第3章
静芳と知り合って十ヶ月が過ぎたころ、中国では正月を迎えようとしていた。
中国は正月を旧暦で過ごすため、新暦の元旦から一ヶ月ほど遅れて正月がやってくる。その年の暦は二月七日が大晦日で、二月八日が一月一日であった。秀樹は大晦日である二月七日から二月十四日までの一週間が正月休暇であった。
秀樹は中国に駐在して以来、日本でお正月を過ごしたことはない。中国では新暦の一月一日はその日だけ休みだが、一月二日からは通常のカレンダーなのだ。平日なら出勤しなければならない。そのため、日本に帰ってお正月を過ごすことができなかった。
その日は朝から雨が降っていた。八時前に仕事を終えると、秀樹は急いで会社を出てタクシーに乗った。
「延安西路と虹梅路の交差点までお願いします」
そう運転手に告げると、秀樹はタクシーの後部座席に深く腰を沈めて、タクシーがすぐに拾えてラッキーだったなと思った。上海では雨が降ると、途端にタクシーが拾えなくなる。空車がほとんどないのだ。帰宅ラッシュは過ぎたものの、夜の八時台はやはり空車のタクシーが少ない。秀樹を乗せたタクシーは、静芳との待ち合わせ場所である虹橋地区へ向けて走り出した。
秀樹の会社の事務所は徐家汇と呼ばれる上海市の中心から南に位置する繁華街の中にある。徐家汇のすぐそばには八万人が収容できると言われている上海体育館があり、中国国内のみならず、日本や欧米の有名なアーティストがコンサートを開く場所としても有名であった。徐家汇には大型デパートや高級ブランド店、映画館、電気街、レストランなどが所狭しと並んでおり、週末になると若者であふれ、車の量も急増する。事務所に近い場所に部屋を借りて住んでいる秀樹は、激しいクラクションの音で休日の朝もゆっくり寝ていられないことが悩みであった。
待ち合わせのレストランに着いた時にはすでに八時半を回っていた。静芳は先に来て待っていた。
「あぁ寒い。ごめんね。遅くなって」秀樹はコートを脱ぎながら言った。
「ううん。大丈夫」そういうと静芳は秀樹に早く座るよう手で示した。
「待つのは別にかまわないわ。でも、あなたの体が心配。毎日こんな時間にご飯を食べるような生活は、体に良くないわ」
「日本にいた時はもっと遅い時間に食べてたよ」
「もっと遅い時間って?」
「早くても九時過ぎとか」
「どうして日本人はそこまでして働くの?もっと人生を楽しまないの?」
「さぁ…どうしてだろうね」
そう言われると、確かに日本人はなぜこんなにもあくせく働くのだろう、と思えてくる。そしてそれは中国で仕事をして以来、秀樹がずっと思ってきたことのひとつだった。
「まぁとりあえず注文しようよ。お腹空いた」といってメニューに見入った。
静芳が最初にこの日本料理のレストランを指定してきた時、秀樹は彼女が日本人の自分に気を使っているのだと思った。しかし、そのうち静芳が本当に日本料理が好きなのだということを知った。彼女は多くの中国人が苦手とするサーモン以外の魚の刺身もよく食べたし、牛刺しまでも抵抗なく食べた。唯一食べれないのが、納豆だった。
上海の虹橋地区は日本人が多く住んでいることで有名な地域で、日系企業の事務所や日本料理のレストランが多い。またこの地区には虹橋空港と呼ばれる国内線メインの空港があり、どの航空会社もこの空港の近くに社員寮を構えている。客室乗務員である静芳も普段は虹橋空港近くの社員寮に住んでいた。そのため、平日、秀樹の仕事後に二人で食事をするときは、決まって虹橋地区のどこかであった。そして、そのほとんどが日本料理であった。
「お正月、実家に帰るわ」と静芳が切り出した。
「あ、正月の休暇取れたんだ?」
「うん。私は去年も仕事したのよ。今年は休みをもらえて当然だわ」
静芳は昨年、どうしても出てくれと上司から言われ、断りきれずに正月休みのフライトに乗ったのだという。
「正月期間はやっぱり忙しいの?」
