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15D  作者: 松本忠之
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第5章

静芳が自殺したのは、秀樹が上海へ戻ったその日の夜のことだった。

正月休みがあけた二月十五日の朝、病室のシートで首を吊っているのを、看護師に発見された。秀樹はその知らせをハルピンのタクシー運転手から電話で聞いたのだった。


ハルピンから上海へ戻り、翌朝出勤するとすぐに携帯が鳴った。例の運転手からだった。どうしたのかと思いながら、おはようございますと言って電話に出ると、タクシー運転手は大声で、しかも早口に言った。

「あんたの知り合いの周静芳さんが亡くなったみたいですよ」

秀樹は思わず「えぇ!」と大声を上げた。事務所内の視線が一気に秀樹に集中した。支社長の竹中も何事かといった顔で秀樹を見つめている。

「ちょっと緊急の用事で、すいません」

そう竹中に告げて事務所を出ると、秀樹は人があまり来ない非常階段へ歩きながら話を続けた。頭の中はひどく混乱していた。数日前は突然男に刺されて病院に搬送されたと連絡が来た。今度は、亡くなったという。一体何が起こっているというのか。

「ど、どういうことなんですか?」

「私の知り合いでハルピン市警に勤めている男がいるのは話しましたよね?その男が私に連絡してきたんです。正月中に男にナイフで刺されてハルピン第五病院に入院していた女性が、昨夜、病室で首を吊っているのが発見されたと警察に連絡が入った。自分は担当ではないから詳細はわからないが、お前がこの前、お見舞いに行きたいから受付に話をつけてくれって言ってた女性だろ?って」

「首を吊った!?」

秀樹は頭が混乱して発狂しそうになっていた。頭の中は真っ白で、思考回路は一瞬にして停止した。

「本当に静芳なんですか?間違いじゃないんですか?」

運転手は黙っている。

「嘘ですよ。そんなの。ありえない。ちゃんと確認したんですか?どうやって自殺した女性が静芳だとわかったんですか?」

「お気持ちはわかりますが…」

 秀樹は、思わず電話を切った。受け入れがたい現実に、体が勝手に反応してしまったようであった。


少しの間、秀樹は非常階段でひとり、仕事に戻らねばならないという気持ちと、とても仕事なんかしていられる状態ではないという気持ちとの間で葛藤していた。今すぐにでもハルピンに行きたい。何がどうなっているのか、この目で確かめなければならない。運転手の間違いかもしれない。そうだ。どうやって第五病院で自殺した女性が静芳だとわかるのだろう?どこにそんな根拠があるのだろう?さっきの電話の細かい内容は、まったく覚えていない。静芳らしい女性が自殺したということしか覚えていない。

秀樹は、事務所には戻らず、事務所が入っているビルの一階までエレベーターで降り、外に出ると、今度は自分から運転手に電話をかけた。

「もしもし。先ほどはすいませんでした。ちょっと取り乱してしまって…」

「いえ。仕方のないことです。」

「すいません。もう一度聞かせてください。静芳が自殺したんですか?あなたはどうやってそれを知ったのですか?」

今度は運転手の話を少しは冷静に聞けそうだった。

運転手は改めて、警察の友人から今朝、電話を受けた経緯を話した。

正月中に男にナイフで刺されてハルピン第五病院に入院していた女性という状況から判断すれば秀樹が探していたあの女性に間違いない。すぐに知らせなければ、と思った。しかし、なにせ一人の人間が死んだのだ。そんなに簡単に伝えることのできる内容ではない。友人もその女性の名前を確認していたわけではなかったので、きちんと裏を取るため、名前を調べて再度連絡してくれと頼んだという。

「そして返ってきた答えが…」

「周静芳、だったんですね…」

「そうです」

運転手は力なくそう返事をした。秀樹はうつむいたまま言葉を失った。信じられなかった。まるで当たらないでくれ、当たらないでくれと強く願っている自分の嫌な予感が当たってしまったときのような絶望感だった。静芳は死んだのだ。

秀樹は電話を切った。呆然として、人目をはばからずその場に座り込んでしまった。


事務所に戻ると、すぐに誰もが秀樹のただならぬ状況に気付いた。

秀樹はまっすぐ竹中のデスクへ行くと、事情を説明した。

秀樹の話があまりにも予想外のことだったのであろう、竹中は一瞬驚きであっけに取られていたが、すぐに正気に戻ると、

「親族の法事ってことにしといてやるから、今日はもう帰れ。明日以降のことは、またあとで連絡してくれればそれでいい」

と言った。

正月明けの出勤初日にわずか三十分ほど出勤しただけで退社していく秀樹を、中国人スタッフたちが不思議そうな表情で見つめていた。

会社を出たのはいいものの、秀樹は茫然自失の状態で、自分がどこを歩いているのかも定かではなかった。一体どうなっているのか。何があったんだ。まだ理解できない。理解できないのではなく、受け入れたくないだけなのだろうか。

