臨界点――走れ、管理者②
ラグナの部屋のドアに手を触れた瞬間、指先が弾かれた。
ドアの金属が、高周波で振動している。触れると手が痺れる。普通にノブを握ることすらできない。
「ラグナ! 俺だ、つかさだ!」
返事はない。ドアの向こうから、重い振動だけが伝わってくる。規則的ではない。不規則で、荒い。ラグナの鼓動に連動しているのかもしれない。
端末を見る。
<ラグナ:エネルギー値 152%(危険域)>
<警報を発令しました。>
<管理者は速やかに対応してください。>
<第一段階対応:緊急抽出を実施してください。>
152%。危険域に入った。
「セラ、このドアを開けられるか?」
セラが一歩前に出た。目を閉じ、右手をドアにかざす。
「……空間がぐちゃぐちゃ。ラグナのエネルギーがドアの周りの空間を歪めてる。でも――」
セラの手が淡く光った。空間を裂く力。しかし今は、裂くのではなく、歪みを「整える」方向に使っている。
ぎ、と空気が軋んだ。ドアの振動が和らぐ。
「今!」
俺はドアノブを掴み、一気に開けた。
部屋の中は、異常だった。
家具がすべて壁際に押しやられている。ベッドは真ん中で真っ二つに折れていた。床には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、壁にもひびが入っている。天井の照明は割れて消え、唯一の光源はラグナ自身だった。
ラグナの身体が、淡い赤色に発光していた。
部屋の中央で膝を抱え、うずくまっている。小さな身体が震え、震えるたびに床の亀裂が広がる。目は固く閉じられ、涙が頬を伝っていた。
「ラグナ」
「来ちゃダメ!」
叫んだ。その声と同時に、部屋全体が揺れた。壁のひびが一気に深くなる。
「来たら、つかさが壊れちゃう! あたしが壊しちゃう!」
「壊れないから」
「うそ! 前のひとも! 前の前のひとも! みんなあたしのせいで――!」
ラグナの声が途切れた。泣き声に変わった。
その瞬間、床が割れた。
足元の地面が、ラグナを中心に放射状に裂けていく。コンクリートが砕け、鉄筋がむき出しになる。天井からも破片が降り注ぐ。
メルトが前に出た。声にならない声を発し、周囲の空気を凍結させる。振動が氷の膜に衝突し、わずかに減衰した。しかし、ラグナのエネルギーはメルトの能力を上回っている。氷の膜が次々に砕け、破片が散る。
「メルト、下がって!」
メルトはノートを掲げた。
『まだ大丈夫。もう少し。』
セラが俺の横に立った。空間の歪みを制御し、降り注ぐ瓦礫を逸らしている。しかし、セラ自身の感情も揺らぎ始めている。仲間が苦しんでいる光景に、【現実裂きの勇者】の力が反応している。
「セラ、制御を続けてくれ。俺がラグナのところに行く」
「……気をつけて」
俺は、割れた床を踏みしめて歩いた。
一歩ごとに、身体が振動に叩かれる。骨が軋む。歯がかちかちと鳴る。防護スーツが振動で裂け始め、背中のガムテープが一枚、二枚と剥がれていく。
端末を見る余裕はない。しかし、ラグナの発光が強くなっていることは分かる。赤い光が脈動し、部屋全体が心臓の内側にいるように鼓動している。
五歩。四歩。三歩。
あと二歩のところで、振動の壁にぶつかった。
物理的な壁だ。ラグナの身体から放出されるエネルギーが、空気を圧縮し、不可視の障壁を形成している。押しても、進めない。
「ラグナ!」
「来ないで!」
「いや、行く!」
「ダメ、壊れちゃう! つかさが壊れちゃう!」
「壊れない!」
嘘だ。このまま進めば、本当に身体が壊れるかもしれない。エネルギーの壁は、防護スーツの上から骨を軋ませるほどの圧力を持っている。
でも。
カイムの言葉が蘇る。
――佐久間さんは走ったんだよ。ラグナと一緒に。
走った。一緒に。
