った。するとまたお腹が「ぐぅ」と鳴った。
「じゃあ、またね。マルガレーテさん」
レナートは恥ずかしそうに去っていった。
それから再び、私は道行く人々に頭を下げ、施しをお願いしていた。
「マルガレーテはどこの娼館にいるのだ?」
ふと、そんな言葉が耳に入った。
顔を上げて見ると、そこに華美な服装をした男たちが通り過ぎた。
その中で、ひときわ多くの装飾を身につけた一人に、私は見覚えがあった。
王太子ヴォルフラム……。
私をこの境遇に追いやった張本人だ。
※
私はつい十日ほど前までラウエンシュタイン公爵家の令嬢だった。
そして、王太子ヴォルフラム殿下の婚約者でもあった。私の意思とは関係なく、王家と公爵家の間で決められた婚約ではあったのだけれど。
「マルガレーテ、おまえとの婚約は破棄だ」
それは、国王陛下が崩御された翌日のことだった。
私は王宮に呼び出され、殿下が唐突に婚約破棄を告げてきた。
隣には伯爵令嬢のセラフィーネ・アルテンブルクが立って、薄く笑みを浮かべていた。
「理由をお伺いしても……?」
私は突然のことに戸惑ったが、公爵である父に説明をしなければならない。
「おまえは俺を毒殺しようとしたではないか。知らぬとは言わせんぞ」
そう言う殿下の横で、セラフィーネが口を覆い、笑いを堪えているのがわかる。
毒殺……?
まったく身に覚えのないことだった。
「おまえが俺に贈ってきた茶葉に毒が含まれていた。毒味をした侍従が死んでしまった……。おまえのせいだ」
ヴォルフラム殿下は私を強く睨んだ。
「恐ろしい……。人殺しではないですか……」
セラフィーネが驚いたような顔をして言った。
確かに公爵家の領地で採れた質の良い茶葉を、執事に頼んでヴォルフラム殿下に贈るように依頼はした。けれど、そこに毒を含めるようになど、もちろん指示するわけがない。そもそも、そんなことをして、私や公爵家に何の益があるというのか。
もちろん執事や侍従が王家への贈り物に自発的に毒を仕込むことなどということもあり得ない。
「私はそんなことはしておりません。何かの間違いです」
私は否定した。私が人を殺めるなどあり得ない。
「もう人が死んでしまったのだ。これ以上の証拠はあり得ないだろう。もうよい。出ていけ」
ヴォルフラム殿下は興味なさそうにそう告げた。
どんな反論も聞き入れるつもりはないと、そんな目をしていた。
私はうなだれ、出て行こうとした。
「マルガレーテ、待て」
殿下が私を呼び止めるので、振り返った。
ヴォルフラム殿下は、私を見下すような視線を向けていた。
「おまえはもう公爵家に戻ることはできん」
殿下が冷たく言い放った。
「どういう……ことでしょう?」
毒殺疑惑に続いて、公爵家に戻れないと言われ、私は混乱した。
「俺も大ごとにはしたくないのでな。それに死んだのは幸い、ただの侍従だ。この件は正式な裁定にはかけん。そこで、ラウエンシュタイン公爵には、マルガレーテなどという令嬢は最初からいなかったことにしろ、と伝えるよう使者を送った。つまり、マルガレーテ・ラウエンシュタインなどという人間も最初からおらず、死んだ侍従もおらず、殺人もなかったことにしてやると言っているのだ」
私はここにいるのに、いないことにする……?