静芳が死んだ…

もう彼女はこの世界には存在していない。しかも突然に。僕に何も言い残さず、消えていった。残されたおれはどうなるんだ?なんで勝手に逝ってしまうんだ?結婚するんじゃなかったのか?しかも病気や事故ではない。静芳は自ら生命を絶ったという。

なぜだ?なぜ自殺などした?


秀樹は自分一人ではとても受け止め切れない現実を前に、完全に混乱していた。自分が今どこにいるのかもわからなかった。

ここはどこだ?

おれはどうやってここまで来たんだ?

これからおれはどうすればいいのだ?


思いつめた秀樹は伊藤に電話した。

平日の昼間に電話があったことで、携帯に出た伊藤はさすがに驚いていたが、秀樹のただならぬ気配を電話越しに感じ取ったのか、心配を隠さない声で、

「おい、どうした?何かあったのか?」と聞いてきた。

「静芳が…」

秀樹は次の言葉が出てこなかった。自殺した、と言えなかった。言ってしまうと自分はそれを認めることになる。静芳が死んだのは事実だ。しかし、自分の口でそれを言ってしまうと、認めたことになる。おれはまだ認めていないんだ。認めたくないのだ…

「おい、どうしたんだよ。静芳ちゃんに何かあったのか?」

「それが…」

「急に容態が悪くなったのか?」

「死んだ…」

伊藤は声を発しなかった。電話の向こうで絶句しているようだ。

「どういうことだよ」

伊藤の低い声が聞こえてくるまで、一体それくらいの沈黙があったのだろう。

「おい、どういうことだよ。死んだってなんだよ?おい?しっかりしろ、お前、大丈夫か?」

何もしゃべらない秀樹に伊藤は必死に話しかけた。

「死んだんだ。静芳が。あいつ、死んだんだって…」

ついに言ってしまった。おれは、静芳の死を認めてしまった。

「おい、落ち着けよ。しっかりしろ。なんで死んだんだ?容態が悪化してたのか?」

「自殺だって…」

茫然自失状態の秀樹は、それだけを言うのが精一杯だった。


伊藤との電話をいつ切ったのかは、覚えていない。

しかし、時間がたつにつれて秀樹はこうしてはいられないと思い始めた。行き場のない怒りが自分の中に生まれていた。なぜだ。なぜこんな目にあわないといけないんだ。

誰だ。誰が静芳を殺したんだ。静芳が自殺するはずがない。誰が静芳を…

秀樹は思い立つと旅行代理店に電話していた。相変わらず、自分が今どこにいるのかわからなかった。

「ハルピン行きの便を手配してください」

「は?」

旅行代理店の担当者はよく意味がわからない、というように秀樹に聞き返した。

「ハルピン行きの便を手配してください、って言ってるんです」

「雨宮さんは昨日ハルピンから戻ったばかりですよね…」

「いいから、ハルピンの便を取ってくれ!」

秀樹は怒鳴った。

「は、はい。わかりました。今日の便でいいんですね?」

「今からでも間に合う一番早い便を手配してくれ」

そう言うと秀樹は電話を切り、通りを走ってきたタクシーを止めるとそれに乗り込んだ。

家に着くと旅行代理店から電話があり、今日の最終便が取れたと伝えた。

秀樹は携帯の時計を見た。午前十時半を少し回ったところだった。ハルピンの運転手からの電話を受けてから、現在までの時間はまるで夢の中にいるようだと思った。

いや、これは実は夢なのではないか?すべてが夢で、目が覚めれば消えてなくなるのではないか。だったら早く覚めてくれ。こんな残酷な夢なんか要らない。こんな残酷な夢は…

秀樹は力なくベッドに倒れこんだ。


その日の上海発ハルピン行き最終便に乗り込むと、秀樹は忙しそうに動き回る客室乗務員たちに見入った。今にも静芳が現れそうな気がした。この便は静芳が勤めていた航空会社のものだ。彼女たちは、静芳の同僚だろうか。静芳を知っているのだろうか。

