第2章
携帯メールが鳴る。
「我刚落在虹桥机场。你呢?」(今、虹橋空港に落ちたとこ。あなたは?)
「落?你是从事航空行业的,干吗那么不吉祥?」(落ちる?航空業界に勤めてるのに、なんでそんな不吉な言い回しなの?)
秀樹の返信が新鮮だったのか、静芳は電話してくると笑いながら言った。
「なぜだかわからないけど、みんなそう言うの」
「業界用語だね」
「何時に仕事終わるの?」
「今日は七時にはあがれるよ」
「また残業?定時は六時じゃないの?」
「日本の会社では定時であがらず、残業するは普通だよ」
「残業代も出ないのに?」
「うん。残業代なんか請求したら会社から怒られちゃうよ」
「よくわからないわ。残業してるのに、残業代要求すると怒られるなんて」
秀樹は思わず苦笑した。しかし、こういう状況は日本人と付き合ったら生まれないなと考えると、新鮮でもあった。着陸することを「落ちる」と言ったり、残業代もなく残業するのが当たり前だったり。付き合い始めの頃はまるでお互いが未知の部分をたくさん隠し持っているような気がして、秀樹はとても楽しかった。
秀樹と周静芳は、日本人駐在員と中国人客室乗務員という異色なカップルだった。二人は飛行機の中で出会った。
その日、中国国内出張からの帰りで、飛行機で上海に戻っていた秀樹は、エコノミークラスの通路側の席に座っていた。すると、窓際の席に座っていた中年男が突然、サービスが悪いと客室乗務員のひとりをなじり始めた。怒られている客室乗務員も、秀樹ら他の乗客たちも、いったい男が何にそんなに腹を立てているのかまったくわからなかった。しかし、あまりにも男が怒っているため、秀樹は自分が関係のない第三者であるとは十分承知していながらも男をたしなめた。すると今度はその男の怒りの矛先が秀樹に向けられた。お前には関係ないことだ、とすごい剣幕で秀樹を怒鳴った。そのうち男性の客室乗務員がやってきて、これ以上騒ぐようだと空港に着いたときに航空警察に連行しなくてはならなくなる、話しは着陸後ちゃんと聞くから、とにかく今はおとなしく座ってくれ、そんな内容の話をして、やっとその男は静かになった。怒鳴られた客室乗務員はほとんど泣き出しそうな顔になっていた。
騒動がひと段落すると、秀樹は気分直しに機体最後部のトイレへ行った。自分が悪くなくても、他人から怒鳴られるのは気分のいいものではない。だが、二つあるトイレはどちらも人が入っていたので、秀樹は仕方なくドアの外で待っていた。
すると、客席と客室乗務員の待機場所とを隔てているカーテンが開き、一人の客室乗務員が顔をのぞかせて話しかけてきた。
「先ほどは、どうもありがとうございました」
「え?」
振り返ってみると、さっき泣き出しそうになっていた客室乗務員だった。
「あ、いえいえ。とんでもないです」
秀樹はあわてて返答した。そして、少しでも気を使わせまいと思い、
「あの男、きっとここがおかしいんですよ」
と声をひそめて、自分の頭を指さしながら言った。
その言い方に彼女はくすっと笑い、笑顔で言った。
「私も、一体なぜ怒られてるのかわからなくて。でもあなたが止めてくれたので、助かりました」
「いえいえ。大したことはしてませんよ」
秀樹は彼女の胸のあたりにかかっているネームプレートにそっと目をやった。周静芳と書かれていた。
「上海へはお仕事ですか?」
「いえ。出張の帰りです。僕は上海に住んでいるんです」
「そうなんですか」
やがて片方のトイレのドアが開き、一つが空いた。ここで話が終わってしまうのはなんだかとても中途半端で気まずいと思い、秀樹はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚彼女に渡した。
「簡単にいえば、環境系の仕事です。僕は営業担当なんで、出張が多くて」
名刺に見入っていた彼女は目を丸くしながら言った。
「雨宮秀樹…中国人じゃないんですか?」
「あ、はい。日本人です」
「えぇ!?私、中国人かと思ってました。だって、さっきも中国語で止めに入ってくれたから…」
「あ、あぁ。まぁ少しだけ中国語が話せるんです。留学経験があるので…」
「すごい。中国語、お上手なんですね」
秀樹はそろそろトイレに入らないと不自然だろうと思い、話を切り上げることにした。
「いえいえ。少しだけです。あ、お仕事の邪魔しちゃって、すいませんでした」