「仰っていることがわかりません……」
セラフィーネがついに堪えきれなくなったのか、大笑いを始めた。
「ふふふ。殿下、王宮に平民……いえ、平民以下の曲者を入れてしまってはいけませんわ。追い出さないと」
ヴォルフラム殿下も薄ら笑いを浮かべて頷く。
「衛兵! 曲者をつまみ出せ!」
殿下の合図に、衛兵が私の腕をつかんだ。
その強い力に私は逆らうすべもなく、引きずられていった。
「ああ、そういえば、王都の娼館であれば、身分がなくても働けると聞いたわ」
セラフィーネが引きずられていく私に向けて言った。
このまま公爵家に帰れば、父や家族に迷惑がかかってしまうことは容易に想像がついた。
父は家族想いの優しい人だ。私のことを庇って、その結果、殺人者のいる家だと汚名を着せられることになるだろう。
私はもう、公爵家の屋敷に帰ることはできない。
そうして私は、家のない、物乞いとなった。
※
「マルガレーテの噂は聞きませんね。どこかで野垂れ死んでいるんじゃないですか。殿下のせいですよ」
殿下の取り巻きらしき男が言った。
確かクラウス様という名の子爵令息だったか。
「娼館以外にあいつが稼ぐ方法はないだろう。落ちぶれた惨めな顔を見て笑ってやりたかったが、死んだのなら仕方あるまい。もうどうでもいいわ」
殿下が答えた。
「マルガレーテを愛していたのなら、そんな冷たいことは言わないと思うんですけどね」
おどけたようにクラウス様が返した。
「ふん。くだらんことを言うな、クラウス。あいつは俺の好みではなかった。どこか辛気臭くてな。セラフィーネのように明るく華やかな女が好みなのだ。そもそも毒殺しようとする女を愛するわけがなかろう」
そう言って殿下が笑った。
「あれは殿下が……」
「何かお恵みください」
私は話に割り込み、殿下に向けて手を伸ばした。
「汚い手で触るな!」
殿下は私の顔も見ずに、私の手を払った。
「なぜこの王都にはこんな汚い人間が多いのだ」
それだけ言い捨てて、王太子は去って行った。
「ごみ掃除は王家のお仕事では?」
クラウス様がまたふざけて言った。
私は……その後を追った。
物乞いの姿など、誰も見ていない。いや、見ようとしない。
だから尾行も難しくはない。
王太子殿下一行が向かった先に豪奢な建物が見えた。派手な装飾が施された建物には、多くの人々が出入りしており、その様子に私は圧倒されていた。
入っていく人々は意気揚々とし、出てくる人々は一様にうなだれていたが、中には興奮した様子の者もいた。
そこは表向きは存在しないことになっている賭博場だった。この王都では誰でもその存在を知っているが、取り締まられることはなかった。
「今日はある程度まとまった金が入った。絶対に勝つまでつぎ込んでやる」
ヴォルフラム殿下がそんなことを言った。
「また貧乏貴族から巻き上げた金ですか? 金貸しがもう貸してくれないからって、貴族から金を搾り取るなんて……殿下もやりますね!」
クラウス様がまた楽しそうに言った。
「今日は大勝ちするからな。そうしたらやつらにも少しは恵んでやるさ」
私は殿下の言う「貧乏貴族」の中に、レナート様の家が入っていることを確信した。殿下は最初から借りたお金を返す気などないのだ。
周りを見渡し、手近な石を見つけ、それを拾い上げた。こんなことをしても何にもならないが、私は悔しい気持ちをぶつけるのに、この程度のことしかできない。
私はそれを殿下に向けて投げようとした。
「やめなさい」
そう言って私の腕を後ろからつかむ者がいた。
振り返ると、見覚えのある男性だった。見覚えがあるどころか、私が今思い浮かべた方……。
「レナート様……?」
「あなたもヴォルフラム殿下を尾行していたのですね。マルガレーテさん」
あなたも……?
「僕もずっと、殿下を追っていました。そこにあなたまでついていくものだから驚きましたが……。その上、殿下に石まで投げようとして……。あの殿下に怪我でも負わせたら、下手をしたら処刑されかねませんよ。
物乞いなど誰も見ていないとお思いですか? 僕のように見ている者もいるのですよ」
「すみません……」
私はレナート様に頭を下げた。
確かに、仮に少し怪我をさせたところで、そんなことが復讐になどなるはずもないことはわかっていた。レナート様に止めていただかなければ、どうなっていたか……。