秀樹には朝ほどの混乱はなく、気持ちも落ち着いてきたが、やはり実感がなかった。なぜ?という気持ちだけが秀樹を突き動かしていた。なぜ静芳は自殺しなければならなかったのか。どんな状況だったのか。遺書はあるのか。秀樹には、静芳が自分に対する言葉を何も残すことなく逝ってしまったとは思えなかった。きっと、何かあるはずだ。


飛行機は深夜のハルピン空港に到着した。

連絡しておいたため、例のタクシー運転手が迎えに来てくれいていた。出口で秀樹を迎えた彼の表情は硬かった。秀樹も笑顔を作る気にはなれず、彼と目を合わせて軽くうなずいただけだった。

車に乗り込むと、つい昨日の景色が秀樹の目に飛び込んできた。第五病院に入院している静芳になんとか会えないかと粘り続けたものの、結局会えずじまいで、昨日上海に戻るためこの空港から飛行機に乗ったばかりなのだ。それが今夜、またこうしてここにいるとは。しかも静芳はもうこの世にいない。

「とりあえず、ホテルに行きますか?この前雨宮さんが泊まってたホテルを予約しておきました」

軽く咳払いした後、張り詰めた社内の空気の中、運転手が声をかけてきた。秀樹は

「そうしてください」とだけ答えた。

やがて車は市内へ向かう高速道路に入った。

「わからないんだ。すべてが。」

秀樹は訴えるような口調で語りかけた。

「なんで自殺したのか。何が理由で、どんな状況だったのか」

運転手は黙ってハンドルを握っている。

「ハルピンに来たからといって、それがわかるわけでもない。それはわかってる。でも、いてもたってもいられなかったんだ。静芳が死んだっていうのに、上海にじっとしてることなんてこと、できなかった」

誰にというわけでもない口調で秀樹は続けた。

「おれは静芳の実家がどこにあるのかも知らない。彼女が死ぬ直前、どんな気持ちだったのかも。何に苦しんでいたのかも。何も知らない」

言いながら、声が震えてきた。

「そして何もしてやれなかった…」

そこで秀樹は自分の気持ちが少しわかった気がした。静芳の自殺に関して、恋人である自分が何も知らないという納得のいかなさと同時に、静芳に何もしてあげられなかったという絶望感が自分の心を支配していたのだ。

「周静芳さんの自殺についてなんですが…」

運転手が口をあけた。

「ハルピン市警の僕の友人が、いろいろ調べてくれたんです」

「えっ?」

秀樹はバックミラーに写る運転手の顔を見つめた。その視線に気付いた運転手もバックミラー越しに秀樹を見てから続けた。

「向こうから、なんでそんなに周静芳という女性についてあれこれ聞いてくるんだ、知り合いなのか?と訊かれましてね。あなたとのことを話したんですよ。そしたら、じゃこの事件に関するすべてを調べてやるって言ってくれて…」

秀樹は静芳の死について何かわかるかもしれないと期待した。

「それで?」

「それで、あなたが今日の最終便で上海から飛んでくることを伝えたら、じゃ明日でもあさってでも、あなたに会って自分が調べたことを全部話してもいい、と言っています」

「明日にしてください」

秀樹は即答した。

「電話して聞いてみましょう」

遅い時間ではあったが、運転手は携帯で電話をかけた。

「明日の午前九時、私が彼を連れてあなたのホテルへ行きます。それでよろしいですか?」

と秀樹に聞いた。

「はい。大丈夫です」

秀樹はそう答えると再び窓の外の景色に見入った。ハルピン市警のその友人は一体どこまで知っているのだろうか。明日の九時まで待つのが心苦しい。今すぐにでも会って話を聞きたいくらいだった。


翌朝、目が覚めると雪が降っていた。昨夜ホテルにチェックインしたときは降っていなかったから、深夜から明け方にかけて降り出したのであろう。少し積もっているようだった。