「いえ。こちらから話しかけたんですから」
そういうと、彼女も話を切り上げ、「それでは」と言ってカーテンを閉めた。
出張から戻った翌日、秀樹が出勤すると、上海支社長の竹中雅彦は秀樹に北京での接待を命じた。
「雨宮。悪いが来週、北京で中国環境保護協会の徐会長と一席設けてきてくれ」
「来週ですか?なにかあるんですか?」
「今年の展示会なんだが、去年よりもブースを拡大するようにと昨日、本社から言われてな」
「そんな。このタイミングで言われても、もう大きいブースの出展先は決まっちゃってますよ」
「だから、お前に北京に行ってもらうんだ。大きいブースがなければ、小さいところを組み合わせてもいい。とにかく、徐会長にお願いしてきてくれ。店は、いつものとこを取っておいた」
展示会とは毎年上海で開催されている、国際環境保護製品展示会のことだ。秀樹の会社も毎年出展していた。
中国に勤務するようになり接待の数が激増した。中国語が話せるということもあり、通訳を介さず直接コミュニケーションができる秀樹は会社にとっても接待要員として好都合なのだった。
支社長の竹中が言ったいつもの店とは、北京ダックの老舗「全聚徳」のことだ。秀樹は竹中に言われたとおり、予約を取り、翌週、当日の昼に上海から飛行機で北京入りし、夜、夕食を兼ねた接待を行った。
全聚徳は一八六四年、清王朝の時代から続く北京ダックの老舗で、楊寿山という人物によって開店したのが始まりとされている。中国では「不到長城非好漢,不吃烤鴨真遺憾(万里の長城を見ずしては男に非ず、北京ダックを食さずは遺憾の極み)」とまで言われており、北京にきたら万里の長城と同じくらい行かなければ損だ、といわれる名店である。かの周恩来も全聚徳のフルコースである「全鴨席」で賓客をもてなしていたというくらい由緒ある店だった。
中国環境保護協会会長である徐は若くて中国語が話せる秀樹をとても気に入っていた。この日も、北京出身の徐は上機嫌で秀樹に全聚徳について語った。
「全聚徳のダックは、焼き方が特徴的なんです。かまどの中にダックを吊るして焼く方法です。今でこそ、その焼き方は一般的になっていますが、その昔、この焼き方は門外不出で全聚徳だけの焼き方だったんです」
「へぇ。門外不出のその焼き方が、どうして広まったんですか?」
秀樹の質問に、わが意を得たりとばかり、徐は答えた。
「一九三三年の端午の節句のとき、一人のドイツ人女性写真家が、全聚徳で北京ダックを食べて、そのおいしさにいたく感動したそうです。そして感動のあまり、当時のオーナーにどうやって焼いているのか、見せてほしいとお願いしたというんです。元来、門外不出の焼き方なので、代々のオーナーは誰にも焼き場を見せたことがなかったのですが、その日は客の入りがよく売り上げも多くて、なおかつ外国人からのたってのお願いということで、特別にそのドイツ人女性に焼き場を見せたと言うんですね。ドイツ人女性はそこで、一人のコックが、一匹の鴨を棒の先から吊るして、かまどの中でまんべんなく火が回るように丁寧に焼いているのを見たんです。そこにはなんともいえないいい匂いが漂っていて、思わずうっとり見入ってしまったが、そろそろ戻りましょうと促されて我に返り、慌てて手にしていたカメラで写真を一枚撮ったそうです。どこからどう流れたのかはわかりませんが、それ以来、北京市内に同様の方法でダックを焼く店が誕生したそうで、それが全国に広まり、今では一般的な焼き方になっています。その時の写真が、このレストランの中にも飾ってありますよ」
徐はまるで自分の店のことのように秀樹に話した。秀樹にはそれがとても微笑ましかった。「ではお手数ですが、展示会のブースの件、よろしくお願いしますね」
そういって秀樹は徐と別れた。
全聚徳での接待が意外に早く終わり、九時前にはホテルに戻ってきた秀樹は空腹を感じてひとり外へ出た。いつものことだが、接待という名のもとに食べる食事はなんだか食べた気がしなくて、すぐにお腹がすいてしまう。
表通りをぶらぶら歩きながら店を探していると、「串」という文字が見えた。串焼きを食べさせる店だ。
店の中へ入ると秀樹はビールと何種類かの串焼きを注文し、翌日のスケジュールを頭の中で想定していた。
そのとき、携帯メールが鳴った。
「你在上海吗?你的中文真的很好啊!」(今上海にいますか?あなたの中国語は本当にお上手ですね!)