「ひょっとして、あなたもヴォルフラム殿下のせいでそのような境遇になったのではないですか? あなたの立ち居振る舞いやパンを食べる仕草からも、あなたは貴族であっただろうことは容易に推測できました。深い事情は伺いませんが、殿下にすべての清算をさせたいのなら、石をぶつける程度ではだめです」
「でも……。物乞いの私には、何の力もありません……」
そう言う私を、レナート様が真っ直ぐに見つめた。
「僕と、協力しませんか?」
「協力……?」
「はい。殿下の犠牲になったのはあなたや僕だけではないのです。僕はもともと家のお金が何に使われているか調べようと思っていたのですが、調べているうちに、それ以外にも多くの人たちが被害にあっていることがわかりました。僕は、殿下にその悪事の清算をしていただこうと思って、何か策を講じようと考えています。
そして、あなたは幸い……と言っては何ですが、どうやら殿下や周りの注意を受けにくいようです。僕では尾行が難しいこともありますが、今回も殿下を追うあなたを距離を置いて追うことで、見つからずにここまで辿り着きました。これを利用できると思うのです。
もちろん、あなたが嫌でしたらお断りいただいて構いません」
レナート様にはパンの恩もあり、信頼できる気もした。そもそもこんな物乞いを騙して得るものもないだろうし、私が失うものもない。
そして何より、私はあの男に復讐したい。
「わかりました……」
私が頷くと、レナート様が微笑む。
「本当はとても心苦しいのですが……少し危険なこともお願いするかもしれません。なるべくあなたに危害が加えられないようにしますので、どうかよろしくお願いします」
私にはもう失うものなどない。
「はい、やらせてください」
※
「何だ、おまえらは?」
賭博場から出てきてつい先ほどまで機嫌が良さそうだったヴォルフラム殿下が、顔をしかめて言った。
賭博場から出てきた殿下の周りを、人相の悪い男たちが取り囲んでいた。
「殿下。何だ、とは心外ですな。借りた金は返していただかないと。子どもでも知っていることです」
「おまえらに金を借りた記憶はないが?」
「金を借りた記憶はおありなんですね?」
「ああ、何人からかは借りているな。だが、おまえらには関係のないことだ。どけ」
ヴォルフラム殿下が進もうとするが、男たちはどかない。
「貴様ら、俺が王太子と知っていてどういうつもりだ?」
「殿下。こいつら……闇ギルドの者じゃないですか?」
クラウス様が言った。
「闇ギルド……? だから何だというのだ」
「無法者だということです。つまり王国の法の外にいるということで……」
「だから何だというのだ? この王国に王家より権力のある者はおるまい」
闇ギルドの男たちは失笑した。
「そちらの貴族のぼっちゃんの方が殿下よりよくわかっているようですな。闇ギルドというのは王家の言うことも聞かないということなんですよ……」
「ふん、言うことを聞かんのなら、力づくで聞かせるまでだ。王国騎士団でも動員してやる」
「ふふふ。面白いことを仰いますな。王国騎士団に闇ギルドを壊滅させるだけの力があるのであれば、とっくにやっているでしょう。王家の方の割にきちんと教育を受けていないと見受けられますな」
「何だと、貴様。不敬罪だ! おい、衛兵! こいつを捕えろ」
殿下が叫ぶが、賭博場の前にいた衛兵はピクリとも動かなかった。
「何をしている! 俺は王太子だぞ!」
殿下がいくら喚いて威嚇しても衛兵は相変わらず何の反応も見せない。
「衛兵も言うことを聞いてくれないようですな。少しは状況をご理解いただけましたかな? この賭博場は我々が管理しておりまして、そいつは我々の警備兵なのですよ」
ヴォルフラム殿下はそこで初めて顔に動揺の色を浮かべた。
「殿下。最近、我々からお金を借りてくださる貴族の方が増えましてね。その方々があなたにお金を貸していると耳にしまして……。つまり、あなたが貴族の方々にお金を返してくださらないと、貴族の方々も我々にお金を返すことができないようなのです。
つまり、殿下は我々闇ギルドから闇ギルドの金を借りて、賭博をしているということに気づきましてね。王家の方が違法賭博に手を染めていることを公表してしまってもいいのですが……。
賭博場をご利用いただいて、お金を注ぎ込んでいただけるのはありがたいのですが、うちの金をうちに戻していただいているだけということであれば、うちに入ってくるお金の総量が増えないのでは、と思いましてね。それに今日は賭博に勝って我々の売り上げも減らされてしまったようですね……」
