第4章
静芳の姉が秀樹に電話をしてきたのは、その日の深夜だった。
「雨宮さんですね?」電話の向こうから、若い女の声がそう聞いてきた。
「はい、そうですが。どちらさまですか?」
「周静芳の姉です。今、ハルピン市内の病院から電話しています」
「病院?」
静芳の姉とは面識もなければ電話で話したこともなかった。しかし、その口調の異様な暗さや冷徹さから、この電話がただ事ではないことを秀樹はすぐに察知した。
「何かあったんですか?」
「静芳が…静芳が腹部を刺されて救急車で病院に運ばれました」
「えっ!?」秀樹は状況がよく飲み込めず、かろうじて
「で、様態は?」と聞くのが精一杯だった。
「腹部を二ヶ所刺されて重症ですが、緊急手術のおかげで命に別状はないことがつい先ほどわかりました」
「意識はあるんですか!?」
「あります。まだあまりしゃべることはできませんが、意識ははっきりしています」
静芳の姉は感情を押し殺しているかのように、冷徹な声で続けた。そこにははっきりと、秀樹への非難が交じっていた。
「誰に刺されたんですか!?犯人は、刺したやつは捕まったんですか!?」
その言葉を聞いた伊藤の顔色も変わった。
しかし、静芳の姉はそれには答えず、
「妹が、かすれた声であなたに電話してくれと家族に言ったんです。言伝をしてほしいと」
「静芳は、彼女はなんと?」
「こんなことになってしまって、私はもうあなたには会えない。いろいろありがとう、です」
秀樹は言葉に詰まった。状況が飲み込めない上に、静芳は重症を負っていて、しかももう自分には会わないと言っているのだ。
「ちょっと待ってください。私もそちらに行きます。病院の名前を教えてください!」
「やめてください!」
そのあまりの強い口調に秀樹はたじろいだ。
「静芳はもうあなたには会わないと言っているのです。来ないでください。私たち家族も迷惑です」
「そんな…」
しかし、必死の思いが秀樹を本能的にしゃべらせた。
「わかりました。そちらには行きません。でも、お見舞いの品を送りたいんです。だから病院の名前を教えてください。それなら別にかまわないでしょう?」
無論、秀樹は病院へ行くつもりだった。いざとなれば、静芳の故郷であるハルピン市内の病院をひとつひとつ当たれば見つかるとも考えたが、とにかく今、この場で聞きださないと、一生静芳に会えないような気がしたのだった。
静芳の姉はしばらく考えてから答えた。
「ハルピン第五病院です」
そう聞こえたあと、電話は切られた。
「静芳が刺されたって…今、ハルピン市内の病院にいるって…」
あまりのことに、茫然自失となった秀樹は、ただ伊藤の顔を見つめることしかできなかった。伊藤も顔が青ざめている。
「命に別状はないらいしいけど、腹を二ヶ所刺されたって…」
「病院の名前は?誰が電話してきたんだ?誰が刺したんだ?え!?一体どうなっちゃってんだよ!!」
伊藤は叫ぶように言った。
「とにかく、おれ、明日ハルピンに行くよ。病院の名前も聞いた。とにかく、明日上海に戻ったらそのまま空港に行って、ハルピン行きの便に乗るよ」
「じゃ今すぐ飛行機のチケット手配…ってもうこんな時間だ」
秀樹は携帯で時計を確認した。夜の十二時を回っていた。
「それに旧正月だから、旅行代理店も休みなんじゃないか?」
と伊藤が言った。
「大丈夫。おれがいつも使ってる旅行代理店は電話すればチケットを押さえてくれるはず。明日の朝一に電話するよ」
伊藤はあまりのことに言葉を失い、詳細を秀樹に聞こうとしなかった。恐らく、それだけ秀樹が混乱していたからであろう。何も言わず、何も聞かず、それ以降はただ「寝れそうか?」「もう今日は早く休めよ」と秀樹を気遣うだけだった。
一体何がどうなったのか。
静芳は誰に刺されたのだろう?
誰かに恨みを買うようなことでもしていたのか?
もしくは強盗なのか?