九時ちょうどに秀樹はホテルのロビーで運転手とその友人に会った。ハルピン市警に勤めているというその友人は、背が高く、体格はがっちりしていた。

「ハルピン市警の劉鋭と申します」

相手は右手を差し出してきた。

「雨宮秀樹と申します。よろしくお願いします」

秀樹も右手を差し出した。劉鋭の手は冷たかった。

「お前の言ったとおりだ。日本人ってすぐにはわからないな」

秀樹の中国語のことを言っているらしい。

「それでは…」と劉が言った。

「どういう風にしましょうか?」

「私は話が聞きたいんです。静芳の自殺について、すべてを」

静芳の自殺、と言うとき、秀樹は力をこめた。そうしないと、口から言葉が出てこないような気がした。

「わかりました。それでは場所を移してお話しましょう」

三人は車に乗った。どこにいくのか、劉鋭は言わない。

「とりあえず…話をする前に、周静芳さんの自宅に行ってみませんか?あなたは彼女の自宅がどこにあるか知らない、と彼が言っていたので」

助手席に乗った劉鋭が親指で運転手を指しながら言った。

「あぁ…そうですね。確かに、見てみたいです。彼女の自宅を」

「じゃ行ってみましょう」

そういうと、劉鋭は運転手に地名を告げた。正月休みが明けたこともあり、通りには人が多かった。

雪は相変わらず降り続いていた。運転手は地元の運転手らしく、慣れたハンドルさばきで雪のアスファルト道を進んだ。秀樹は雪を眺めながら静芳を想った。そういえば、二日前の夜も雪が降っていた。死の直前、静芳も病室から雪を眺めていたのだろうか、と。

「ここです」

十五分ほどで静芳の実家についた。住宅マンションが六棟ほど建っている団地だった。

団地の入り口には守衛がいた。

「三号棟はどれ?」

運転手が守衛に聞いた。

団地の中に入ると、秀樹はなんとなく胸騒ぎがした。静芳の家族にばったり会ってしまったら、どうすればいいのだろうと思ったからだ。

「ここが三号棟です」と運転手が言った。

「ここの八階だそうです。もちろん、自宅までは行けませんが…」

劉鋭の言葉に秀樹はうなずき、車を降りた。

一階から数えて八階を見上げた。雪が顔に降りかかってきた。八階にはいくつか部屋があった。どれが周家なのだろう。

秀樹はしばらくじっと見上げていた。ここが、静芳が育った場所なのだ。雪に降られながら、秀樹は再び静芳の顔を思い浮かべた。楽しかった思い出が甦る。幼い声で自分の名前を呼ぶ静芳の声は、今でもありありと聞こえてくる。静芳が死んだなどという実感は到底持てない、と思った。

「ちょっと、お時間をいただいてよろしいですか?」

秀樹が言うと、二人は車の中で待っているから、と言った。

秀樹は団地の中を歩いてみた。何でもいいから静芳の面影を探したいと思った。そして静芳を感じたいと思った。ここで生まれて、ここで育ったのだ。つい最近もここへ帰ってきたのだ。そして八階のあの部屋で、男に刺され…

その時秀樹は、八階まで上がってみようと思った。家族とばったり出くわしたとして、それがなんだ、と思った。おれは静芳の彼氏なんだ。恋人が死んで、じっとしていられる人間なんているものか。

三号棟の入り口から中に入ると、秀樹はまず郵便受けのある場所へ行った。八階には「八〇一」から「八〇四」まで四つの部屋があった。その中の「八〇三」のポストで秀樹の視線が止まった。「周新民」という名前があった。ほかの三つのポストの名前を見てみたが、周の姓は「八〇三」だけだった。秀樹はエレベーターに乗った。八階のボタンを押す。秀樹以外に誰もいなかった。エレベーターはすぐに八階に着いた。

秀樹はエレベーターを降りると、八階のフロアーを歩いて「八〇三」を探した。それはすぐに見つかった。

ドア越しに中の様子を伺ってみたが、話声は聞こえてこなかった。秀樹はドアをノックしようかどうか、迷った。見てみたい。静芳が生まれ育った家の中を見てみたい。しかし、今このタイミングで自分が現れたら、静芳の家族はどんな反応をするだろう。それとも、劉鋭に静芳の家族に会ってもいいかどうか、聞いてみようか。警察なんだから、彼なら状況を判断できるかもしれない。

しかし、と秀樹は思った。そうだ。劉鋭は警察なのだ。外で警察が控えていると思えば心強い。それを利用して、踏み込めばいいのだ。いざとなったら、運転手の携帯に電話して、すぐにここに上がってきてくれ、と言えばいい。そうだ。そうしよう。

秀樹は思い切って「八〇三」のドアをノックした。心臓が激しく脈打っているのを感じた。

しかし、何の反応もなかった。秀樹は再びノックしてみたが、結果は同じだった。どうやら留守らしい。秀樹は軽い失望を覚えてエレベーターに乗った。心臓はまだどきどきしていた。

車に戻ると、秀樹は言った。

「ありがとうございました。それでは、話を聞かせていただけますか」

「わかりました」

そういうと、劉鋭はまたどこかの地名を運転手に伝えた。

三人がやってきたのは、第五病院近くのホテルだった。

「このホテルにある会議室からは、第五病院の南病棟がよく見えるんです」

劉鋭は微笑みながらそう言うと、秀樹と運転手を連れてエレベーターで三階に上がった。そこには大小いくつかの会議室が存在していた。劉鋭は第五会議室と書かれた部屋に秀樹を招きいれた。確かに、窓の外には第五病院が見えた。しかし、秀樹はすぐにどれが南病棟なのかわからなかった。