「そ、そんなもの、貴族のやつらの領地収入から取ればいいではないか!」
「殿下。あなたが金をむしり取っているのは、力のない弱小貴族ばかりなのです……」
「だ、だから何だというのだ……」
「そんなはした金じゃ足りねぇって言っているんです。いくら愚かな殿下でもそろそろわかっていただけませんかね? こっちもそんな暇じゃねぇんですよ」
ヴォルフラム殿下はわけがわからないのか、言葉を失った。
「おまえが払えって言ってんだよ!!」
殿下は突然怒鳴られ、びくっと肩を震わせた。
誰かから怒鳴られたり、「おまえ」呼ばわりされるなど、生まれてこのかた、体験したこともなかったのだろう。恐怖に顔が引き攣っていた。
そして、震える手で懐から重そうな袋を差し出した。
闇ギルドの男がそれを受け取って袋の中を改めた。
「うちの賭博場で勝った金を返されてもな……。ちゃんときっちり耳を揃えて返してくださいよ……」
「わ、わかった。父上と財務卿に頼んで、金を揃える……」
闇ギルドの男が満足そうに頷いた。
「世間知らずのようなので、ご存じないかもしれませんが、お金を借りたら『利子』というものを払わないといけないのですよ。王太子殿下ともあろう方が、まさかタダでお金を借りられるとは思っていらっしゃらないでしょうが……。念のため」
殿下が必死に頷いた。
「闇ギルドを舐めない方がいいですよ、殿下。王族だろうと物乞いだろうと、お金を借りていただけるお客様には、平等に同じように取り立てさせていただきますので、お忘れなく。ときには死ぬよりずっと恐ろしい目にあっていただくこともありますので……」
そう言って金貸しは、人相の悪い顔に大きな笑顔を浮かべた。
※
「くそっ、むしゃくしゃする。娼館に行くぞ」
闇ギルドの男たちが去った後、ヴォルフラム殿下が言った。
「……ですが、賭博場で勝った金も差し出してしまったではないですか」
クラウス様が驚いて言った。
「そんなものはツケにしておけばよい。俺は王太子なのだ」
殿下は、その言葉を自分に言い聞かせているようでもあった。
クラウス様はうんざりしたような顔をしながらも、殿下の言葉に従い、歩き始めた。
私はその後を追うが、ヴォルフラム殿下は私の存在には相変わらず気がつかない。いや、気づいたとしても、きっと道端に捨てられた果実の皮と同じで、気に留めないのだ。
そしてたどり着いたのは、艶やかな紅色の扉を持つ建物で、入口の周りに着飾って濃い化粧をした女たちが立っていた。
ヴォルフラム殿下がまっすぐに入っていったところを見届けて、私は引き返した。
※
一時間ほどしてから、私はまた娼館に戻って様子を見ていた。
ほどなく、ヴォルフラム殿下が建物から出てこようとしていた。
「前の分も王宮から払うと仰っていたのに、まだ払われていないですよ!」
「もしこのまま払われないようならセラフィーネ様に娼館通いのことを伝えますよ!」
そんな声が娼館の中から聞こえた。
「うるさい! 俺は王太子だぞ。金ならいずれ払う」
殿下はそう応じていた。
そこに、外から別の煌びやかな服装をした若い女が近づいてきた。
「ヴォルフラム殿下、どういうことですか?」
女は、殿下の恋人のセラフィーネだった。
彼女に気づいた殿下が狼狽えた。
「セラフィーネ……。なぜこんなところに……」
それは、私がレナート様に、殿下が娼館にいることを報告して、レナート様がセラフィーネ様に知らせたから。
「殿下! ちゃんと払ってくださいね。お願いしますよ! あっ!」
娼館から顔を出した濃い化粧の女もセラフィーネに気づき、すぐに顔を引っ込めた。
「私がいながら、なぜこんなところにいるのですか……? 通いつめているようなことも聞こえましたが?」
「ここで騒ぐな。場所を変えて話す」
ヴォルフラム殿下はセラフィーネの腕を掴み、強引に引っ張った。
取り巻きのクラウス様がついていくべきか迷っているようだったが、「二人だけで話す」と殿下が言うので、クラウス様は留まった。
セラフィーネは苛立ちを隠さないまま、連れられていった。
私はそこにふらっとついていった。
※
ヴォルフラム殿下は、歓楽街の入口付近まで来ると、セラフィーネを馬車に押し込み、歓楽街を去ろうとした。私は慌てて、そっと馬車の荷台に乗り込んだ。
二人は冷静ではないはずだ。きっと気づかれないだろう。
次第に人もまばらになり、やがて周囲に誰もいなくなった。