いや、強盗や行きずりの犯行であれば、もう秀樹に会わないとは言わないだろうし、静芳の姉もそれを教えてくれるはずだ。ということは、きっと顔見知りの犯行で、問題がこじれたか何かだろう。
しかしなぜ何も教えてくれないのか。しかも、静芳の姉の口調には、明らかに自分に対する非難めいたものが交じっていた。なぜだ。自分は静芳の家族から恋人として認められていないからだろうか?そういえば静芳は家族から秀樹との付き合いを反対されているといっていた。
しかし、それだけでここまで自分を避けようとするだろうか?
病院にも来るな、などというだろうか?
静芳は結婚について両親に話したのだろうか?
静芳の姉が言うには、静芳の伝言はもう自分には会わない、というものだった。なぜだろう。
とにかく真相が知りたい。一体何が起こったのか。今、静芳は何を考えているのか。どうしてもう自分とは会えないのか。もうこのまま一生、静芳には会えないのだろうか?それにしても、あまりにも唐突過ぎる。納得いくはずがない。
いや、待てよ。もしかしたら、実は静芳はこの事件で命を…家族がそれを隠して、それで会いに来るなと言ったのか…
そこまで考えて秀樹は首を大きく左右に振った。
バカなことを考えてはいけない。とにかくもう考えるのはやめよう。今考えたって答えは出てこない。幸い、命に別状はないとのことだ。とにかく、明日ハルピンへ行こう。そして第五病院を訪ねるのだ。そこで真相がわかるはずだ…
翌朝、秀樹は旅行代理店の担当者の携帯に電話してみた。
「休み中申し訳ない。今日の飛行機のチケットなんだけど、取れるかな?緊急の用事なんだ」
「今日ですか?また慌ただしいですね。どちらまで?」
「ハルピンまで」
「ハルピンですか。この寒い時期になんでまたあんなところへ…」
「いいから調べてくれ。緊急の用事なんだ。今日の午後便で一番早いやつを頼む。急で申し訳ないけど、なんとしても手配してくれ」
「わかりました。調べてから、電話しますよ」
秀樹と伊藤はホテルをチェックアウトすると、電車で上海への帰途に着いた。途中、旅行代理店から飛行機のチケットを押さえたという連絡が入った。
「すまんなぁ。せっかくの正月旅行が、こんなことになっちまって…」
「何言ってんだよ。いいんだよそんなこと。それより、チケットが取れてよかったな。飛行機のチケットって当日でも取れるもんなんだな。いい勉強になったよ」
伊藤が努めて明るくしてくれているのがわかって、秀樹はありがたかった。
「昨日はあれこれ考えちゃって、一睡もできなかった」
「まぁそうだろうな。今はどうだ?少しは落ち着いたか?」
「あぁ。とにかく今は、真相を知りたいんだ。何が起こったのか。誰の仕業なのか。これからどうなるのか。それに…」
「それに?」伊藤が先を促した。
「最悪の場合も想定してるんだ」
「最悪の場合?」
秀樹はそっと視線を伊藤に向けた。それで秀樹の言っていることを理解した伊藤は
「おいおい。そりゃねぇだろうよ。だって、昨日の電話でも、命に別状はないって言ってたんだろ?」
「あぁ。そうなんだ。そうなんだけど、昨日は考えすぎちゃって、悪いほうに悪いほうにばかりいっちゃって、それでつい、そんなことまで…」
「とにかく、現地に行って確かめてみるまでは、何も考えないでおこうぜ」
伊藤は強引に秀樹の言葉を遮った。伊藤なりの優しさなのだろう。秀樹はとても心強かった。
「おれも一緒にハルピンに行ったほうがいいか?」
と伊藤が聞いた。
「いや。そこまですることないよ。これは、おれの問題なんだ。申し訳ないよ」
「おれは全然かまわんけどな…でもまぁ、こういうのは第三者が入るとややこしくなりそうだから、やっぱり一人で行くのがいいな」
「うん。おれ一人で大丈夫だ。ありがとう。その心遣いがうれしいよ」
「水くせぇこと言いやがって」
そういって伊藤はタバコを吸ってくると言って席を立った。
二人は上海駅に着くと、そのままタクシーで上海虹橋空港へ向かった。