「それはもう。国際線も国内線もね。帰省ラッシュと旅行ラッシュが重なるようなものね。もちろん、正月期間の勤務は給与が普段の倍になったりするけど、大事なのはやっぱりお金じゃなくて、家族で新年を一緒に過ごすことでしょう?だから、今年もいくつかのフライトへの依頼があったけど、全部断ったわ。」
そしてためらいがちに静芳は続けた。
「実家に帰ったときに、両親に、あなたと結婚を考えていることを打ち明けるつもりよ」
前にも一度いわれたことがあるのだが、なぜか秀樹は心の中で「ついに来た」と思った。
「へぇ。まだ言ってなかったんだ?」二人が付き合ってから、一年が過ぎようとしていた。
「付き合ってることはもちろん伝えてあるわよ」
「何か言ってた?」
「それが…」秀樹は大体想像がついたが、静芳の言葉を待つことにした。
「反対されたわ」やはり、と秀樹は思った。
「それは、おれが日本人だから?」
静芳は姿勢を正して、改まった口調で話し始めた。
「悪く思わないでね。お父さんとお母さんの年代は、仕方がないのよ。しかも私の故郷はハルピンよ。あなたも知ってるでしょ?東北地方の人は特に日本人に対する悪感情が強いのよ。私の両親に限らず、あの年代の人はみんなそうなの。でも、別にあなたのことを嫌いなわけじゃないわ。単純に、日本人って聞くだけで、やっぱり心のどこかに嫌な感情が湧いてきてしまうのよ。でも、私には自信があるわ。あなたのことをちゃんと理解すれば、両親はきっとあなたことを気に入る。でも、それには時間が必要だわ。それに…」
「それに?」
静芳は何か言いかけてやめた。
「ううん。何でもない。とにかく、私にはあまり時間がないの。今年のお正月は、なんとしてもあなたとの結婚を両親に話すわ」
「時間がない?そんなにあわてなくても大丈夫だよ」
「私には時間がないの。それに、付き合いでさえも反対されてるのよ。結婚なんてなったら、両親は自分たちの気持ちだけでなく、周囲からどんな風に言われるかと、すごく心配すると思うわ。だから、早めに伝えて心の準備をしてもらったほうがいいのよ」
「周囲?」秀樹は思わず聞き返した。
「周囲の反応なんて別に関係ないだろ?僕たちの結婚なんだから」
「あなたはわかってないのよ」
静芳の声が大きくなった。決して怒っているわけではないのだが、日本人からすると怒っているようにしか聞こえない、声を張り上げて話す中国人特有の話し方で彼女は続けた。
「両親にとって自分の娘の結婚は、メンツに関わることなのよ」
「メンツ?」秀樹はまた聞き返した。
「メンツがそんなに大事なのかい?本人同士が好きで、それで一緒になりたいと言っているなら、それを支持してあげることのほうが、メンツよりもよっぽど大切なことのように思うけど」
「じゃあなたは自分たちさえよければいいと思ってるの?」
「いや、そういうことじゃないんだ」
店員が料理を運んできたので、一旦会話を中断した。秀樹にとってはタイミングのいい中断だった。
「まぁとにかく、静芳が旧正月実家に帰って、両親に僕たちの結婚の話をして、その反応を見てからまた考えようよ」
「あ、話を逸らそうとしてる」
「そうじゃないよ。今ここで話し合っても仕方がないことだろ?それに、まだまだ僕らはお互いを理解する必要があるし、越えなきゃいけない壁もある」
「壁って?」
「まずは、君の両親だね」
「あなたの両親はどうなの?中国人と結婚するなんて、あなたの両親は反対するでしょう?」
「そんなことないよ。」
秀樹は静芳に自信をつけさせてやりたいと以前から思っていた。なぜだか知らないが、静芳はどこか、自分が中国人であるということを気にするところがあった。秀樹が日本人の友達に会わそうとした時も、曖昧な返事をして結局その機会を避けてきた。
「静芳は、自分が中国人だから、おれの両親が反対すると思ってるの?」
「うん。そうじゃないの?」
「そんなことないさ。うちの両親は別に中国人を嫌ってないよ。それに、おれに大学で中国語を勉強するよう勧めてくれたのは、他ならぬその両親なんだから」