登録していない送信者からのメールだったため、秀樹は最初、いたずらメールかと考えた。しかし、相手は秀樹が外国人で、中国語を話せることを知っているような話し方だ。どうやら、自分のことを知っている人物ではあるらしい。しかし、思い当たる節がない。
そこで、秀樹は誰からのメールなのか、知っている振りをして返信してみた。
「没那么好。我今天在北京。你怎么知道我的手机号?」(そんなに上手ではありません。私は今日、北京にいます。あなたはどうして私の携帯番号を知っているのですか?)
すぐに返信が来た。
「因为你给了我你的名片。你的名字叫雨宮秀樹,对不对?」(あなたが私に、名刺をくれたからですよ。雨宮秀樹さん、ですよね?)
それで秀樹はやっと気づいて、すぐに電話をかけた。
「この前、飛行機で会った客室乗務員の?」
「そうです!覚えていてくれたんですね」
「もちろんですよ。あんな出来事があったんですからね」
秀樹は飛行機の中で中年男が突然怒り出した場面を思い出しながら言った。
「あの…失礼ですが、私はまだあなたの名前を知りません。名前を教えていただけますか?」
「はい。周静芳といいます。」
ふたりはありきたりな会話を交わした後、近いうちに上海で会うことを約束して電話を切った。秀樹は飛行機で出会った周静芳の容姿を思い出してみた。
客室乗務員だけあって背は高かったが、顔はかなりの童顔で、年齢は想像がつかなかった。日本人から見ると、中国人の容姿は全体的に実年齢よりも若く映る。だから、周静芳というあの子も見た目は幼く見えるが、実際は二十五歳前後だろう、と秀樹は思った。
秀樹と周静芳が上海で会ったのは電話で話してから一週間後のことだった。
一緒に食事をしようということになり、秀樹は何度か会社の接待で使用した「唐宮」という広東料理のレストランを予約した。高級感あふれる内装がとてもおしゃれで、料理はあっさりした味付けで日本人の口にもよく合い、その上値段もそれほど高くないのが特徴だった。
「あの時は本当にびっくりしました」
秀樹は、周静芳が飛行機で乗客から理由もなく怒鳴られた、あのことを言っているのだろうと思い、
「そうですね。あのおじさん。何がそんなに気に食わなかったんでしょうかね」
「いえ。そのことじゃないんです」
「え?」
「まぁそれもびっくりしましたけど、私が言ってるのは、あなたが私に名刺をくれたとき」
「あぁ」
秀樹はその場面を思い浮かべてみた。
「まさかあなたが日本人だなんて」
「あぁそっちですか。いえいえ。中国に留学したから、少しだけ話せるんですよ」
「留学はどちらに?」
「湖北省の武漢です」
「武漢?どうしてまた武漢なんですか?普通留学って北京とか上海とか…」
秀樹は苦笑した。これも中国人からよく言われることで、これまでに何回も聞かれたからだ。
「僕が通っていた日本の大学と武漢大学との間に交換留学制度がありまして。それで」
「あぁ。そうなんですね」
周静芳にとって秀樹はとても珍しい存在であったようで、次々に質問してきた。
「日本でも中国語を勉強していたんですか?」
「はい。大学の専攻が中国語でした」
「通りで中国語がうまいわけですね」
「いえいえ。まだまだです」
秀樹は自分も質問したかったが、周静芳はその隙すら与えないほど次々に質問して来た。
「日本の故郷はどこですか?」
「静岡ってところです。知ってます?」
「静岡…すいません。知りません」
恥ずかしそうに周静芳は言った。
「富士山は聞いたことあるでしょう?」
「あります!」
「富士山があるところです」
「へぇ!じゃとてもいいところなんですね」
秀樹は思わず微笑んだ。
「どうして笑ってるんですか?」
「あ、いや。別に。何でもありません」
「何かおかしかったですか?」
「いえいえ。そんなことありませんよ。ただ、かわいらしいなと思って」
「かわいらしい?私が、ですか?」
周静芳はキョトンとした顔をしていた。そこにはわざとらしさは一切なかった。そして顔を赤くしながら、
「そんなことありません!」と強い口調で言った。秀樹は思わず、
「あ、すいませんでした」と謝った。
「別に謝ることはないですよ」と周静芳が言う。
