表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月蝶ノ夜想-雪に溶ける愛の残響-  作者: NOVENG MUSiQ
【第0章】 紙月幻奏 ― 雪月蝶・開幕前夜
41/60

鏡廊と紙月のアーチ

 月のない新月の晩、光と影の境目はふだんより曖昧になる。そこに映る“鏡”は過去か、未来か、それとも呼び寄せられた異界か──。本篇で光月と朔夜先輩が足を踏み入れる理科準備室と講堂は、まさにそんな境目に口を開く舞台装置。鏡の回廊に現れた第三の影、〈開幕まで凍結〉と封蝋された蝶の標本、そして紙で組まれた巨大な月のアーチ。すべての小道具が「物語はまだ始まっていない」と告げながら、同時に「今こそ幕が上がる」と囁く。

 理科準備室へ向かう渡り廊下は、夜間点灯の蛍光灯が一本おきに切られている。私と先輩の影が長く伸び、左右の窓ガラスに映り込んでいた。

 だが今夜の窓は妙だった。外の闇を透かすはずのガラスは黒々と反射し、まるで鏡の回廊だ。ガラス面に映る私の影の背後に、微かに遅れて歩く第三の影が重なる。

 「光月……?」朔夜先輩が囁き、私も息を飲む。影は私の肩越しに手を伸ばし、指先がガラスの内側から外へ滲むように波立った。

 風が走り、窓ガラス全体が水面のように揺れ、影は溶けて霧散した。冷気が足首を撫で、廊下の蛍光灯が一斉に瞬く。私の視界は一瞬だけ雪で白く覆われ、次の瞬間には何もなかったかのような静けさ。

 鍵は確かに手の中にある。先輩と顔を見合わせ、理科準備室の扉を押した。

 青白い非常灯が一本だけ灯る室内。戸棚の南京錠に鍵を差し込むと、まるで待ち構えていたかのように軽い音で開いた。

 中には昨夜見た銀青色の蝶の標本箱が整列していた。ただ一つ、蓋に封蝋が施された箱だけが中央に鎮座し、紐に紙札――〈開幕まで凍結〉――が括られている。

 蝋を割る音が耳の奥へ響く。箱の中には、羽を寄せ合って眠るように並ぶ銀色の蝶、そして中央に白木のオルゴール。その下に薄紙で包まれた分厚い原稿。

 先輩が手袋越しにオルゴールのネジを巻くと、昼に聴いた旋律が狂ったテンポで奏でられた。高音が伸び、低音はかすかに逆回転する。

 私は原稿を開く。表紙に『雪月蝶――第三稿 朗読者:光月』。自分が一度も書かなかったはずの稿。めくる指先が震える。

 第一幕と第二幕は丁寧に清書され、第三幕以降のページは白紙。その余白に鉛筆で大きく「新月に蝶は羽化し、月なき空へ飛翔」と書き殴られている。

 その瞬間、オルゴールが勝手に速度を上げ、箱の中の蝶標本が針を残したまま翅を開閉した。鱗粉は月光のように発光し、室内へ淡い銀霧を生む。

 私は箱を閉じようとしたが、朔夜先輩が肩を掴んだ。「ここは通過点だ。劇は講堂で完結する。急ごう」

 戸棚を閉じて廊下に戻ると、窓ガラスに張っていた氷膜が粉々に割れた。外気が闖入し、紙のように薄い雪が渦を巻く。雪片は蝶の形になり、私たちの進む先――講堂への扉を照らしていた。


 講堂へ入ると、異様な光景が広がっていた。ステージには高さ三メートルほどの紙細工のアーチ。旧掲示板のポスター、廊下に落ちていた紙片、演劇部の台本――あらゆる“紙”が蝶の翅脈を模して継ぎ合わされ、中央に丸く切り抜いた円。

 その円の奥には夜空が覗いているのに、星も月もないはずの闇が淡く明るい。それは紙の裏側から光源が当たっているかのようだった。

 私たちが近づくと、舞台袖の暗がりで椅子が軋んだ。懐中電灯を向けると、白衣の少女――私と瓜二つの横顔がふっと現れ、すぐに影へ溶けた。

 代わりに椅子へ置かれていたのは、一冊の薄い楽譜。表紙に『紙月変奏曲』。中身はぐしゃぐしゃの音符で埋め尽くされ、終止線が途中で折れている。

 紙月の奥から無音の風が吹き、アーチの蝶模様が光った。私は悟る。この楽譜と第三稿の脚本、そして標本室で覚醒した蝶。その三点が揃わなければ紙月は満ちない。

 朔夜先輩が静かに言う。「あと二幕で開幕が完成する。急げば夜明け前に間に合う」

 私は原稿と楽譜を胸に抱え、紙月の冷たい光に向き直った。背後で講堂の扉が音もなく閉じ、木霊のようなピアノ音が足元を這った。

 紙月アーチの向こうに覗く“星も月もない夜空”は、光月の内側にぽっかり空いた未知への孔。その孔を満たすために必要なのは、第三稿の白紙・楽譜の乱れた音符・月光で輝く蝶── 三つの欠片がそろう「あと二幕」。けれど欠片が揃うほど、彼女の “知らなかった自分” も舞台袖に実体を帯びはじめます。鏡の回廊を歩いたもう一つの影は、はたして彼女が置き忘れた過去なのか、それとも書き換えられる未来なのか。

 夜明け前に開幕を迎えられるのか、それとも夜明けそのものが新たな闇を呼ぶのか。次章では、紙月が満ちる最後の瞬間と、舞台が求める“主役”の正体が浮かび上がります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