臨界点――試される管理者①
四月十一日。火曜日。
臨界点の前日。
朝から、空気が違った。
それは比喩ではなく、物理的な変化だった。区画内の気温がわずかに高い。蛍光灯がちらつく頻度が増えている。遠くから聞こえる低い振動が、いつもより重い。
端末にはエネルギーモニタリングの通知が三件届いていた。
<ノクス:エネルギー値 112%(通常値の範囲内)>
<セラ:エネルギー値 108%(通常値の範囲内)>
<ラグナ:エネルギー値 127%(要経過観察)>
変位個体のエネルギー値は、80%から100%が【安全圏】だ。人間で言えば平熱みたいなもので、この範囲に収まっている限り、能力は安定して制御される。
問題は、変位個体が体内で常にエネルギーを生成し続けていることだ。放っておけば数値は100%を超えて蓄積され、120%を超えれば警戒域、150%で危険域、200%を超えたら暴走――すなわち臨界点。
だから毎日の抽出が必要になる。溜まったエネルギーを装置で回収し、安全圏に戻す。回収されたエネルギーは上層部へ送られ、太陽の維持動力に変換される。
つまり、抽出をサボれば個体が暴走し、抽出をやめれば太陽が止まる。どちらに転んでも人類は滅ぶ。
管理者に休みがないのは、このためだ。
ラグナの数値が高い。127%。昨日の抽出で85%まで下げたはずだが、一晩で42ポイントも上昇している。通常のラグナの蓄積速度は1日あたり12~15%。それが倍以上のペースで溜まっている。
異常だ。
朝の巡回を早める。
ノクスの部屋。いつも通り寝ている。しかし、毛布から出ている手が、微かに震えていた。
「ノクス」
「……なに」
「体調はどうですか」
「……べつに」
声がいつもより小さい。不機嫌なのか、それとも何かを感じ取っているのか。
「なんか……うるさい」
「うるさい?」
「下のほう。ずっとうるさい」
下のほう。【深層】か。
カイムが言っていた「深いところから何か来る」という言葉が重なる。
「分かりました。何かあったら、すぐに知らせてください」
「……めんどいけど」
ノクスの毛布がもぞりと動いて、金色の瞳がちらりと覗いた。
「……あんた、なんか焦ってない?」
「焦ってますよ。正直に言えば」
「ふーん。……チョコある?」
「今月の在庫は残り一個です」
「じゃあ半分ちょうだい。落ち着くから」
ノクスなりの気遣いなのか、あるいは単にチョコが食べたいだけなのか。たぶん後者七割、前者三割。
保管棚からチョコレートを取り出し、丁寧に半分に割って渡した。残り半個。月末まで二十日。半個で二十日。カロリー計算としては無意味だが、命の計算としては切実だ。
ノクスはもぐもぐとチョコを食べ、また毛布を被った。
「……あたしも、下がうるさくてよく寝れなかった」
不満ではなく、不安の滲んだ声だった。
【忘却の魔王】が不安を感じるというのは、考えてみれば恐ろしいことだ。全生命の記憶を消し去る力の持ち主が、何かに怯えているだなんて。
「大丈夫です。何があっても、俺がこの区画にいますから」
「……べつに、あんたがいるから安心ってわけじゃないけど」
ノクスは毛布の中で小さく丸くなった。
「……いないよりはいい」
聞こえないふりをした。聞こえないふりをしたが、聞こえた。
セラの部屋。ドアを開ける前に、ドアの枠が軋んでいた。
「セラ」
「あ、つかさ。おはよ」
笑顔だが、いつもの活発さが少し薄い。
「体調は?」
「うーん……なんか、ざわざわする」
「ざわざわ?」
「空気が。いつもと違う感じ。なんだろ、うまく言えないけど」
空間を感じ取る力を持つ【現実裂きの勇者】が、空気の異変を感知している。セラの能力は空間に干渉するものだ。空間そのものに何かが起きているなら、彼女が最初に気づく。
「下の階から感じる? それともこの区画の中?」
セラは首を傾げた。
「……下、かな。この区画じゃなくて、もっとずっと下。なんか、ぎゅうって押されてる感じがする。空間が」
押されている。何かが、下から空間を圧迫している。
「セラ、今日は抽出のあと、なるべく部屋にいてくれますか。もし空間の異変が大きくなったら、すぐ知らせて」
「……うん。分かった」
セラの笑顔が、少しだけ硬い。彼女も感じ取っているのだ。何かが近づいていることを。
メルトの部屋。ノートが差し出された。
『今日、音の凍り方がいつもと違う。結晶が大きい。何かが近い。』
メルトも感じている。三人が三人とも、何らかの異変を察知している。
「結晶が大きいというのは、どういう意味ですか」
ノートが引っ込み、また出てきた。