やがて馬車は王都の外れの森の前に止まり、二人はその森の中へ入っていった。私も荷台から静かに降り、距離を置いて後を追った。枝や葉を強く踏んで音を立てないよう、足元に気をつけて歩いた。
「どこまで行くのですか? もうこれ以上歩けませんよ」
セラフィーネはますます不機嫌になっていった。
「もうすぐ着く。黙って来るんだ。誰もいないところで話すぞ」
「それならここでよいではないですか」
「だめだ。ここはまだ人が来る可能性がある」
そう言って殿下が周りを見渡すので、私は木の陰に身を隠した。
「責められる側の殿下がなぜ、私を引っ張りまわすのです?」
セラフィーネもそろそろ我慢の限界、といったところのようだ。
「黙れ。俺にもおまえに聞きたいことがあるのだ」
「え? 何ですか? 殿下の不貞よりひどいことが私にあるとでも言うのですか?」
セラフィーネの声が上ずった。
殿下はセラフィーネを責めるとは言っていないのに、そんな反応をするということは、きっと何かやましいことに心当たりがあるのだ。
「ああ、セラフィーネ。おまえ、王家の……俺の金を横領しているだろう? 今まで黙っていたが、おまえが俺を責めるつもりなら、俺にだって考えがある」
「横領ですって? 私がそんなことするはずないじゃない。……仮にあなたのお金を使ったって、私は王妃になるのだから、別によいではないですか?」
「……おまえは王妃になどならん」
「えっ? どういうことですか? あのマルガレーテを追いやったのですから、私が王太子妃になるのではないのですか?」
「死んだ父上と宰相が、隣国の王女との結婚を決めてしまっていた。正式な先王の遺言に書かれていたのだ。それを知ったのはマルガレーテを追いやった後だったが、やつをあんな目に遭わせずとも、どのみち婚約破棄せねばならなかったのだ」
「は? どういうことですの? 私は殿下のために手を汚して……取り返しのつかないことまでしたのよ! それなのになぜ……」
「それが政治というものだ。俺ですらどうすることもできん」
殿下は冷たく言い放った。
「嫌! もう帰ります! 放して!」
喚くセラフィーネに構わず、ヴォルフラム殿下は力尽くで彼女を引きずっていった。
その先に古い廃城があった。
かつて王家の者だけが立ち入ることを許された、閉鎖された城跡だった。
私は二人に気づかれないよう、壊れかけた門をくぐった。
そして、私はすべてを見た。
私がどれだけ卑賤な身分であろうと軽蔑するほど、卑劣なヴォルフラム殿下の行いを。
それは、私が思っていたよりもひどい結末をもたらしてしまった。
……それでも決して同情する気持ちにはならなかったが。
※
それから一週間後、ヴォルフラム殿下の戴冠式を翌日に控え、新たな国王の承認を行い、それを祝うための夜会が開かれた。
戴冠を承認する諸侯や貴族、聖職者たち、多くの参列者が集まった。
夜会が始まり、ヴォルフラム殿下が仰々しい挨拶を終え、機嫌良くしていたところで、戴冠の承認の儀に入った。
そこで、宰相ルートヴィヒ閣下が次のように述べた。
「殿下、皆様。ここから、ヴォルフラム殿下の戴冠の承認となる予定でしたが、その前にいくつか報告がございます」
予定外の閣下の言葉に、殿下はわずかに怪訝な顔をした。
「報告とは何だ、宰相」
「いくつかございます。まず一つ目ですが、先日、王宮に大量の督促状が届きました。かなり大きな額の借金の返済を求めるものでした。殿下に認められた歳費の十年分以上の額です」
ヴォルフラム殿下がさらに怪訝な顔となった。
「大きな借金だと? 王宮は何の浪費をしているのだ? これから俺が国王となるというときに不快な報告をするんじゃない」
ルートヴィヒ閣下は殿下の言葉を無視するように続けた。
「すべて、ヴォルフラム殿下に宛てられた督促状です。それも、闇ギルドからの督促状です」
「何だと? 俺は闇ギルドなどから金を借りてなどいないぞ」
「私も不審に思いました。ですが、その督促状が届いた直後に、ある申告がございました」
閣下の言葉に促されるように、夜会に列席していた一人の貴族の男が前に出た。
「私が代表して証言させていただきます」
「誰だ、貴様は?」
「レナート・ベルクマンと申します。ベルクマン子爵家の次男でございます」
それはレナート様だった。
「ベルクマン……」
殿下が呟いた。
「殿下はベルクマン子爵をはじめ、複数の貴族から多額の借金をしておりました」
「ふん。そんな端た金、国王になればすぐに返してやる」