会話が噛み合っているような、いないような、そんな空気が秀樹をより楽しくさせた。
「あの…こんなこと聞いていいかどうかわからないんですが…」
遠慮がちに周静芳は言った。
「なんでしょう?僕には聞いてはいけないことなんて、ありませんよ」
「おいくつですか?」
なんだそんなことか、と秀樹は思い、また微笑した。
「二十八です」
周静芳はまだ何か聞きたそうだった。
「何でも聞いてください。僕は特にこれといった特徴があるわけじゃありませんから、何も出てこないですけど」
「結婚はされていますか?」
この質問は秀樹には意外だった。
「いいえ」
「じゃ、日本に彼女がいるとか…?」
そうか、そういうことか、と秀樹は思った。悪い流れではない。
「いえ。結婚もしてなければ、彼女もいませんよ。」
「嘘つき」
周静芳はまじめな顔で言った。
「えっ?」
「嘘ついてるでしょ」
「そんなことないですよ」
「あなたみたいに中国語もぺらぺらで、出張で全国各地飛び回ってて、いかにもビジネスマンって感じの人なら、絶対女の子にもてるはずだわ」
「いやいや。僕は全然もてません。そんなにばりばりのビジネスマンでもないですから」
「ふ~ん」
周静芳は覗き込むように秀樹を見ると言った。
「今後も私と連絡とって、食事したりしてくれますか?」
「もちろん」秀樹は言った。
その日以来、秀樹は周静芳と頻繁に連絡を取るようになった。
二人が付き合って半年ほどがたったある日、秀樹は支社長の竹中に食事に誘われた。二人が食事をするときはたいてい焼肉と決まっていた。普段はあまり焼肉を食べない竹中だが、自分が食べたくなったときは必ず秀樹を誘う。秀樹が若くてたくさん食べるから誘いがいがあるらしかった。
「雨宮は彼女はいるのか?」
焼肉を食べながら、竹中が訊いてきた。プライベートに関する質問はほとんどしてこないので、珍しいなと思った。
「はい。」
「ほぉ。日本にか?」
「いえ。上海にいます」
「上海?中国人か?」
「はい。上海人ではありませんが。」
「そうか」竹中は生ビールを飲んでから更に質問を続けた。
「お前は中国語ができるもんな。いつからだ?」
「半年くらい前からですね」
「じゃまだ最近か。何をしてる子なんだ?」
「客室乗務員です」
「客室乗務員?ってことは…」
「まぁ、つまりスチュワーデスですね」
「ほぉ」竹中は意外といった表情で秀樹を見つめた。
「じゃ相当きれいなんだろうな」
「いえいえ。普通ですよ」
「普通じゃスチュワーデスになれないだろう」
「まぁそうですけど」
秀樹は誰かに自分の彼女の職業を聞かれると、少し自慢気に思ってしまう。それは付き合って半年たった今でもあまり変わらない。
「いくつなんだ?彼女は」
「二十六歳です」
「お前はいくつだった?」
「二十八です」
秀樹は到底二十六歳には見えない、静芳の幼い顔を思い出しながら答えた。
「そうか。お前はその中国人の子と、結婚を考えているのか?」
秀樹は少し考えてから、
「そうですね。ただ、いつになるかはまったくわかりませんが」と言った。
秀樹は静芳との結婚を考えてはいたが、課題が多いことも知っていた。今後ずっと自分が中国にいるとは限らない。将来的に辞令が出て日本に戻る可能性は十分にある。それがいつなのかはまったく予想がつかないが、もしそうなったとき、果たして静芳は日本での生活をやっていけるだろうか。なぜなら静芳は日本語が話せないし、日本に行ったこともない。静芳が日本に住むと言ったら、彼女の家族はなんと言うだろう。つまり、未来像が描きにくい状況なのだ。
だが、静芳が真剣に結婚を考えていることを秀樹は知っていた。以前、一度だけ具体的に話したことがあった。静芳はあくまで二人が上海にいるということを前提に、もしも自分たちが結婚したら、ということを秀樹に話したのだった。最初は結婚の話をしているだけで楽しいのだろうな、くらいにしか思っていなかったが、静芳が本気であることをあるとき秀樹は知った。その日、静芳は来年の正月、実家に帰ったときに両親に秀樹との結婚の話をしたいが、問題ないかと秀樹に訊いてきたのだった。別に断る理由もなかったし、まだ少し先のことだと思っていた秀樹は、別にかまわないよ、とだけ静芳に伝えたのだった。