「ここなら静かだし、誰かに聞かれる心配もありません」

「お心遣い、ありがとうございます」

秀樹は劉鋭にお礼を言うと、椅子に座った。

「さっそくですが…」

秀樹は会議室内の時計をチラッと見やって言った。

「お話を聞かせてください」

時計は十時十分を示していた。ホテルの従業員が熱いお茶を三人に運んできてくれた。

劉鋭は「謝謝」と言って、従業員が部屋の外に出たのを確認してから話し出した。

「確か雨宮さんは、周静芳さんが男に刺されて入院したことを知ってハルピンまで来たんですよね?そして、あの病院で何度も面会を求めたが、家族から断れて、結局周静芳さんに会えなかった」

劉鋭が第五病院の南病棟を眺めながら言った。

「そうです」と秀樹も同じ建物を見つめながら答えた。

秀樹は、そのときの状況をかいつまんで劉鋭に話した。運転手も時々補足してくれた。劉鋭はじっと秀樹の話を聞いた後、

「それで、雨宮さんが上海に戻ったのはいつですか?」と質問した。

「おとといの二月十四日の夜です。」

「そうですか。ということは…」

劉鋭は咳払いをひとつしてから

「周静芳さんがお亡くなりになられたのは、あなたがハルピンを去った、その日の夜ということになりますね」

「二月十四日の夜…」

「そうです」

バレンタインか、と秀樹は思った。

「それでは、私が調べたことをお知らせしましょう」

と言って劉鋭は語り始めた。


静芳が首を吊ったのは二月十四日の夜十一時から十二時の間と予測される。自殺だったため解剖には回されなかったが、死体の状況から警察はそう結論した。静芳は病室のベッドシーツを使っていた。天井に吊るされている大きな送風機にシーツを巻きつけて首を吊っていた。

翌朝、病室を訪れた看護師が発見し、病院から家族へ連絡した。正月中の殺人未遂事件の被害者が自殺したとあって、マスコミが騒ぎ出すことを恐れ、病院と警察は事件を公開しなかった。

遺体は現在も病院の霊安室に置かれている。家族の混乱が激しく、とても葬儀の手配が行えない状態のため、落ち着くのを数日待ってから遺体を家族に引き渡すのだという。

「じゃ、まだ静芳はまだ、あの病院にいるんですか?」

「そうです」と劉鋭はうなずいた。

静芳はまだあそこにいる…少し表現が違うような気がしたが、秀樹の口からは自然とそう出てきた。

「遺書は…静芳の遺書はあるんですか?」

「それなんですが…」

劉鋭は一呼吸置いてから、

「遺書はありました。病室に置かれていたそうです。本人の筆跡であることは家族が確認しています」

「遺書は、遺書には何が書かれていたんですか?」

「それは私にもわかりません」

劉鋭はきっぱりと言った。

「担当ではない私では、さすがにそこまで立ち入ることはできません」

「そうですか…」

しかし、秀樹はこれでは納得できないと思った。

「遺書は見れないにしても、自殺の原因について、警察ではどのように考えてるんですか?」

「私も遺書を見たわけではないのでわかりませんが、あの殺人未遂事件とあなたが関係していることは確かなようです」

「僕が…?」

秀樹は劉鋭を見つめていった。

「周静芳さんは自殺の直前、殺人未遂事件が起こってからのあなたと家族のやりとりを知らされていたようです。たとえば、彼女の姉が彼女からの伝言だと偽ってあなたに電話をして、二度と妹に会わないように警告したことや、自宅の居間で刺された翌日にあなたが上海からハルピンに飛んできて病院を訪ねてきたことや、病院の受付に言ってあなたを南病棟に入れさせなかったことなどです。母親が静芳さんに話したそうです」