それは事実だった。
高校時代、英語以外はまったく勉強しなかった秀樹を見て、両親は大学に行ったら語学を専攻してみたらどうかと勧めた。しかも、英語はどの学部でも必須科目だから、英語以外の外国語を勉強してみたらどうか。これからは中国が伸びる。中国語を勉強しておけば、将来必ず役に立つ。そう言っていたのだ。
「へぇ。あなたが中国語を勉強するようになったのは、両親のおかげだったのね」
静芳は少し安心したようだった。
「とりあえず君が両親に話をしてみて、その反応によって決めよう」
「あなたはどう過ごすの?」
「正月かい?おれは伊藤と杭州に旅行に行ってくるよ」
「へぇいいじゃない。どのくらい?」
「四泊五日。大晦日に杭州に到着する予定」
「そっか。」
秀樹は話題を変えた。
「冬のハルピンは寒いんだろうね」
「すごく寒いわよ」
「雪が降る、なんてもんじゃないのかな?」
「私の身長より高く積もるわ」
そういって静芳は自分の頭のはるか上を手で示した。
「おれはそんなところには住めないな。おれが生まれた日本の静岡は、雪はほとんど降らないんだ。生まれてから東京の大学に行くまで十八年間住んだけど、たったの二回しか雪が降らなかった。その二回も、積もらずにすぐに消えちゃうんだ。東京で一人暮らしを始めた一年目に初めて雪が積もるのをみたときは、それはそれはびっくりしたよ」
「私は二十年近く、ハルピンで雪と共に生きてきた」
そう言うと、静芳は笑いながら、運ばれてきた肉ジャガに見入って言った。
「ヒデと結婚したら、日本料理も作らなきゃね」
秀樹と静芳の会話は中国語なのだが、静芳は秀樹の名前を呼ぶ時だけ「ヒデ」と慣れない日本語発音で言う。
「上海なら日本食の調味料はそろうよ」
「ねぇ。いつも思うんだけど、上海にある日本料理屋さんの味は、日本の本場の味と一緒なの?」
「まぁ正直言って違うね。中国人向けにアレンジされてるからね」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「じゃ、私はどうやって本場の味の日本料理を作ればいいのかしら?この味は本場じゃないし、私は日本に行ったことはないし…」
真剣に考えている静芳を見て、秀樹はたまらなく愛しいと感じた。
翌日の夜、秀樹は伊藤勇樹を呼び出した。静芳は正月休みにハルピンに帰省するため、秀樹は親友である伊藤勇樹と共に正月休みを過ごすことにした。行き先は上海から電車で二時間ほどのところにある杭州に決めた。
伊藤勇樹は秀樹と同じ静岡の出身で、進学した東京の大学で知り合い、専攻した科目も、そしてクラスまでも一緒だった。そして今では勤める会社こそ違うものの、同じ上海で働いている。伊藤は秀樹が駐在して一年後、上海にやってきた。そんなことから、卒業以来途絶えていた連絡を再開し、二人して大好きな酒を飲みながら会社への不満や駐在員の苦悩、結婚、恋愛、将来などについていろいろ話すようになった。そしていつの間にか学生時代よりも更に仲が良くなり、今では秀樹にとって伊藤勇樹は何でも話せる、そして中国で生活し、仕事をすることの大変さを理解してもらえる、数少ない存在の一人だった。
二人はいつも利用する、上海に進出してきた日本の大手居酒屋チェーン店で食事をしながら話した。
「どうよ?仕事は?」
先に注文した生ビールを一気に半分まで飲んでから伊藤が聞いた。
「相変わらずいい飲みっぷりだな」
秀樹も負けじと一気に飲もうとしてみたが、今日は酔いたくなかったのでその手を止めた。
「その前に、何か頼もうぜ。話はその後だ」
秀樹は伊藤にもメニューを渡し、店員を呼んで注文した。
「さすがに日本の居酒屋チェーンだけあって、味は日本とほとんどかわらないよな、ここは」
秀樹が言うと、伊藤はうなずきながら
「上海で日本料理の本場の味が知りたきゃ、ここに来ればいいんだ。多くの中国人が、そこらへんにある日本料理屋の味を、日本の本場の味だと勘違いしてる。ここにきて食べてみたら、日本料理ってこんなにまずいのか、なんてことになったりするかもな」
