理科準備室の秘密と月の標本
想い出の痕跡を辿るために夜の学校へ忍び込む――そんな行為を重ねるうち、主人公は新たな光月の足跡を求めて彷徨う日常を送り始める。
そこで手渡された「理科準備室の整理」という平凡な雑用が、偶然か必然か、大きなきっかけへと変わっていく。
冬なのに見かける蝶の存在や、月食のポスター、そして古びたファイルの中に隠された光月の名。
ごく普通の学園風景の裏側で、月と蝶と雪が交わる不思議な謎がほどけ始める。
主人公が本当は何を探しているのか――光月の書き残した言葉とともに、静かな夜の校庭へと想いが導かれていく。
翌日、担任の先生から呼び出しを受けた。理由は「理科準備室の整理を手伝ってほしい」というものらしい。理科の先生が人手不足で困っているとのことで、僕は放課後の時間を使って作業をすることになった。
少し面倒だと思いつつも、「学校に残るきっかけになるかもしれない」と妙な期待が頭を過る。あの準備室には、以前から気になることがあった。冬だというのに見かける蝶について、何か資料があるのではないか――そんな思いもある。
放課後、指示を受けて理科準備室へ向かうと、先生が慌ただしく試薬や器具を段ボールに仕分けしていた。
「ああ、来てくれたのね。助かるよ」
先生はちらりとこちらを見ると、すぐに作業に戻る。どうやら時間に追われている様子だ。僕は簡単な説明を受けて、薬品棚の整理を任される。
薄暗い準備室の奥には、古い書類の箱や瓶詰めの標本、生物の骨格模型などが無造作に置かれている。壁際には天体観測の写真や月食のポスターが貼ってあり、かつて天文部が使っていたような道具も見えた。
(光月が天文部だったかどうかは覚えていないけど……月が好きだったのは事実だ)
そう思いながら、棚の一番下にあるファイルを手に取ると、「月の位相観測記録」と書かれた資料が出てきた。ページをめくると、数年前の観測データが細かく記されている。その合間には、誰かのメモが挟まっていた。
> 「冬の夜に舞う蝶は、月に宿る魂の断片――
> 雪とともに地上に降りるとき、何を導くのか」
読んだ瞬間、胸が高鳴る。まるで今の僕が目撃している“冬の蝶”について示唆しているようではないか。書いたのは誰なのか、文字だけでは判別できないが、女性らしい繊細な筆跡だ。光月の字に似ている気もする。
その時、先生がこちらに声をかけた。
「そこにある天体観測の資料はもう古くてね。必要ないものは処分しようと思ってるんだ。残すなら、重要な部分だけ抜粋してくれないかな」
「わかりました」
返事をしてから、もう一度資料に視線を戻す。――処分されるくらいなら、僕が持っていてもいいかもしれない。
作業を進めるうちに、さらに奥の棚で「月と蝶の標本」と題されたファイルを見つけた。開いてみると、そこには“月光蝶”や“白夜の蛾”といった異名を持つ昆虫の写真が並んでいる。実在するかどうか定かでない種も含まれているようだ。
(もしかして、これが僕の見た蝶の正体……?)
ページをめくるたび、心臓がどきどきと音を立てる。古いモノクロ写真には月明かりの下、雪原を飛ぶ蝶の姿が写し出されているようにも見える。まるで幻想の生き物みたいだ。
「こんなところにあったのか……」
呟いた瞬間、棚の上から埃混じりの紙束がばさりと落ちてきた。慌てて手で受け止めるが、中身は散乱して床に広がる。先生が「大丈夫?」と声をかけてくるが、僕は「あ、平気です」とだけ応じて書類を拾い集める。
すると、その中に一枚、光月の名前がちらりと見えた。急いでそれを確保し、ポケットにしまう。先生には見せたくない、そんな直感が働いた。
「これで大方の分別は終わったかな。ごめんね、手間かけさせて」
作業を終えた先生が帰る支度を始める。僕も途中まで片づけを手伝いながら、先ほどの資料が気になって仕方がない。
先生が先に退出したあと、こっそり準備室に戻り、ポケットの紙を広げてみる。そこには、光月が書いたらしい走り書きがあった。
> 「月の標本――幻の蝶を探したい。
> 雪の日の夜、きっと会えるはず」
やっぱり、彼女もあの蝶を探していたんだ。いや、もしかすると実際に見つけていたのかもしれない。そこにはワクワクした筆圧と、どこか不安定な感情が入り混じった跡が見て取れる。
(光月は、僕の知らないところで何を探していたんだろう……)
不意に切ない思いが込み上げる。もし彼女が今も生きていたら、一緒にこの資料を読んで、夜の校庭に蝶を探しに行って、月を見上げて語り合えたのかもしれない。
準備室の窓から見える外の景色は、もう薄暗くなっている。校庭の雪が淡いシルエットを描き、月が昇り始めていた。たとえこれが無謀だとしても、探さずにはいられない――光月が見たかった“月に舞う蝶”。僕はそれを見つけることで、彼女に近づけるような気がしてならない。
散らばった書類の中から光月の名を見つけるその瞬間、主人公は、彼女がかつて追いかけていた夢や期待に手を触れるかのような感覚を味わう。
「月に舞う蝶」という幻想じみた生き物に、光月はどんな気持ちを託していたのだろう。
たとえ形のない幻であろうと、手がかりを握った以上は引き返せない――そう決意するように、主人公は夜の校庭を思い浮かべる。
今もそこに生き続ける彼女の痕跡に近づきたくて、過去と現在の境界線を越えてでも探したいと思う。
月が昇りはじめた黄昏の空の下、冬の蝶が舞うなら、それは光月を求める彼の切実な願いに呼応するかのように、次の扉を開いてしまうのかもしれない。