「じゃ、静芳の姉が電話で言っていたもう僕には会いたくない、というのは、静芳の家族の作り話ということですか?」

「そういうことらしいですね」

やはり、と秀樹は思った。静芳も僕に会いたかったはずなのだ。それなのに…

秀樹は静芳の家族に対して激しい憎しみを感じた。こんなにも誰かに対して憎しみの感情を持ったことは、これまでには絶対になかったと言い切れるほどの憎しみだった。

なぜだ。なぜ僕たちの仲を引き裂こうとしたのだ。なぜ偽ってまでそんなことをしようとしたのだ。許せない。絶対に許せない。

「私との仲を家族に反対された。それを苦に、自殺したということですか?」

「先ほども申し上げたように、私は遺書を見ていないので真相はわかりません。しかし、今話した内容は事実です。もしかしたら…」

劉鋭は窓の外を見ながらいった。

「あくまで私の推測ですが、自分の恋愛があんな事件にまで発展して、家族や相手の家族の面子が丸つぶれになった。それを苦にしてのものかもしれません。殺人未遂事件は新聞でもテレビでも大きく報じられましたからね」

「たぶん、そうだと思う」

それまで黙っていた運転手が初めて口を開いた。

「日本人のあなたにはわからないかもしれませんが…中国人は非常に面子を重んじる民族です。他人の顔に泥を塗ることは、もちろんどこの国の人だってやってはいけないことだと思いますが、中国の文化では、それはとても重い罪なのです。裁かれない罪、とでもいいましょうか。その中でも一番重いのは、家族や親族の面子を潰すことです。特に子供が両親の面子をつぶすというのは、あってはならないことです」

秀樹は中国人が非常に面子を重んじる民族だということはわかっていたが、もしもそれが本当に運転手の言うように自殺にまで発展するような重大なことなのだとしたら、秀樹はまだまだ中国人について知識不足だと思った。

「では、今回の彼女の自殺は、あのような事件を起こして、自分の家族や親族、中でも両親の面子を潰したことへの責任を感じてのものだと推測できるんですか?」

「責任というより、呵責の念、と言ったほうが正確でしょうね」

劉鋭が言った。

「でもよくわかりません。先ほどあなたは、相手の家族の面子、ともいいました。静芳はあの男に刺されたんですよ?それなのに、静芳が相手の家族の面子を潰したというのはおかしいんじゃありませんか?」

「そこが難しいところなのです」

劉鋭は力をこめて言った。

「確かに、あの男がやったことは犯罪です。殺人未遂です。しかし、その理由はあなたもご存知でしょう」

「静芳は結婚を断った。それに逆上した男が静芳を刺した」

「周静芳さんは、日本人のあなたと付き合っているから、と言ったようです」

秀樹は劉鋭を見つめた。

「周静芳さんは、両親に強くあの男を勧められていたものの、結局答えをきちんと伝えずに、ずるずるいってしまったようです。断るならはっきり断るべきだった。しかしそうでなかったことが、結果的に相手の男に、周静芳さんの答えはイエスであると思い込ませてしまったのです」

「それは思い込みでしょう?その男の。それに、静芳は私と付き合ってることを両親に伝えていましたよ。それはつまり、その男に対してはノーという答えだったはずです」

「そこなんです」と劉鋭が身を乗り出してきた。

「両親は娘とあなたとの交際に反対だった。だから、静芳さんからあなたとの交際を聞かされても、相手の男にはそれを伝えていなかった。それに、静芳さんの両親はあの男と家族のことを気に入っていたようでしたから、静芳には今、日本人の彼氏がいるからお宅の息子さんと一緒になることはできない、などと言いたくなかったのでしょう。それを言うことによって、この良い縁談が流れてしまうことを恐れた。しかも、縁談が流れてしまった原因が、娘が日本人と付き合ったからだ、と周囲に知れたら、それこそ周囲からどんな反応をされるかわかりませんからね」

「良い縁談?それは静芳の両親にとって良い縁談なのであって、静芳にとっては全然よくなかったはずです。現に静芳は私とのことを話して、あの男との結婚を断って、刺されたわけですから」

あの男といいながらも、秀樹は当然会ったことがないので、どんな男なのかは知らない。

「そこがつまり、この問題の難しいところです」

今度は運転手が話した。

「我々には、静芳さんの両親があの男との縁談をいつまでも断らなかった気持ちがよくわかります。と同時に、若いあなたと静芳さんがお互いに好きで、結ばれたいという気持ちも理解できます。」

「つまり」と劉鋭が言った。

「悲劇なのです。今回起こったことは、悲劇としか言いようがない」

「わからない」と秀樹はつぶやいた。

「僕には静芳の両親の気持ちはわかりません。僕がわかるのは、僕と静芳は愛し合っていたということと、静芳は僕と一緒になるべきだったということです。つまり、静芳の両親はさっさとあの男との縁談を断っておけばよかったんです。そうすれば、こんなことにはならなかった。こんなことに…」