秀樹は何度ここへ静芳を迎えに来たことだろうと思った。静芳が勤務するフライトが夜のときは、よく秀樹がこの空港まで迎えに来ていた。つい最近も一回あった。
それが、いまや静芳は重体で、もう自分には会わないという。どういうことなんだろう。
旅行代理店は午後三時半発の便に席を取ってくれた。午後六時十五分にハルピン空港に到着する。
伊藤に見送られて、秀樹は機中の人となった。
二月のハルピンは凍るように寒い。
ハルピンがある黒龍江省は中国最北部にあり、ロシアと国境を接している。その黒龍江省の省都であるハルピンは人口一千万人に近い大都市で、戦時中日本軍の七三一部隊が駐屯していた都市としても有名である。そのため、南京と並んでこの都市に住む人々の日本に対する感情は他の都市とは異なるものがある。数ある中国の都市の中でも、特に人々の記憶に残る残忍な過去が存在する街なのだ。
秀樹は飛行機を降りて空港を出ると、まずその寒さを体感した。ハルピンに来たのは初めてであった。大学生のとき、ハルピンに留学した同期が「部屋から一歩外に出ると鼻水が凍る」と言っていたのを思い出した。確かに、秀樹の鼻の中は凍っているようだ。
空港からタクシーに乗り込むと、秀樹は運転手に「第五病院まで」と告げた。走り出したタクシーの中で秀樹は、さて、病院についたらどうやって静芳を探そうかと考えていた。面会できるかどうかはわからない。受付で名前を言って会いたいと言えば、それで通してくれるのだろうか。しかし、そんなことをしてもし怪しまれたらどうしよう。病院は大きいのだろうか。
「運転手さん、私は行ったことがないんですが、第五病院て大きいんですか?」
車は市内へ向かう高速道路に入った。
「大きいよ。名前は第五だけど、ハルピン市内で一番大きいんだ」
運転手は笑いながら答えた。秀樹は軽い失望を覚えた。大きい病院では、探すのが大変だ。
とにかく静芳に会いたい。その一心で、秀樹はタクシーの運転手に尋ねてみた。
「正月早々、ハルピン市内で事件があったみたいだね」
運転手はバックミラーでチラッと秀樹を見やってから答えた。
「事件?何の事件ですか?」
「若い女が刺されたって事件さ。確か昨日のはずだ」
すると運転手は
「あぁ。今朝のニュースで見たな。なんでも若い男が女を刺したんだって」
「新年早々物騒な話だね。その若い女性が死ななかったのがせめてもの救いだね」
秀樹は自分でも驚くほど冷静だった。
「それで、女性を刺した犯人は捕まったんですか?」
「あぁ。捕まったらしいよ。なんでも、感情のもつれから激高した男が勢い余って刺しちまった、みたいなこと言ってたよ」
「感情のもつれ?」秀樹は更に聞いてみた。
「感情のもつれってことは、その男と女は恋人同士だったってことかい?」
「どうもそうらしいね。でも、今朝のニュースでは具体的な動機までは言ってなかったな。まぁいずれにしても、よくある男女間の事件さ」
静芳に恋人がいた?それは本当なのだろうか。
「第五病院に行くなんて、もしかしてお客さん、これからその女性を見舞いに行くんじゃないでしょうね?」
「その被害者は第五病院に入院してるの?」
「ははは。冗談ですよ。さすがに搬送先の病院をニュースが教えてくれるわけないですからね」
中国ではハルピン人が話す標準語が一番きれいだと言われている。きれいでわかりやすい標準中国語を話し、豪快に笑う運転手に秀樹は好感を持ち、この人なら一役買ってくれるかもしれないと思い、しばらく考えた後、切り出した。
「実は、さっきあなたが言ったことは正解なんです」
「え?何のことですか?」
バックミラー越しに秀樹を見ながら運転手は聞き返した。
「僕は昨日の事件の被害者の知り合いで、彼女は第五病院に入院してるんです」
「アイヤ!まさか適当に言ったことが当たってたなんてね」
運転手は驚いたような、うれしそうな声で言った。
「でも、僕はその家族といろいろあってね。面会には来てほしくないと言われたんだ」
ここからは、相手に話す隙を与えず、一気に話すのがいいと秀樹はまくし立てた。
