管理者マニュアルには、まだ余白がある②
巡回を続ける。
セラの部屋。
「つかさ! おはよ! 今日は空間制御、十割!」
「十割?」
「うん! 完全制御!」
「本当に?」
「たぶん!」
たぶんが付く時点で十割じゃない。しかし自信があるのはいいことだ。
「セラ、試しに笑ってみてください」
「え? いいの?」
「十割制御なら、笑っても壁にひびが入らないはずです」
セラが笑った。満面の笑み。
壁を見る。
ひびは……入っていない。
「入ってない!」
「入ってないです」
「やった! あたし、笑っても壊さなかった!」
セラが飛び跳ねた。嬉しくて。
床にひびが入った。
「……足元」
「あっ」
壁は守った。床を忘れた。九割九分。残り一分は足元にあった。
「でも壁は守りましたよ。すごい進歩です」
「ほんと?」
「修繕費が壁分だけ減ります」
「やったー!」
次にメルトの部屋。
ノートが出てきた。
『おはよう。今日、実験の続き、やっていい?』
「声の実験? やりましょう」
NT-6200でメルトのエネルギー値を82%まで下げる。安全圏下限ぎりぎり。
「メルト、前回は『あ』一音でした。今日は一単語を目標にしましょう。何を言いますか?」
メルトがノートに書いた。
『「おはよう」って言いたい。』
「いいですね。いきましょう」
メルトが目を閉じた。集中している。口を開く。
「お……は……」
「お」は届いた。「は」も届いた。しかし「よう」が凍った。小さな結晶が唇からこぼれ落ちる。
二音。前回の倍。
「二音出ました」
メルトがノートに書いた。手が震えている。
『もう一回。』
「無理しないでください」
『もう一回だけ。お願い。』
もう一度。エネルギー値を確認。82%。まだ安全圏内。
メルトが口を開いた。
「お……は……よ……」
三音。「おはよ」。最後の「う」が凍った。しかし三音。三音が届いた。
「おはよ!」
……最後の「う」がない。「おはよ」だ。「おはよう」ではなく「おはよ」。幼児の挨拶みたいだが、メルトの声で聞く「おはよ」は、今まで聞いたどんな言葉よりも重かった。
メルトの目が濡れていた。無表情のまま。しかし、目尻から一筋、涙が伝っている。
ノートに書いた。
『聞こえた?』
「聞こえました。おはよ、って」
『うが足りなかった。』
「十分です。明日は四音を目指しましょう」
『……うん。明日は「おはよう」。全部言う。』
管理者マニュアル(灰嶋版)、第十三項を更新。
第十三項(更新):メルトのエネルギー値82%で三音まで発声可能。継続研究中。目標:「おはよう」。
ラグナの部屋。
「今日走れる日!」
「三日に一回のローテーションなので、今日は走れます」
「やったー!」
ラグナが飛び出した。床に亀裂が走った。部屋を出る前から壊している。
「六割で行きますよ」
「八割がいい!」
「七割で手を打ちましょう」
「やった!」
交渉成立。いつからラグナはビジネススキルを身につけたのか。
通路を走る。七割出力。床のひび割れは六割の時より多いが、NT-6200の回収効率が上がったおかげで、エネルギーの吸い上げが速い。94%→87%。三分で安全圏のど真ん中。
「つかさ、まだ走っていい!?」
「数値的にはもう十分なんですが」
「走りたい!」
「じゃああと一分だけ」
「やったー!」
抽出目的ではなく、純粋にラグナを走らせるための一分間。修繕費は……考えないことにする。
走るラグナの背中を見る。小さな背中。あの背中に、結晶の突起を持つ獣の影が映ったことがある。しかし今は、ただの10歳の少女の背中だ。
「つかさー! 見てー! 速いでしょー!」
「速いです。壁を蹴らないでください」
「あっ、ごめーん!」
壁に人型の凹み。修繕依頼票、今月一枚目。
日常だ。ここの、日常。
カイムの部屋。
「おはよう、司くん」
「カイム、今日の予言は?」
「んー。今日は特にないかな。平和な一日だよ」
「助かります」
「あ、でも一つだけ」
「なんですか」
「夕方、ちょっといいことがあるよ」
「いいこと? 前回のいいことはチョコ三個でしたが」
「今回のは、チョコじゃないよ。もっと大きい」
「もっと大きい。カレー?」
「カレーでもない」
「パン?」
「食べ物じゃないよ」
食べ物じゃないいいこと。この地下生活で食べ物以外のいいことが存在するのか。
「楽しみにしてて」
カイムの微笑みは、いつもの穏やかなものだった。