「殿下、王宮の財産は、国王のものではありません。それに……」
「殿下は各貴族家に対し、領地を担保として闇ギルドから金を借り、その金を殿下へ差し出すよう強要しました。それも爵位が低く、王家に逆らいにくい貴族を狙っていたのです」
「強要などしておらん。ただ、王家に忠誠を示すよう言っただけだ」
「それが強要だと言っているのです」
「何を下らんことを。国王への口の利き方を知らんのか? ベルクマン子爵家だな。降爵は覚悟するんだな」
殿下の脅しにも、レナート様は怯まなかった。
「『闇ギルド』は、貸した金は必ず取り立てなければならないという使命感がとても強い。私が彼らにベルクマン子爵家や他の貴族家が借金をした事情を説明すると、彼らから本当に金を借り、その金を使っていたのは殿下だと認識されました。そして、その金を賭博や娼館に費やしていたことも……。
それで、各貴族家は、殿下の署名が入った借用書を『闇ギルド』へ譲渡しました」
夜会の会場がざわついた。
「賭博?」「娼館?」「国王にもなろうというお方が?」「ありえん」
ヴォルフラム殿下は慌てずに応じた。
「下らん。俺を妬む者たちが流した出鱈目な噂だ」
「娼館からも請求が多数来ております。ヴォルフラム殿下宛に。殿下が借金をしている各貴族家の帳簿にも記載がありますし、何より殿下ご本人が借用書に署名されており、その借用書は今、『闇ギルド』の手中にあります。署名の筆跡は鑑定すれば真贋がすぐわかりますので、捏造とは言わせませんよ。権力があれば、何でもなかったことにできるとは思わないことです。たとえ王太子であろうと、世間はそこまで甘くありません」
「捏造だ」
それでも「捏造だ」と言い張る殿下の声からは、自信は失せているように感じられた。
「報告はまだございます」
「もうよい。戴冠の承認に進め」
ヴォルフラム殿下は不機嫌そうに言った。
「そうはいきません。これらの報告は、諸侯による承認の判断に重要な材料となりますので」
「承認など形式だけのことではないか」
「過去に戴冠した国王に問題がなかったから、形式的な承認のようになっただけです」
「俺に問題があるとでも言うのか! 宰相ごときが!」
「報告を続けさせていただきます。次はマルガレーテ・ラウエンシュタイン公爵令嬢についてです」
殿下はまだ不機嫌だったが、この件に関しては大きな問題などないとでも言うように、焦りなどは見せなかった。
「元公爵令嬢であろう? 俺を毒殺しようとした極悪人だ。どこかで野垂れ死んでいるはずだ」
「正式な裁定もせずに公爵家から廃籍し、名前を抹消できると思い込んでいらっしゃるのも、あなたの勘違いです、殿下。その上、公爵邸の周囲に監視を置き、捜索の妨害までされていたようで……。もし本当に亡くなっていたら、あなたが殺したようなものですな」
「いい加減にしろ!」
ついにヴォルフラム殿下が激昂して叫んだ。
「マルガレーテ様は殿下の毒殺など試みてはおりません。贈り物の茶葉に混入した毒物は、セラフィーネ・アルテンブルク伯爵令嬢の自室で発見されました」
殿下は一瞬怯んだが、すぐに立て直した。
「何だと? セラフィーネ……あの女……横領だけでなく、俺の殺害まで目論んでいたか……。それで国外逃亡などしたのだな……」
「殿下が横領に気づき、それを問い詰めると、国外逃亡すると言って逃げ去ったということでしたな?」
「そうだ。俺も情が湧いてしまい、逃がしてしまった。殺害まで謀っていたと分かっていれば、取り逃しなどしなかったものを……」
「セラフィーネ様の失踪前、殿下は娼館の前で言い争っていたそうですね。そして、その後二人だけでどこかに行ったと……」
「……」
「娼館の方々も、ご友人のクラウス様も証言されています。今さら娼館通いを隠しても無駄ですし、それよりも、今重要なのは殿下とセラフィーネ様が二人でその後どうされたかです」
「馬車の中で話をして、セラフィーネは横領を認め、国外に逃げたのだ」
「それだけですか?」
ルートヴィヒ閣下が不思議そうに尋ねた。
「そうだ」
ヴォルフラム殿下はただ頷いた。
「殿下」
そこに再びレナート様が前に進み出た。
「あなたは気づきもしなかったようですが、一人の物乞いが、その後の殿下とセラフィーネ様の足取りを目撃していました」
「物乞い? そんな者はいなかった。出鱈目だ」
「あなたが見ていなかっただけです。あなたは貧しい者を、弱き者を見ようとしない。そのことが、あなた自身の足をすくったのです」