「でもね、被害者本人とは仲がいいんだ。いくら家族が反対するからといって、仲のいい友達がこんなことになってるのに、見舞いに行かないなんてこと、ありえないでしょう?だから、わざわざ上海から飛行機で飛んできたんです」
「へぇ~!お客さん、わざわざそのために上海から来たんですか!」
中国人は元々人をもてなすのが好きである。それも、客人がわざわざ遠方から自分の街に来てくれるということに対しては特別うれしいようだ。秀樹はその心理を利用した。
「でも、彼女が第五病院のどこの部屋に入院してるのか、わからなくてね。なにせ彼女の家族が反対してるから、部屋番号を教えてくれないんだ。それに、僕は地元の人間じゃないだろ?だから受付でも教えてくれるかどうかわからないよね」
「お客さんは南の出身ですか?」
広い中国では、標準語を話したときの訛りで北方人か南方人かがだいたいわかる。湖北省の武漢大学に留学し、上海に駐在している秀樹の標準中国語は典型的な南方訛りで、北方に来るとその訛りが特に目立つのだった。方言の多い中国では、実際には中国人でも本当にきれいな標準語を話す人は東北地方の人たちだけといわれており、その他の地域の人たちが話す標準語はどこも訛っている。土着性の強い中国人は普段は方言で話しているほうが圧倒的に多いからだ。特に、南にいけばいくほど方言はきつくなる。わかりやすい例で言えば、香港で話されている公用語は広東語で、香港映画でも広東語が使われているが、広東省以外の人間には広東語はわからない。同じ中国で作られた映画でも、字幕がなければ理解することができないのだ。この運転手は、秀樹のしゃべる中国語の発音を聞いて、南の出身ですかと訊いてきたのだろう。
秀樹は言葉の心配をしていた。自分がハルピン人のようにきれいな標準語で受付に聞けば、地元の人間だと思われて、怪しまれずに済むかもしれない。しかし、自分の中国語では明らかに他の地域から来たことがわかってしまい、部屋番号を聞いても警戒されてしまうだろう。ましてや、親戚だ、いとこだと嘘をついても、すぐにばれてしまう可能性がある。
そこで秀樹は、このタクシー運転手が自分の代わりに部屋番号を聞き出してはくれないか、と期待しているのであった。地元の人間であれば、疑われずに済むだろう。
「まぁそんなところです。あと、どのくらいで着くのかな?」
「道がすいてるから、あと二十分もあれば着きますよ」
思い切って秀樹は言ってみた。
「運転手さん、病院に着いたら、私の代わりに彼女の部屋番号を聞きだしてくれませんかね?」
運転手はえっという顔をしながらも、
「聞き出すっていったって、おれはその女性の名前も知らないですよ」
「静芳です。周静芳という名前です」
秀樹はさらに付け加えた。
「もちろんこんなお願いをする以上、お礼もしますよ。」
運転手は少し考えている様子であったが、しばらくして
「いえいえ。お礼なんて要りませんよ。困ったときはお互い様。ハルピン人は情に厚く、困ってる人を見ると放っておけないんです。病院の受付でさっきの名前を言って、どの部屋に入院してるのか聞けばいいんですね?」
「そうです。本当にそれだけでいいんです」
「わざわざ上海から来たんだ。悪い人でもなさそうだし、聞いてあげるよ」
「本当ですか!ありがとうございます!」
秀樹は救いを得たような気持ちだった。これで静芳に会える、という気持ちがどんどん強くなっているのを感じた。
タクシーは第五病院に到着すると、敷地内ではなく外の道端で止まった。
「じゃあなたはここで待っていてください。聞いてきますので。名前は周静芳さんでいいんですよね?」
「はい。周恩来の周に、安静の静に、芳香の芳です」
先に支払いを済ませますよという秀樹の言葉で、料金を精算してから、運転手は意気込んでタクシーを降りると、病院の中へ入っていった。
運転手は十五分ほど帰ってこなかった。秀樹にはその時間がとんでもなく長いものに感じられた。運転手はやっと戻ってくると、車には乗らず、後部座席の秀樹に車から降りるよう指示した。そして病院の中へ一緒に来るよう手で示しながら話し始めた。秀樹は、慌てて荷物をもって運転手に続いた。