と言った。
その言葉で、秀樹は今度、静芳をこの店に連れてこようと思った。伊藤にもまだ会わせていない。何度か誘ったのだが、その度に静芳は適当な理由をつけて断り続けたのであった。
「鍋を頼もうぜ。冬の寒い日に、冷たいビールに鍋料理。最高だね」
そう秀樹が言うと、
「いいねぇ。でも鶏鍋はやめてくれよな。おれは、あのぶつぶつした鳥肌を見ると、一気に食欲が失せちまうんだ」
そういってタバコに火をつけた。自分はタバコを吸わない秀樹は、テーブルの自分側に置いてあった灰皿を、伊藤の前に移動させた。
「じゃキムチ鍋にしよう。これなら豚肉だし。お前も前の韓国人の彼女を思い出していいんじゃないか?」
「やめてくれ。おれはもう韓国人の彼女も中国人の彼女もうんざりなんだ。彼女はやっぱり日本人に限る。日本人には、やっぱ日本人が一番合うよ。当たり前だけど」
「それは、今現在、中国人の彼女がいるおれに対するあてつけか?」
秀樹は笑いながら伊藤に言った。
「で、その後どうなの?静芳ちゃんとは?」
秀樹の言葉で会話を切り出すきっかけをつかんだとばかり、伊藤は質問した。秀樹は、静芳との付き合いについては何でも伊藤に話していた。
「今月末に、実家のハルピンに帰るんだってさ。それで、その時におれとの結婚について両親に話すって」
「そうか」
伊藤は目を細めて、うまそうに煙草を吸いながら言った。
「静芳ちゃん、まだ両親に話してなかったんだな」
「結婚についてはね。メンツがどうのこうのって言ってたよ」
「メンツ?日本人と結婚すると、メンツが潰れちまうっていうのか?」
「いや。そういうことではないらしい。でも、自分の娘がどんな相手と結婚するのか。そこにかける中国人のメンツに対する感覚は、日本人はちょっと想像できないな」
「そりゃまぁどこの親だって自分の子供にはいい条件の相手と結婚してほしいものなんだろうけどなぁ」
「それより、旧正月の旅行だけどさ。上海から杭州行きの電車のチケットはおれが往復で取っておくから、ホテルはお前が予約してくれないか?留学した場所だから、お前のほうが断然詳しいだろ」
秀樹は話題を変えた。伊藤は大学時代、杭州に一年留学していたのだった。
「おぅ。任しとけよ。同じ部屋でいいだろう?学生時代の旅行みたいに、羽目はずして楽しもうぜ」
秀樹と伊藤は、大学時代の卒業旅行で一緒に旅をしたのであった。
「杭州は何があるんだ?やっぱ西湖か?」
「あぁ。西湖ははずせないな。それはそれはきれいな湖だぜ。遊覧船も出てるから、それに乗って景色を楽しむのもいい」
杭州は上海の南に隣接する浙江省の省都で、西湖と呼ばれる美しい湖がある観光地である。古代より多くの詩人たちが西湖の美しさを称えてきたが、中でも宋代の詩人である蘇東坂が書き残した「天下西湖三十六,就中最好是杭州」(天下には西湖という名前の湖は三十六あるが、その中で最も美しいのは杭州である)という言葉が有名だ。
「静芳ちゃんはいつ、上海に戻って来るんだ?」と伊藤が聞いた。
「正月休みずっとハルピンにいるから、二月の二十日に戻ってくる」
「両親に話すってことは、早けりゃ今年もう結婚か?」
「う~ん。あんまり実感がないけどな。でも、そういう流れも十分にありえるだろうね。」
「そっかぁ。秀樹が結婚か。先を越されちまったな」
「まだ結婚してないよ。そういうお前はどうなんだよ。」
「おれはまったくだめだ。結婚どころか、彼女もできねぇ」
「でも、大学時代の剣道部の先輩、名前なんだっけ?あの人、まだお前のこと好きなんだろう?」
「あぁ智恵ね」
伊藤はわざとらしく、いかにも今思い出したというような表情で言った。
「あぁじゃないよ。智恵さんの気持ちにとっくに気付いてたんだろう?やり直すなんてことは考えないのか?」
「それはないな」
「別れてどれくらい経つんだっけ?」