秀樹はまたやり場のない怒りがこみ上げてきて、うつむいて下唇をかんだ。

劉鋭と運転手は、黙って秀樹を見つめているだけだった。

「静芳は今後、どうなるんでしょうか?」

秀樹は顔を上げると、劉鋭に聞いた。

「家族の方々がまだかなり動揺されているので、しばらくは病院に安置されるでしょう。家族の方々が落ち着いたら、遺体を引き取って、葬儀を行うことになると思いますよ」

「静芳が死んだのは、正確には何月何日なんですか?」

「死亡報告書では、二月十四日です」

その日が静芳の命日ということになる。

「静芳を刺した男は、今どうなっていますか?」

「現在は拘置所で身柄を拘束されているはずです。殺人事件ではないので、死刑や無期懲役はないでしょう」

「その男は、静芳が自殺したことを知っているのでしょうか?」

「さぁ。どうでしょう。今後知ることにはなるかもしれませんが、今はまだ知らないでしょうね」

秀樹は、降り続く雪と、第五病院を再び見つめた。


話し終えると、劉鋭と運転手は秀樹をホテルまで送ってくれた。秀樹はホテルの部屋で一人過ごすのが耐えられなかった。現実を受け入れられないし、ハルピンにいたとて何ができるわけでもない。劉鋭が遺書はあったと言っていた。遺書に自分のことが何か書いてあるはずだ。秀樹はそう思った。どうにか見る方法もないだろうか。

今日の劉鋭との話で何かがわかったような気もするし、結局何もわからなかった気もする。秀樹は釈然としない気持ちのまま、今回もハルピンを去らなければならなかった。




静芳が自ら生命を絶ってから、三ヶ月が経とうとしていた。

秀樹はこの三ヶ月間、自分がどうやって過ごしてきたのか、よく思い出せない。仕事には復帰したし、食欲も普通にある。秀樹はほとんどの時間を家で過ごした。誰にも会いたくなかった。親友の伊藤にも連絡しなかったし、伊藤からも連絡はなかった。

秀樹は自分の中で答えを探し続けた。静芳の件をどうやって受け止めればいいのか、その答えを。しかし、答えなど出るはずもなかった。いくら考えても、自分は何もできなかったという絶望感だけが最後に残るだけだった。


思いつめた挙句、ある日、秀樹は母に電話することにした。とにかく今は、心を許すことができる人に、この受け入れがたい現実を話すことで、なんとか自分の中で納得できる答えを見つけたいという一心であった。

中国人の彼女がいることだけは家族にメールで知らせてあった。母に対して静芳についてまともに話す最初の機会が、こんな内容になるとは、と思うと秀樹のむなしさは倍増した。

「もしもし。おれだけど」

「あら。珍しいじゃない、メールじゃなくて電話してくるなんて」

「うん。実は…ちょっと話したいことがあって。自分で、どう受け止めたらいいのかわからないんだ」

「そう…何があったの?」

秀樹は静芳が刺されたことから、劉鋭という男に会ったことまでの詳細を母に話した。母はずっと秀樹の話を聞いていた。

「何もしてやれなかったんだ…何も…」

秀樹はなんのてらいもなく、こんな内容の話を母にしている自分を不思議に思った。それだけ、答えが欲しかったのだろう。なんでもいいから、何かしらの答えが欲しかった。

秀樹が落ち着くのをまってから、母はゆっくり話し始めた。

「カッショーばあちゃんがね、あなたのことを孫の中で一番優しい子だ、っていってたの、覚えてる?」

あぁ、と秀樹は短く答えた。

「ほら。昔、小学生のあなたが、自分のお年玉を圭介にあげようとしたときね」

覚えてる、と秀樹は言った。

「でもね、そのあと、カッショーばあちゃんが言ったのよ。あなたのことが心配だって」

「心配?」

秀樹は母が何を言おうとしているのか、わからなかった。

「優しすぎるからって」

「優しすぎる・・・?」

秀樹は自分からはしゃべらず、母に話を続けてもらおうと黙っていた。

「私が次女だってことはあなたも知ってるでしょう?でもね、実は、私は三女なのよ」

「え!?どういうこと?」

母は長女のかよおばさんの名前を挙げて

「かよちゃんと私の間に、もう一人、いたのよ。私には二人の姉さんがいたの」

「でも、どうして母さんは自分は次女だって、ずっと言ってきたの?」

「カッショーおばあちゃんが、孫にはそういうことにしといてほしいって言うからよ」

秀樹はなかなか確信に迫れないいらいらを抑えながら

「なんで隠す必要があるの?何か後ろめたいことでもあるの?」

「実はね、その次女の姉さんは、自殺したの」

秀樹は言葉を失った。

「その姉さんはゆりって名前なんだけど、ゆり姉さんはね、私たち五人兄弟の中でも一番心根が優しかった、っていつもカッショーばあちゃんが言ってたの。一番優しくて、一番繊細で。だから、カッショーばあちゃんは私たちが嫉妬するくらい、ゆり姉さんをかわいがってたの」