「いやぁ苦労しましたよ、なんでも、昨夜の事件について、多くの新聞や雑誌の記者が家族や被害者の声を聞きたいと取材に来てるみたいですよ」
「そうなんですか」
大事になっているのだな、と秀樹は感じた。正月早々の殺人未遂事件ともなれば、それも仕方ないかもしれない。
「それで、静芳の部屋はわかったんですか?」
「えぇ。南病棟の六階の部屋だそうです」
「南病棟…ですか」
運転手の話はこうだった。
昨夜救急車で運び込まれた静芳は、すぐに救急病棟に入り手術を受けた。一命を取り留めた後、事情を知った病院側は家族に南病棟の五階から十階までの部屋に入院することを勧めたという。そこには有名人や地元の名士、また事件などでマスコミの取材などが予想される人物専用の入院部屋が設けられていて、中に入るのには許可が要るとのことだった。
「でもどうやってそんな許可を?」
「なぁに。私の友達にハルピン市警で働いているやつがいましてね。そいつに電話して代わってもらったら、受付の人もすぐに教えてくれたよ。警察の事情聴取の一環かと思ったんじゃないですか」
運転手は得意げに言った。
二人は南病棟に到着すると、入り口から入って『五階以上の病室はこちらから』と書かれた矢印の方向へ進んでいった。どうやら、エレベーターは一階から五階までと、それ以上とで別々に設けてあるらしかった。
矢印の方向に進んでいくと、受付があった。運転手が話しかけた。
「六〇七号室に行きたいんだけど」
「総合受付で受付をなさいましたか?」
「はい。それで、ここへ行くように、と言われました」
受付の女性看護師は無愛想な顔でどこかに電話をかけた。
「確認が取れました。それでは、ここにあなたの名前と連絡先を記入してください」
「受付は済ませたのに、ここでもまた記入しなきゃいけないのかい?」
運転手はぶつぶつ言いながらも、自分の名前と電話番号を記入した。
すると受付の看護師が
「そちらのかたは?」と秀樹を見て訊ねた。
「あぁ。連れのものです。記入するのは、おれひとりでいいでしょ?」
看護師は再びチラリと秀樹に目線を送った後、
「どうぞ」といって中へ通してくれた。
二人でエレベーターに乗り六階で降りると、運転手が言った。
「じゃ私はここで。役目は果たしましたからね」
「あ、もう戻るんですか?」
「仕事に戻らないと。この先はおれとは関係ないしね」
秀樹は深々と頭を下げてお礼を言った。
「なぁに。そんなにお礼を言われることでもないですよ」
と運転手はいい、去り際にそっと秀樹の耳元で、
「お兄さん、日本人でしょ?」とつぶやいた。
秀樹が驚いた顔をして見返すと、
「あなたがしゃべる中国語を聞いて、なんとなく想像がつきましたよ。でも、お客はお客。それに、困ってたみたいだしね。早く、静芳って子の部屋に行ってあげてください。六〇七号室ですよ。それじゃ」
そういって再びエレベーターに乗りかけた運転手を秀樹は呼び止めて、
「ここまでしていただいて、何のお礼もできないのは申し訳ありませんので、連絡先を教えておいていただけませんか?私はあと数日、ハルピンに滞在する予定です。ハルピンにいる間に、きちんとお礼をさせてください」
「いやいや、本当にそんな必要ありませんよ」
そういいながら、運転手は秀樹に名刺を渡して、
「それよりあなたが上海へ戻るために空港に行くときは、私のタクシーを使ってください」
と言った。秀樹もあわてて自分の名刺を差し出した。
運転手はエレベーターに乗って去っていった。
秀樹は、六〇七号室を探した。それはすぐに見つかった。
しかし、すぐそのまま病室に入るのはためらわれた。昨夜、電話で話したときの静芳の姉の
「やめてください!」
という強い拒絶の声が耳から離れない。体が軽く震えているのは、寒さのせいだけではないようだった。秀樹は直接病室には入らず、トイレに行こうと思った。トイレで一度気持ちを落ち着けてから病室に入ろうと思った。窓の外は、もう真っ暗だった。
