紙月炎上、雪蝶の羽化
深夜の講堂。かつて〈雪月蝶〉の儀式を彩った白銀の舞台は、今や漆黒の闇に包まれ、観客席さえ揺らめく霧に浮かんでいる。紙月アーチは炎で燃え落ちた後に再生し、裂け目だけが赤熱を帯びて震える──まるで「終わり」を予告するかのように。
光火と光水は、雪・月・蝶の三片を胸に抱え、刻一刻と迫る臨界点へと歩みを進める。血と氷が軋む分度器となり、彼女たちの「呼吸」でのみ閉じられる最後の〈穴〉。半年前の炎と銀粉が残した残響が、今ここに完結へのカウントダウンを響かせる。
奈落から戻った私たちを迎えた講堂は、もはや“舞台”ではなかった。
観客席の木肘掛けは空気の脈動に合わせて微かに浮き、数百脚の影が海面のブイのように揺れている。天井のトラスから垂れたワイヤーが銀糸へ変質し、月光でも舞台灯でもない白痕を放っていた。
紙月アーチ――半年前に燃え落ちたはずの白い輪郭――はほとんど透過率ゼロの漆黒へ反転し、裂け目だけが内側から赤熱を帯びる。呼吸のたびに黒い火花が漏れ、床板を煤で染めていた。
私は胸元の紙片三枚〈雪〉〈月〉〈蝶〉を広げる。順列は確定している。それを閉じる最後の“穴”は、喉奥に息として眠る。
一方、光水は結晶を失ったリボンの棘を両掌に抱え、赤瓦の粉のように崩れかけた跡を慈しむように撫でていた――あれは七夕の夜から私たちを導き続けた鍵。
「リハの失敗で残響が回り込んだせいで、紙月はもう自壊寸前。タイミングを間違えれば私たちまで燃えるわ」
声が震え、しかし瞳には凛とした覚悟の光がある。
私は深呼吸し、紙月の前へ進む。
――第一片〈雪〉。
紙の裏に残った銀糸が私の指へ絡み、氷の脈拍が伝わる。裂け目の左端へ差し込むと、ホール全体が数ミリ沈み、椅子の浮揚が止まった。舞台袖で埃の雪が降る。
――第二片〈月〉。
紙の表層へ月面のクレーターのような模様が浮き、指先を引くたびに血が吸われる。裂け目中央へ差し込んだ瞬間、天井の銀糸が撥条のように撓み、高光度の白焔を撒いた。
――第三片〈蝶〉。
最も軽いはずの一片が鉛の重みで掌に沈む。蝶影の脈打ちが私の骨を震わせ、挿し込むと同時にアーチ全体が赤黒い脈管を露わにした。
残る“穴”――声帯が震え上がるほど冷えた呼気。
私は半年分の痛みと空虚を肺からすくい上げ、一気に吐き出した。
「欠片を閉じる――ここに呼吸を還す!」
声が紙月へぶつかり、“穴”の形をした空洞が瞬時に成形された。そこから内圧の高い闇が吹き返し、床を裂く。裂け目に埋まった三枚の紙片が一拍ごとに赤炭化し、やがて純白の炎に転じた。
炎は熱を持たず、影だけを焼く火。観客席に積もっていた擬似雪が逆重力で舞台へ吸いあがり、白い火柱の外套になった。
光水が手を伸ばす。
「影が……彼が還っていく」
火柱の内部で、〈僕〉の残響が蝶の群れに分解され、銀粉になって爆ぜ散った。残像は空気の湿り気ひとつ残さず溶け、私の背にぬるい空洞を残すだけ。だが痛みはなかった――呼気と共に埋めた“穴”が疼きを吸収し、再生の準備を始めているのだと分かった。
炎が収束すると同時に、アーチの表層がパラリと剥がれ落ちた。焦げ跡は不思議な光沢を帯び、縁には極細のインクでたった一行が残る。
> 「雪月蝶 Fin」
紙片の残骸が舞台へ降り積もり、床は新雪より柔らかな灰で覆われた。
私は膝へ手を突き、息を整える。
――終わった。終幕は閉じた。それでも胸骨の内側にわずかな脈動が残り、まるで新芽が固い地表をこじ開ける前の痺れのようだった。
光水が私を引き起こす。
「次は昼の舞台で、あなた自身の脚本を」
私は頷き、燃え残った灰をそっと掬う。白かった粉は指の温度で淡藤色へ変わり、掌で蝶の翅脈を描く。
堂内の炎光が完全に消えると、窓ガラスの向こうに夜明け前の群青が滲んだ。半年前と同じ時間帯、けれど空気はもう凍てついてはいない。
私たちが講堂を出ると、二重扉は音もなく閉じ、蝶番の霜が一音だけ澄んだ鈴を鳴らした。その響きがフィナーレの拍手に聞こえ、私はゆっくり目を閉じる。
闇の舞台は燃え尽きた。――けれど私の物語は、今ようやく白い頁を得たばかりだ。
「雪月蝶 Fin」──舞台に降り積もった灰は、新雪よりも柔らかく、物語の終幕をやさしく包み込みました。血と氷の儀式が紡いだのは、閉じることで生まれた再生の予感。呼気で埋められた〈穴〉は疼きを鎮め、胸骨の奥で新たな鼓動を刻み始めています。
次なる朝、光火は自分自身の脚本を書き下ろすべく、白い頁を前に新しい一歩を踏み出します。闇の舞台が燃え尽きることで初めて得られた〈頁〉に、どんな言葉を刻むのか──彼女の物語は今、真の幕開けを迎えたばかりです。