そうして、レナート様は会場の扉の方に向けて大きな声を上げた。
——ここまでが、私がレナート様に後から聞いた内容だ。
そして、ここからは私自身が行い、見て、聞いたことだ。
「お入りください!」
夜会の会場の大広間の中から、その声が聞こえた。
レナート様の合図だった。
私は大広間の扉を開け、中に入った。
会場の視線が私に集まった。
私は何日も着続けて薄汚れた平服のままだった。
殿下に私へしたことを思い返させ、私が見たものを伝えるのに、この姿が一番だと思った。
「王宮に物乞いなど入れるな!」
殿下が叫んだ。
私は怯まなかった。
殿下の前まで歩み寄り、まっすぐに見た。
「お、おまえ……マルガレーテか? 生きていたのか……?」
私は頭を下げた。
「はい……」
そして小さく息を吸った。
「生きて、あなたの悪事をすべて見ておりました」
「悪事だと……? 賭博をして、娼館に行って、女を逃すのが何の悪事なのだ?」
ヴォルフラム殿下の顔に焦りの色が濃く現れていた。ご本人もすでに悟っているのだろう。
私が何を見たのか。
「娼館を出て、あなたは王家の古い廃城に向かわれましたね?」
「何のことだ?」
「そのことは馬車の御者の方も認めていますので、私が言うまでもないことです。問題はその後です」
「その後は、セラフィーネは国外に逃げた。王都の外れの古城だ。逃亡もしやすかったはずだ」
「嘘をつくのはおやめなさい」
私は無感情に努めて言った。
「殿下。あなたは廃城に無理やりセラフィーネ様を連れ……」
「やめろ! 物乞いは王宮から今すぐ出ていけ! 衛兵、こいつを連れ出せ!」
ヴォルフラム殿下の言葉が途切れたところで、私ははっきりと告げた。
「あなたはセラフィーネ様を剣で突き刺し……殺しました」
会場が静まり返った。
殿下は一瞬固まり、次の瞬間に大声で笑い始めた。
「はははは。ひどい冗談だな」
「冗談であればよかったのですが……」
ルートヴィヒ閣下が言った。
「すでに古城を調べました」
殿下の顔が青ざめた。
「セラフィーネ様の遺体が見つかりました」
閣下は殿下にそう告げた。
「……自殺したのか?」
殿下が声を絞り出した。
「周辺に剣はありませんでした。どうやって剣の刺し傷ができたのですか……?」
「それは……。それは……誰か考えろ! それくらいわかるだろう?」
「野盗にでもやられましたか?」
ルートヴィヒ閣下が言った。
「そうだ。宰相、分かっているではないか」
ヴォルフラム殿下が引き攣った顔で同意した。
「はて? 私は殿下が刺したのをはっきり見ましたが……。殿下は野盗のようなこともされるということですか?」
私は言った。
「遠くから見ていたのだろう? 見間違いだ。いや、言いがかりだ! あのときは誰も周りにいなかった!」
「まるでそのときの様子をよくご存じのようですな」
「し、知るか!」
「古城の井戸の中から剣が見つかっております……」
「野盗が捨てた剣だろう」
「王家の紋が施された剣でした。聞けば殿下、最近剣をお取り替えになったそうで……」
殿下にはもう、言い返す言葉がないようだった。
「衝動的な犯行なのかもしれませんが、もはや杜撰すぎますな。国王になる王太子なら、多少のことは揉み消せると思ったのでしょうが、あなたがしでかしたことは、とても多少の域ではないのです」
黙ってしまったヴォルフラム殿下を横目に、ルートヴィヒ閣下が会場の諸侯に顔を向けた。
「ここまでの話を聞いた上で、諸侯の皆様にヴォルフラム殿下の戴冠の承認の是非についてお伺いしたい」
成り行きを注視していた列席者は、静まり返っていたが、ほどなく諸侯たちが声を上げた。
「馬鹿馬鹿しい。承認などする者がいるわけがなかろう」
「今必要なのは戴冠式ではなく、裁定だ」
「死罪が相当だ」
「だ、黙れ。おまえらは黙って承認すればいいんだ。これは形式的な……」
ヴォルフラム殿下は力なく抵抗の声を上げた。
「形式ではありません。正式な議会と同等です。戴冠は不承認となり、明日の戴冠式は中止です」
「待て……俺は国王になるのだ……」
「戴冠式の代わりに、明日はヴォルフラム殿下の罪状と量刑を確定させるための裁定を行うこととします」
※
ヴォルフラムは王家から追放とされた上で、裁定に臨んだ。
私も証言者として改めて裁定に出席した。
もちろん、マルガレーテ・ラウエンシュタイン公爵令嬢として。