するとその時、六〇七号室から若い女が出てきた。目が合った瞬間、秀樹は静芳の姉だと直感した。目がとても似ていたからだ。
静芳の姉は病室を出たところで立ち止まって秀樹を見つめていた。秀樹が誰なのかまだわかっていないようだ。
秀樹は思い切って声をかけた。
「こんばんは。雨宮秀樹です。」
心なしか、声が震えたように思えた。
静芳の姉は驚きを隠さなかった。そしてすぐに病室へ戻った。秀樹は追いかけて中へ入っていった。個室のベッドに、静芳が横たわっていた。眠っているようだ。
病室には静芳の母と姉がいた。秀樹は静芳の母に向かって改めて名前を名乗った。
「昨日、来ないでくださいと言ったはずです」
と強い非難を込めた口調で姉が言いながら、秀樹を病室の外に出るよう言った。
「わかっています。でも、私にはまったくわけがわからないのです。なぜ静芳が刺されたのか。犯人は誰なのか。これから僕たちはどうなるのか。どうしてもそれを知りたくて来ました」
廊下で、秀樹は静芳の母と姉に向かって必死に訴えた。
「わかりました。でも病室には入らないでください。今、あの子は寝ています。別の場所で話しましょう」
連れて行かれたのは五階の喫茶室だった。
「上海からわざわざ来られたんですか。こちらは寒いでしょう」
静芳の母はあからさまに不快な表情を見せながらも、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
「静芳の容態はどうですか?」
「医者が言うには、命に別状はないものの重症で、退院までに三ヶ月はかかるだろうとのことです」
「三ヶ月…一体、何があったのですか?」
「あなたはここには用がない人のはずです。病室には行かないでください。そして、あの子にも会わないでください」
「ちょっと待ってください。僕は上海で静芳とお付き合いさせていただいてるんです。真剣です。二人で結婚についても話し合っていました。だから、せめて一目でいいから会わせてください」
静芳の家族はなぜここまで自分を避けるのか。静芳を刺した男が何か関係しているのだろうことは予測がつくが、それ以上はよくわからない。秀樹は、今日は何が何でもその真相を聞きすまでは病院を去らないと決めていた。そしてハルピン滞在中に、一目でいいから必ず静芳に会って直接話がしたかった。
「あの子は今寝ています。お引取りください」
「静芳を刺した男は、静芳の恋人なんですか?」
秀樹はあえて相手の自尊心に訴えて、事の真相を聞きだそうと考えた。
「上海で私と付き合っていながら、地元にはもう一人別の男がいたってことですか?」
秀樹の軽蔑めいた言い方に、静芳の母は鋭く反応した。秀樹は成功したと思った。
「それならもう僕はここにいる必要はなくなりますね。静芳がそんな女だったなんて知らなかった。まぁ見抜けなかった私が愚かだったんでしょうが…」
「止めてください!」
大きな声で静芳の母が秀樹の話を遮った。
「あの子の悪口を言うのは許しません!」
「じゃ真相を教えてください。一体、何があったんですか?静芳とあの男はどういう関係なんですか?」
静芳の母は鋭い目つきで秀樹を睨んだ後、
「ちょっとそこで待っていなさい」
といい、喫茶室を出て行った。しばらくすると、静芳の姉がやってきて秀樹に言った。
「私があなたにお話します。でも、話し終わったら今日はもうお引取りください」
といい、一部始終を語りだした。
旧正月で実家に帰ってきた静芳に、両親は昔からの友達である地元のある男と結婚するよう勧めた。静芳は決してその男が嫌いではなかった。同い年で気心も知れていて、相手の両親とも気が合ったし、また男の方も静芳が客室乗務員ということもあり、結婚を強く望んでいた。
しかし、二年前に持ち上がり今日までずっと続いてきたこの縁談話に、静芳はどうしても同意できなかった。親が決めた縁談は嫌だという気持ちもあったし、またその男と結婚したあと、今の仕事ができるかどうかも微妙だった。男は、静芳が結婚してハルピンに戻り、家庭に入ることを強く望んでいたからだ。