ラグナの抽出は、走ることで行う。エネルギーを走って放出させ、装置で回収する。走ることは、ラグナにとって抽出であると同時に――遊びだ。楽しいことだ。
ラグナが一番笑顔になるのは、走っている時。
そして今、ラグナは泣いている。怖くて、苦しくて、自分のエネルギーに押し潰されそうになっている。
必要なのは、装置じゃない。走ることだ。
「ラグナ! ――俺と、走ろう!」
ラグナの泣き声が一瞬止まった。
「……え?」
「走ろう。一緒に。お前が走りたいって言ってただろ。走ろう。今すぐ。ここじゃなくて、通路で。思いっきり」
「でも……壊れちゃうよ……」
「壊れたら直す。修繕依頼、何枚でも書く。通路が崩れたら、セラに空間を繋いでもらえばいい。照明が全部割れたら、カイムに星の光を出してもらえばいい。音がうるさかったら、メルトが凍らせてくれる。壁に穴が開いたら――」
言葉が詰まった。一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。
黄色。
カイムの伝言が、唐突に頭に浮かんだ。
ラグナの好きな色は黄色。
「ラグナ」
「……なに」
「走ったら、黄色いもの、見せてやる」
「……きいろ?」
「お前の好きな色だろ。黄色」
ラグナの目が、涙の膜の向こうで、微かに揺れた。
「……しってるの?」
「知ってる」
知っている。カイムに教えてもらった。明日の俺から伝言を受け取ったカイムが、昨日の俺に教えてくれた。時間がぐちゃぐちゃだが、今はそれでいい。
「黄色いものって……なに?」
何も考えていなかった。黄色いもの。この地下117階に、黄色いものがどれだけあるか。
――あった。
「チョコの銀紙の裏」
「え?」
「ノクスにあげてるチョコ。銀紙を剥くと、中の包装紙が黄色だろ。あれ」
配給品のチョコレートの包装は、外側が銀紙で、内側が黄色い薄紙だ。俺は昨日、チョコを半分に割ってノクスに渡した時に見た。銀紙の内側に、鮮やかな黄色。
それが「黄色いもの」として通用するかは分からない。しかし、ラグナは――。
「……あの黄色、すき」
笑った。
泣きながら、笑った。
部屋が揺れた。笑うと振動が増す。しかし、泣いている時の振動とは質が違った。おぞましい破壊の波じゃなく、もっと丸い、温かい振動。
「走ったら、見せてくれる?」
「走ったら、見せる」
ラグナが立ち上がった。
エネルギーの壁が、薄れた。完全には消えていないが、押せば通れる程度に弱まっている。
俺は残りの二歩を踏み出し、ラグナの前に立った。
「行くぞ」
「……うん」
ラグナの手を取った。小さな手は熱かった。内側のエネルギーが皮膚を通じて伝わってくる。手のひらが焼けるように痛い。
しかし、離さない。
「セラ! 通路まで道を開けてくれ!」
セラが手をかざした。部屋の壁に、空間の裂け目が開く。いつもは事故だったそれが、今日は道になる。裂け目の向こうに、運動スペースの通路が見えた。
「メルト、通路の壁に抽出センサーは生きてるか確認してくれ!」
メルトは既に端末を操作していた。ノートに結果を書いて掲げる。
『通路のセンサー、全基稼働中。回収モード起動可能。』
回収モード。ラグナが走って放出したエネルギーを、通路の壁面センサーが回収する。暴走の抽出を、走りながら行う。
「ラグナ」
「うん」
「俺も一緒に走る。だから、全力で行け」
ラグナの目が見開かれた。
「……つかさも、走るの?」
「走る」
「ほんとに?」
「本当に」
管理者が変位個体と一緒に走る。マニュアルにはない。手順書にも書いていない。佐久間さんだけが知っていた、たった一つの正解。
ラグナが、笑った。
「――じゃあ、あたし、負けないから!」
セラの裂け目をくぐり、通路に飛び出した。