ヴォルフラムには抗弁と反論の機会も与えられたが、犯行の杜撰さと普段の素行の悪さから、あらゆる証拠や証言が次々と出てきたため、抗弁での虚偽陳述が簡単に露呈し、裁定での印象を逆に悪くした。
貴族への恐喝、金銭の強奪、セラフィーネと共謀した毒物の調達、そしてその毒を口にした侍従の殺害、私への冤罪、セラフィーネの殺害と、それ以外にも数々の無法行為が明るみに出て、すべての罪が裁定の場で認められた。
当然のように死罪が相当だと判断された。
裁定の場で、ヴォルフラムはただ怯え、震えるだけで、わけのわからない言葉を喚くだけだった。
しかし、そこに、ヴォルフラムに手を差し伸ばすような提案がなされた。
死罪ではなく、死ぬまで強制労働をさせるべきだと言う者が現れたのだ。
その背景には、ヴォルフラム本人が抱えていた巨額の負債と補償責任があった。
王宮は、王族でもないヴォルフラムの個人の負債や補償を肩代わりするつもりはまったくなかったのだ。
負債だけではない。ヴォルフラムが行った悪行についての補償も必要になる。
最終的に終身強制労働の刑が科されることになった。
死罪を免れたと考えたヴォルフラムは、薄ら笑いを浮かべていた。
ただの死以上の過酷な運命が待ち受けていることは、ヴォルフラム以外の誰もが確信していた。
強制労働には過酷な重労働や危険を伴う作業も含まれる。
つまり、死ぬよりも辛い目に遭い、命の保証もないのだ。
※
それから半年後、私はレナート様と王都を歩いていた。
事件の後、公爵令嬢に戻った私にも、物乞いだったときの私に対するのとまったく同じように、レナート様は私に接した。
この方は身分の貴賤など本当に気にされない、心優しい方なのだ。そう知るにつれ、私は自然と惹かれていった。
ヴォルフラムとセラフィーネの事件は、私たちにとって辛い体験ではあったが、私たち二人を結びつけるきっかけにもなった。
心優しく聡明なレナート様は、ラウエンシュタイン公爵にも気に入られ、公爵家に婿入りすることが決まっている。
私たちは結婚の準備のため、王都で買い物をしていた。
そこに、路上に座る一人の物乞いが目に入った。
物乞いを経験してから、私はそうした人々の助けになるように救護院の援助を始めていた。
「恵んでくれ……」
男がそう言って手を差し出してきた。
「よろしければ救護院にいらっしゃ……」
私は言葉を止めた。すっかり痩せ細っていたが、それはヴォルフラムだった。
「救護院? そんなものがあるのか。では連れていけ」
私は後ずさった。
しかし、私は踏みとどまった。この男を恐れる必要はもうない。
「ヴォルフラムさん。あなたには救護院よりも相応しい場所があるのでは?」
「何だと? 俺を誰だと思っているんだ!」
そこで、異変に気がついたレナート様が私を庇うように間に入った。
「あなたはもう誰でもない。僕のマルガレーテに近づかないでいただきたい」
そうレナート様が言い放った。私を守るために。
そこに騒ぎを聞きつけたのか、何人かの男たちがやってきた。
「あ、いたぞ!」
男たちと目が合ったヴォルフラムの顔が恐怖に歪んだ。
「ひぃぃぃ」
ヴォルフラムは奇妙な悲鳴を上げ、逃げ出そうとしたが、その動きは緩慢で、簡単に男たちに捕まった。
「何度逃げようとしたって無駄だってわからねえのか。物乞いなんて贅沢なまねはさせねえ。おまえは死ぬまで休まず働いて償うんだ」
男たちは容赦なくヴォルフラムの腕を掴み、引きずっていった。
ヴォルフラムのその後の「強制労働」については様々な噂が飛び交っていた。いずれも聞くに耐えないひどいもので、ヴォルフラムは耐えきれずに何度も逃亡を試みているようだった。
けれど、相変わらず私は何の同情心も湧かなかった。
私とレナート様は結婚し、ラウエンシュタイン公爵の仕事を手伝いながら、ますます慈善事業にも力を注いだ。
幸せで充実した生活を送るうちに、ヴォルフラムやセラフィーネのことを思い出すこともなくなった。
それでも、今でも一つだけ忘れられないことがある。
私は救護院を訪れ、人々にパンを配るたびに、レナート様がくれた固いパンの味を思い出す。
誰も目を向けてくれないときに、私を見つけてくれたレナート様。
お腹が空いてどうしようもない私に、優しい気持ちとともに差し出してもらったあのパンほど、おいしいものはなかった。
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