しかし、そんな静芳の気持ちをよそに縁談話だけが一人歩きし、来年結婚するのが望ましいという流れになった。静芳は二十六歳で、子供を生むにはできるだけ若い方がいい、というのがその理由であった。そのため新年早々から両親は静芳に、今年あの男と結婚するのがいいと強く勧めたのであった。
静芳は、自分は上海で知り合った日本人が好きで、その人とお付き合いしているのだと以前からはっきりと両親に伝えていた。しかし、せっかくの縁談話に水を差されたように思っていた両親は、静芳にその日本人とは別れるようにと言っていた。日本人と付き合って結婚して、本当に幸せになれるのか。万が一、その男が日本に逃げ帰ってしまったらどうするのか。探すあてもないじゃないか。それに文化も習慣も違う。たとえ中国語が話せるからといって、国際結婚はそんなに簡単なものじゃない。そして一番の理由は静芳がハルピンに帰ってこれないことだ。その日本人と結婚したら、上海に留まるだけでなく、もしかしたら近い将来、静芳を連れて日本で生活するかもしれない。そんな結婚は当然認めることはできない。それよりも、地元で気心の知れたあの男と結婚するほうがいいに決まっている。別に自分たちのわがままで言っているのではない。静芳の幸せを思うからこそ言っているのだ。
静芳は泣きながら両親に訴えた。これまで私はいい子にしてきた。両親のいうことは何でも聞いて、一生懸命勉強し、難関の航空学校に入り、両親の念願でもあった客室乗務員にもなった。自分のわがままを両親にぶつけることなんてほとんどなかった。でも結婚についてだけは私の思い通りにさせてほしい。私が好きになり、私が愛した人と結婚したい。両親に心配はかけさせない。絶対に幸せになる。
そしてなにより、私は秀樹のことを愛している…
するとそれまでほとんど口を閉ざしていた静芳の父親が突然立ち上がり、
「バカなことを言うんじゃない!」
と静芳の頬を平手で打った。
結局その日、静芳は自分の部屋に閉じこもったまま、出てこなかった。
しかし、翌日、男が両親と共に新年の挨拶といって静芳の家を訪ねてきた。結婚話を進めようという魂胆が丸見えだった。しかし、さすがに断るわけにはいかず、静芳も含め家族総出で出迎えた。しばらくした後、気を利かせた双方の家族が静芳と男を居間で二人きりにした。静芳の父親は、昨日は思わずカッとなって手をあげてしまったが、静芳はきっと親の気持ちをわかってくれるに違いないと思っていた。
しかし、実際には違っていた。
静芳は思いがけず男と二人きりで話す機会ができたことで、はっきりと結婚を断ろうと思っていた。そして、秀樹の存在を打ち明けようと…
静芳と男が二人きりになってどれくらいしたころだったろう。
突然居間から静芳の異常な叫び声が聞こえてきた。何が起こったのかと騒然となり、姉が最初に居間に飛び込んだ。男が息を切らして果物ナイフを持ち、床に倒れこんだ静芳を見下ろしていた。果物ナイフからは血が滴り落ちていた。
そのときの男の顔は、鬼の形相なんてものではなかった。人間にはこんな恐ろしい顔があるのか、と思うほどのすさまじい形相であった。
床に倒れこんだ静芳は「痛い!痛い!」と言いながら、お腹の辺りを押さえていた。
姉に続いて入ってきた父親が男から果物ナイフを取り上げ、拳で男の顔を思いっきり殴った。男はどさっと居間のソファに倒れこんだ。母親はあまりのことに腰を抜かして、その場で倒れこんだ。
「救急車!救急車だ!」
床に倒れた静芳の顔を起こしながら父親が叫び、姉があわてて携帯で救急車を呼んだ。男はソファの上で殴られた顔を押さえたままピクリとも動かなかった。男の両親はすでにその時、静芳の家を去っていた。
救急車が駆けつけると同時に警察も一緒にやってきて、男を殺人未遂の現行犯で逮捕した。男の両親には警察が連絡をした。姉が救急車に乗り込み病院へ行き、父親は半狂乱になった母親を抱えながら自家用車で病院まで来た。緊急手術が始まり、三人はひたすら静芳の無事を祈りながら寒い手術室の外の廊下で待ち続けた…
