臨界点――試される管理者③
午前中、ラグナの段階的エネルギー放出を実施した。
運動スペースの通路を、50メートルずつに区切り、短距離ダッシュを繰り返させる。全力疾走ではなく、六割程度の出力。
「つかさー、なんで今日はいっぱい走るのー?」
「特別トレーニングです」
「とくべつ? やったー!」
笑顔。天井から粉塵。しかし六割出力のおかげで、壁の被害は最小限に留まっている。
エネルギー値をモニタリングする。127%……124%……120%……。
下がっている。ゆっくりだが、確実に。安全圏の100%までは、まだ遠い。
午前中いっぱいかけて、115%まで下げた。まだ高い。あと15ポイント。
昼休憩を挟む。ラグナに栄養ブロックと水を渡し、30分の休息を取らせた。
メルトがノートを持って様子を見に来た。
『ラグナの振動、午前より少し安定してきた。でもまだ高い。』
「115%まで下げたんですが、安全圏までがまだ遠い」
『午後も走らせる?』
「ラグナの体力が持つなら」
メルトはしばらく考えてから、書いた。
『わたしにできることがあれば言って。わたしの能力は直接役に立たないけど、ラグナのそばにいることくらいはできる。』
「……ありがとう。でも、ラグナが泣いた時の地割れに巻き込まれる可能性がある」
『わたしの周囲では音が減衰する。振動も音の一種。完全には消せないけど、多少は緩和できるかもしれない。』
音を凍結させる能力が、振動の緩衝材になるということか。
「危なくなったらすぐ離れてください」
『わかった。』
メルトが頷いた。ノートを閉じ、ラグナの隣に静かに座った。ラグナはメルトの存在に気づいて、少しだけ表情が和らいだ。
「メルト……」
メルトがノートを見せた。
『一緒にいるよ。』
声にならない言葉が、今日は少しだけ温かく見えた。
午後も続行する。
しかし、午後に入ってからラグナの様子が変わった。
「……つかさ」
「どうした?」
「もう走りたくない」
ラグナが足を止めた。表情が曇っている。
「おなか痛い」
エネルギーの放出が、身体的な負担になっている。127%まで溜まったエネルギーを急激に下げようとすれば、反動が来る。
「休憩しよう。少し休んでから、またゆっくりやろう」
「……つかさ」
「ん?」
「あたし、なんかへんなの。身体がぐるぐるして、止まんない」
ラグナの目に、涙が滲んでいた。
泣く。泣くと、地割れが起きてしまう。
「ラグナ、大丈夫。大丈夫だから」
「こわい。なんかこわい。なかのやつがぐるぐるして、出たがってる」
なかのやつ。エネルギーが自我を持っているかのような言い方。変位個体にとって、内なるエネルギーはただの物理量ではなく、もっと根源的な何かなのかもしれない。
ラグナの目から涙がこぼれた。
足元の床に、亀裂が走った。
「ラグナ!」
「ごめん、ごめんなさい、止められない――」
亀裂が広がる。通路の床が割れ始めた。
メルトが動いた。ラグナの隣から離れず、ノートを掲げた。
『ラグナ、大丈夫。ここにいるよ。』
メルトの周囲で、空気が微かに冷えた。振動がほんの少しだけ減衰する。完全には消せない。消せないが、亀裂の進行速度がわずかに鈍った。
俺は防護スーツのまま――背中のガムテープが引きつる感触と共に――ラグナに近づいた。10メートルルールを破っている。しかし、今この子を一人にしたら、もっと悪化する。
「ラグナ、俺の声、聞こえるか?」
「きこえる……」
「深呼吸して。ゆっくり。吸って――吐いて――」
ラグナの小さな肩が震えている。涙が頬を伝う。足元の亀裂がじわじわと広がる。
「吸って――吐いて――」
「……すー……はー……」
亀裂の進行が止まった。
「そう、上手い。もう一回」
「……すー……はー……」
ラグナの震えが、少しずつ収まっていく。涙はまだ流れているが、足元の床はそれ以上割れなかった。
端末を確認する。エネルギー値:110%。午前中の放出と、今の不安定な放出で、ここまで下がっていた。安全圏まで、あと10ポイント。しかし、これ以上の抽出はラグナの身体に負担がかかりすぎる。
「ラグナ、今日はもう終わりにしよう。よく頑張った」
「……つかさ」
「ん?」
「あたしのそばに来てくれた」
10メートルルールを破ったことを言っている。
「来ましたよ」
「……ありがと」
ラグナが、そっと俺の手を握った。
小さな手だった。
握った瞬間、手のひらに振動が伝わった。ラグナの内側で渦巻くエネルギーの震え。
怖い。正直に言えば、怖い。
この手を握り返した瞬間に、俺の手が消し飛ぶ可能性はゼロではない。
でも、離さなかった。
反対側で、メルトがノートを掲げていた。
『つかさ、手、大丈夫?』
「大丈夫です」
大丈夫ではないかもしれない。手のひらがじんじんと痺れている。しかし、ラグナの手の震えは少しずつ収まっていた。
「明日、俺がなんとかするから。大丈夫だから」
根拠のない約束だった。なんとかする方法も、大丈夫の定義も分からない。
でも、泣いている子供の手を離す理由には、ならなかった。




