抽出業務は命懸け。なお、危険手当の申請書は148ページです②
09時00分。抽出室。
抽出室は、リビングスペースから隔壁ひとつ挟んだ先にある専用の部屋だ。白い壁、白い床、中央に椅子がひとつ。椅子の周囲に、蜘蛛の巣のように管やケーブルが広がり、天井の装置に繋がっている。病院のMRIと歯医者の診察台を悪魔合体させたような見た目だった。
ノクスは、その椅子にだらりと座っていた。
というより、座らされていた。目は閉じている。寝ている。
「ノクス」
声をかける。反応がない。
「ノクス、抽出の時間です」
反応がない。毛布を持ち込んで完全に丸くなっている。椅子の上で丸くなるな。
「…………めんどい」
やっと声が出た。目は閉じたまま。
「めんどくても、これが業務なので」
「あんたの業務でしょ。あたしの業務じゃない」
正論だった。
正論すぎて反論できない。彼女にとって抽出は「される」側であり、仕事じゃない。俺は搾取する側の管理者で、彼女はエネルギーを搾り取られる側の変位個体だ。この構図に、正義も道理もあったものではない。
しかし、これをやらないと太陽が止まる。太陽が止まると全人類が死ぬ。全人類が死ぬと俺も死ぬ。俺が死ぬと業務日誌が提出できない。業務日誌が提出できないと評価が下がる。
――思考がおかしな方向に曲がった。この組織に染まり始めている。
「チョコ」
ノクスが目を僅かに開けた。
「チョコくれたらやる」
「……抽出一回につき一個?」
「二個」
「月の支給は二個なんですけど」
「じゃあ今月の分、先にちょうだい」
「来月のチョコがなくなりますけど」
「来月のことは来月のあんたが考えて」
来月の俺に全責任を押し付けるスタイル。しかし、ここで渡さなければ抽出が進まない。進まなければ上に報告が上がる。上に報告が上がれば、「管理能力不足」の評価がつく。
俺は事務室に戻り、配給品の保管棚からチョコレートを一個取り出した。月に二個。今日は四月三日。つまり、この一個を渡した時点で今月の在庫は一個。月末まで27日。27日を一個のチョコで乗り切らなければならない。
カロリーの話ではない。命の話だ。
「はい」
チョコを差し出す。
ノクスが毛布から手だけ出して、ひったくるように受け取った。銀紙を剥く音。小さな口がもぐもぐと動く。
「……おいしい」
その一言に、ほんの少しだけ、表情が緩んだ。
金色の瞳が柔らかくなり、頬が微かに染まる。世界を消し去る【忘却の魔王】が、チョコレート一個で懐柔されている。
「じゃ、やる」
ノクスが目を閉じ、椅子に深く座り直した。
俺は端末で抽出装置を起動する。画面には数値がいくつも並び、正直なところ半分も理解できないが、ゲージが「READY」を示しているのは分かった。
装置が低い音を立て、ノクスの周囲にぼんやりと光の膜が現れる。
数値が動き始めた。エネルギー抽出率、3%……5%……8%……。
ゆっくりだが、安定している。ノクスの表情は穏やかで、問題はなさそうだ。手順書には「問題がなさそうに見えるときが一番危ない」と書いてあったが、あの手順書は信用しない方針にした。あれを全部信じたら精神がもたない。
12%……15%……。
「――ね」
ノクスが薄目を開けた。
「あんた、前のひとと違う」
「どう違いますか」
「前のひと、あたしのこと怖がってた」
怖がって当然だろう。近づくだけで記憶が消える存在を前に、恐怖を感じない人間がいたらそっちの方がおかしい。
「怖くないの?」
「怖いですよ」と、正直に答えた。「めちゃくちゃ怖いです」
「……ふーん」
ノクスはまた目を閉じた。
しかし、その口元が少しだけ上がっていた。
20%。装置のブザーが鳴り、「本日の抽出量に到達しました」の表示が出た。
「終わりです。ありがとうございました」
ノクスは返事をしなかった。もう寝ている。
チョコの銀紙だけが、椅子の横に落ちていた。