喫茶室の中は秀樹と静芳の姉以外誰もいなかった。窓の外では強い風が吹いていて、病院の庭の木々を揺らしていた。
「これでわかっていただけましたか?あなたと静芳は、元々縁がなかったのです。もうこれ以上、あの子に関わらないでください。そして今日はこれでお引き取りください。」
そう言うと姉は席を立ってその場を去ろうとした。
「僕は静芳を愛してるんです」
秀樹は立ち上がるといった。
「彼女だって、僕との結婚を望んで、それでその男との結婚を断ったわけでしょう?僕らは一緒になるべきです!今すぐ、静芳に会わせてください!」
「これ以上関わらないでくださいと言ったはずです。それに、静芳ももうあなたには会わないと言っているのです。お引取りください」
「本当に静芳が僕にもう会わないと言っているのですか?あなたは彼女の口からそう聞いたのですか?」
しかし、静芳の姉は秀樹の言葉を無視して喫茶室を出ていった。
秀樹は一人取り残された喫茶室で呆然と立ち尽くした。
真相はわかった。しかしそれは決して秀樹にとって状況を好転させるものではなかった。このまま黙って引き下がるほうがいいのか。しかしそれでは納得できないことは明らかだった。一体どうすれば…
病室に行きたかった。静芳はもうすぐそこにいる。
しかし、秀樹はその日は病院を後にした。今病室に行っても家族から反対を受け、病院から締め出されかねない。それは得策ではない。それよりも、まだ休暇は三日ある。その間、ここに通ってなんとか静芳に会わせてもらおう。何度断られても、頭を下げてでも、静芳に会わせてもらおう。そうでなければ納得できない。そして何より、秀樹はただひたすら、静芳に会いたかった。
病院を去ってから、秀樹はホテルを予約していないことに気がついた。静芳に会うことだけをひたすら考えていたため、宿泊の手配をするのも忘れていた。
病院の近くにあったホテルにチェックインした秀樹は、翌日の朝も病院に行った。しかし、南病棟の受付は
「周静芳さんのご家族から、あなたが来ても決して通さないように、と言われていますから」
と事務的な口調で言い放った。
秀樹は何度も頼み込んでみたが、最後は
「あまりしつこいと、警察を呼びますよ」
といわれ、仕方なく引き返した。
そんなやりとりを、三日間繰り返した。
あるときは朝一で病院に行き、またあるときは午後、そして夜に行ってみたりもした。
時間帯によって受付の人員が違っていることもあったが、ついに秀樹は南病棟に入ることはできなかった。
正月休暇も最終日となった日の朝、秀樹は例の運転手に事情を説明し、なんとか中に入る手段はないかと相談してみた。しかし、運転手ももはやそれ以上は自分がどうにかできる次元ではない、と申し訳なさそうに言った。秀樹は、午後空港へ行くので病院近くのホテルまで迎えに来てください、と伝えた。
秀樹は仕方なく、上海に戻ることにした。明日から仕事が始まる。休むわけにはいかない。それに、これ以上ここにいても、もうどうにもできそうにないと思った。秀樹は受付に自分の名刺を置き、静芳の家族に渡してくださいと言い残して、病院を去った。
例の運転手が迎えに来て、秀樹はハルピン空港まで行った。車中、秀樹は静芳に会えなかった無念さと、これからどうしたらいいのかという途方に暮れた気持ちから、一言もしゃべらずただじっと窓の外を見つめていた。そんな秀樹を気遣ってか、おしゃべりな運転手も一言も秀樹に話しかけてこなかった。
空港に着くと、秀樹はそれでも笑顔を作って、改めて運転手にお礼を言った。
「いやいや。とんでもない。こちらこそ、私のタクシーを使っていただいて、お礼を言わなきゃいけないのは私のほうです」
そういいながら握手を求めてきた。
秀樹はそれに応じて手を差し出し、
「もしまたハルピンに来ることがあったら連絡しますよ」
といって別れた。
その日、ハルピン市内は雪が降っていた。