秀樹は相槌を打つので精一杯だった。

「でもある日曜日の朝、その日は家にはカッショーばあちゃんとゆり姉さんと弟の隆司しか家にいなかったんだけどね。なかなかトイレから出てこないゆり姉さんを不審に思った隆司が、トイレの鍵を外から壊して中に入ったの。そしたら、カミソリで手首を切って血まみれになったゆり姉さんがそこに倒れてたって…」

母は涙声になっていた。

「カッショーばあちゃんはあの子は自分が殺したんだ、私がきちんと守ってやれなかったからだってずっと自分を責め続けたの。もちろん、おじいちゃんも私たち子供もそんなことはないって言い続けたわ。でもカッショーばあちゃんは、病院のベッドで意識がなくなる寸前のときも、ゆり姉さんのことを思い出して、私が悪かったんだ、って言ってた」

秀樹は、中国留学から日本に帰宅して、すぐにカッショーばあちゃんが入院していた静岡の病院に駆けつけた時のことを思い出していた。

「カッショーばあちゃんにとってはね、ゆり姉さんとあなたが重なるのよ。あなたがお年玉を圭介にあげようとしたあの時だって、その後そっと私に耳打ちしたの。優しい子だねぇ、ゆりみたいだねぇって。それから私にこう言ったのよ。あなたはちゃんと秀樹を守ってあげなさい、って。」

そして母はカッショーばあちゃんから言われた、どうしても忘れられない一言がある、といってそれを秀樹に語ってくれた。

「弱い人間が自ら命を絶つのではない。優しい人間ほど、自ら命を絶つのだ」


電話を終えるとき、母は言った。

「思い出の品とかは、残しておかなくてもいいのよ。そういうのを見ると、どうしても思い出してつらくなっちゃうから…」

確かにそうだ、と思った秀樹は部屋にある静芳との思い出の品を片端から処分し始めた。静芳からもらったプレゼントや、パソコンに入っている写真まで、すべて処分しようと思った。どうしてこんなに苦しまなければならないのだ。すべて処分しよう。自分の中から静芳という存在を消してしまおう。そんなことができるわけはないことは秀樹にもわかっていた。しかし、そうでもしないとまた静芳を思い出して苦しくなる。もう苦しむのはごめんだ、と思った。そして狂ったように静芳にまつわるすべてのものを処分していった。

しばらくして、まだ他に何かあるだろうかと考えていた秀樹は、ふと思いついて過去に乗った飛行機の搭乗券を引っ張り出してみた。これまでに仕事の出張やプライベート旅行で乗った飛行機の搭乗券をすべて残しておいたのだ。ゆうに五十枚は超えている。

秀樹は静芳と出会ったフライトの搭乗券を見つけて取り出し、ぼんやりと眺めた。そこには日付や出発地や行き先、搭乗口のほかに座席番号も印刷されている。あの飛行機内でのシーンがまた甦ってきた。

次に秀樹は、殺人未遂事件で病院に入院した静芳に会いに行ったフライトの搭乗券を取り出してみた。そしてあることに気がついた。同じなのだ。搭乗券に印刷されている、ある文字が。

まさかと思い、静芳の自殺を知らされて乗り込んだフライトの搭乗券を探した。そして取り出した搭乗券を見て、秀樹は息を呑んだ。

これは偶然でも奇跡でもない。秀樹はそう直感した。静芳はおれを呼んでいた。ハルピンに呼んでいたのだ。一番苦しんでいたのは静芳だ。恋人に会いたくて、でも会えなくて、それで一番苦しんでいたのは静芳だ。静芳は、一体どんな思いで病室のベッドに横たわっていたのだろう。どんな思いでおれが病室に駆けつけるのを待っていたのだろう。どうしてあの時、無理にでも病室に行かなかったのか。どうしてあの時、深夜に忍び込んででも静芳に会いに行かなかったのか。静芳はおれ以上に苦しんでいたに違いない。

涙が三枚の搭乗券のうちの一枚にぽたりと落ちた。三枚ある搭乗券の座席番号に記されていた文字、それは偶然にも、すべて「15D」であった。



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