『普段、わたしの声は小さな粉雪みたいに凍る。でも今日は、欠片のひとつひとつが大きい。空気中のエネルギー濃度が高いと、音の凍結反応が強くなる。つまり、この区画の周辺に、いつもより多くのエネルギーが漂っている。』
さすがメルトだ。自分の能力を分析的に理解している。彼女の能力は単なる異能ではなく、周辺環境のセンサーとしても機能するわけだ。
『わたしの予想だけど、下の階層の何かが、エネルギーを上に漏らしている。それがラグナに影響しているんじゃないかな。』
「ラグナのエネルギー値が異常に上がっていることは知っていますか」
『知ってる。壁の振動でわかる。ラグナの振動はいつもと周波数が違う。高い。不安定。』
振動の周波数で状態を把握する【沈黙の魔女】。声の代わりに、音のすべてを感じ取る少女。
『つかさ。気をつけて。』
「ありがとうございます。メルトも、何か変化があったらすぐにノートで教えてください」
『もちろん。ノートがある限り。』
ノートの残りは二冊。補充申請の返答はまだ来ていない。声を持たない少女の命綱が、あと二冊。
これが終わったら、総務課に殴り込みに行こう。比喩ではなく。
ラグナの部屋。ドアを開けると、ラグナがベッドの隅で膝を抱えていた。
いつもの笑顔がない。
「ラグナ?」
「……つかさ、なんかへん」
「変?」
「おなかのなかが、ぐるぐるする。走りたいのに、走ったらダメな気がする」
ラグナのエネルギー値が高いのは、本人の体感とも一致している。エネルギーが溜まっている。走って発散させたいが、何か別の力が作用して、発散を妨げている?
ラグナの顔色が悪い。10歳の少女の顔に浮かぶ不安は、見ていてつらい。彼女は自分の能力の危険性を理解している。理解しているからこそ、怖いのだ。
「ラグナ、朝ごはんは食べた?」
「……たべてない。おなかへんだから」
「少しでも食べたほうがいい。栄養ブロック、持ってくるから」
「……うん」
事務室に戻り、自分の配給品から栄養ブロックを一本取り出した。俺の朝食が減るが、少女の体調を優先しない管理者は管理者ではない。
ラグナの部屋に戻ると、ラグナはまだ膝を抱えたままだった。
「はい」
「……ありがと」
小さな手で栄養ブロックを受け取り、もそもそと齧り始める。
「つかさ」
「ん?」
「あたし、こわれちゃうのかな」
胸が詰まった。
「こわれないよ」
「でも、なかのやつがぐるぐるして――」
「だから、今日も抽出してエネルギーを下げよう。ゆっくりでいい。俺がそばにいるから」
ラグナは栄養ブロックを咀嚼しながら、小さく頷いた。
その足元で、床タイルに髪の毛ほどの亀裂が走ったのを、俺は見なかったことにした。
最後にカイムの部屋。
ドアが開く前に、カイムの声がした。
「司くん。今日じゃない」
「え?」
「臨界点。今日じゃなくて、明日。でも、今日のうちにやるべきことがある」
ドアが開いた。カイムの目が、いつになく真剣だった。
「ラグナのエネルギーを下げて。今日中に。できるだけ多く」
「ラグナが?」
「うん。明日の臨界点、ラグナに来る」
【破壊の結晶獣】。感情がそのまま破壊エネルギーに変換される存在。
それが暴走する。
「……怒った時の記録は、閲覧制限って」
「うん。そういうこと」
カイムは冷静に続けた。
「でもね、司くん。閲覧制限がかかっているのは、記録が怖いからじゃない。記録を読んだ管理者が逃げるからだよ。怖くてさ、でも実際に見たら、もっと怖い。それでも逃げなかった人だけが、ラグナを止められた」
「……逃げなかった人は、今どうしてるんですか」
「……いなくなっちゃった。でも、臨界点で死んだわけじゃないよ。ラグナの暴走からは、ちゃんと生き残った。そのあとに、別のことで」」
ラグナの臨界点に立ち会い、生き残った管理者。
「その人の名前は?」
「佐久間さん」
俺の前任者。一度目の臨界点で重傷を負い、第四区画から第七区画に異動した人。ラグナの臨界点を生き延びた、唯一の管理者。
そして、この第七区画で死んだ人。
「佐久間さんは、どうやってラグナを止めたんですか」
カイムは少し考えてから、言った。
「それは、わたしじゃなくて、ラグナに訊いたほうがいい。でも、ひとつだけヒントをあげる」
「なんですか」
「ラグナがこわれそうになった時、佐久間さんは走ったんだよ。ラグナと一緒に」
一緒に、走った。
「……それだけですか」
「うん。それだけ。でも、それが全部だった」
カイムは今この瞬間と、明日の何かを、同時に見ているように微笑んだ。
「司くん、今日は忙しくなるよ」