「もう忘れたよ。そんな昔のことは」
そういって伊藤は生ビールを追加した。
「まぁいずれにしろ、旧正月は男二人のむさ苦しい旅だぜ。思いっきり楽しもうぜ」
そう秀樹がいうと、
「そうさ。飲まざ!飲まざ!」と伊藤は静岡弁で叫んだ。
正月休みの杭州は観光客でいっぱいかと思われたが、連休に入る前から降り続いていた雨が影響したのか、それほど混み合っていなかった。
秀樹と伊藤は大晦日の夜に杭州に入り、西湖のほとりにあるバーで年を越した。普段は夜が早い中国人も、この日ばかりは街のいたるところで正月の名物である爆竹を鳴らし、夜中の十二時を回っても賑やかだった。
二人が入ったバーもすごい熱狂ぶりだった。特にカウントダウンの時は知り合いかどうかなど関係なく、皆で抱き合ったり、乾杯したり、踊ったりとすごい盛り上がりで、二人とも年末の仕事疲れなどどこかに吹き飛んでしまい、一年に一度だけの特別な時間に酔いしれた。
「飲みすぎた…頭痛い」
翌朝、伊藤は目を覚ますと、かすれた声で秀樹に話しかけた。
「おれも…」
旧暦の一月一日、二人は正午近くになってから目を覚ました。ホテルはツインの部屋を取っていた。
秀樹はゆっくりと起きてシャワーを浴びた。伊藤は寝起きのたばこを吸っていた。
「腹減ったな。なんか食べようぜ」
そういって二人は外へ出た。
「それにしても、本当にどこもかしこも閉まってるな」
秀樹はつぶやいた。街へ繰り出してみたものの、昨日とは打って変わって街は静かだった。まるで嵐が去った後のように、街のいたるところに爆竹の燃えカスが散らばっていた。店という店は閉まり、空いているのはファーストフード店かコンビ二くらいで、そこにもほとんど客はいなかった。
「お前は中国で旧正月過ごすの、初めてか?」と伊藤が聞いた。
「あぁ。今まで、旧正月はずっと日本に帰ってたからな」
二人はたまたま通りかかった小さな食堂で食事をとることにした。
「静芳ちゃんに新年の挨拶をしなくてもいいのか?」
注文した後、伊藤がまた新しいタバコに火をつけていった。
「あぁそういえばメールが来てた。でも酔っ払ってて、完全に返信し忘れてた」
秀樹は携帯メールを見返してみた。
(杭州はどう?今年も二人にとっていい一年であるよう。あけましておめでとう)
という内容だった。秀樹は静芳に電話してみた。
「あけましておめでとう。静芳」
「私は昨日の夜メールしたのよ。今ごろ返信?」
静芳はわざとすねた態度で言った。
「ごめんごめん。完全に酔っ払ってたんだ。どうやってホテルに帰ったかも全然覚えてない」
「伊藤さんが一緒なんでしょ?」
「あいつはおれ以上に酔ってたよ」
秀樹は笑いながら言った。伊藤は黙ってタバコを吸っていた。
「どうだい?ハルピンは?」
「今日はお天気がよくて、雪は降ってないわ」
「もう話したのかい?結婚のこと、両親に?」
「ううん。まだ」
そっか、と秀樹は言った。確かにそんなに急いで話す必要もないな、と思った。なにせ正月休みは一週間あるのだ。
「気になる?」と静芳が聞いた。
「いや。そういうわけじゃないよ。ただ聞いてみただけ」
「少しは気にしてよね。こっちは話すのに結構勇気いるんだから」
静芳は不満そうに言った。
「あぁごめんごめん。そうだね。いつ話すつもりなの?」
「まだわからない。様子を見ながら、タイミングを見計らって話すわ」
「じゃ結果が出たら教えてよ」
そういって秀樹は電話を切った。ちょうど料理が運ばれてきた。二人はなかなか頭痛が止まらず、食事を終えるとすぐにホテルに戻ってぐったりしていた。
翌日も秀樹と伊藤は杭州で特に何をするでもなく、ゆっくりと過ごした。静芳からは何の連絡も無かった。秀樹は、静芳が結婚について親に話したら連絡が来るはずだと思い、自分からは電話しなかった。催促していると思われるのが嫌だった。あっという間に正月の三が日は過ぎていった。
そして、上海へ帰ろうとしていた旧暦の一月三日の夜、事件は起こった。




