放課後の静寂と廊下の蝶
夕焼けから夜へと移り変わる冬の放課後は、時間の流れがやけに早い。
同じ教室に残る人影が少なくなると、主人公はふと旧校舎へ足を向ける。そこには、かつて「光月」とともに見た雪景色や秘密の思い出が滲むように残されている。
どうして彼女の影を追わずにはいられないのか――答えの見えないまま、夕闇に包まれる学校は、やがて蝶の形をした儚い幻を呼び寄せる。
日常の喧騒から一歩距離を置けば、静寂は思いもよらぬ切なさと、わずかな期待をもたらすのかもしれない。
冬の午後は、あっという間に陽が傾く。
授業のチャイムが鳴り終わり、クラスメイトたちが一斉に立ち上がるなか、僕は自分の席に座ったまま、窓の外に目を向けていた。刻々と赤みを増していく空。遠くで、グラウンドの声が微かに響いている。
いつもなら、友人に誘われて一緒に帰るか、部活がある日は体育館やグラウンドへ行くか……そんな平凡な放課後を過ごしていただろう。
でも今は、まるで別人になったように学校に長居する癖がついてしまった。光月がいなくなってから、僕はここにいると少しだけ彼女に近づける気がしている――そんな錯覚を抱いているから。
「ねえ、大丈夫?」
不意に声をかけられ、振り向くとクラスメイトの女子が心配そうな目を向けていた。
「あ……うん。平気だよ」
ぎこちなく笑ってみせる。彼女は何か言いたげだったが、結局それ以上は問い詰めずに去っていった。たぶん、僕が光月のことを引きずっているのを察してるんだろう。でも、深入りされるのは怖い。
人の波が引いたあとの教室。椅子と机が無造作に残され、冬の冷たい風が窓の隙間から入り込み、床を伝っていく。ここから見える校庭は、赤から紫へ、そして夜の青へと一瞬で染まっていきそうだ。
「……また、行ってみようか」
呟いて立ち上がる。向かう先はもちろん旧校舎だ。最近は夜の学校に通う“習慣”がすっかり身についてしまった。でも、今日はそこまで遅くならないうちに様子を見に行こうと思う。
廊下に出ると、人の気配はほとんどない。部活動で残っている生徒たちの笑い声が遠く聞こえるくらいで、こちらの廊下は閑散としていた。窓から差し込む夕陽が、床に長い影を落としている。
渡り廊下を抜け、旧校舎のほうへ入る。一歩足を踏み入れた瞬間から、空気が変わるのを感じる。ここだけ別世界みたいに静まり返っていて、かすかな埃のにおいが鼻をくすぐった。
人気のない階段を上がり、二階の踊り場へ到着。赤紫に染まる窓の外を見下ろすと、校庭には雪がうっすら残り、夕暮れの光を反射してかすかに白く光っている。
「そういえば……昔、ここから光月と一緒に雪景色を眺めたな」
ふと、そんな記憶が浮かぶ。中学に上がったばかりの頃、空き時間にこっそり旧校舎を探検して、二人で見つけた“秘密の場所”だった。彼女が笑って「雪が宝石みたいだね」なんて言ったことを思い出す。
静かに廊下を歩きながら、物置や空き教室を一つずつ覗いていく。使われなくなった机や椅子が積まれていたり、壊れた備品が放置されていたり――時間が止まった空間。
そこに、ふっと蝶が舞い降りた。薄紅色の夕陽を透かして、幻のように揺れる翅。冬なのに、やっぱり蝶がいるなんて不自然だ。
思わず追いかける。蝶は廊下をふわりと飛び、隣の教室へと入り込んだ。慌てて後を追うと、扉の前で足が止まる。部屋の奥が薄暗く、どこか不安を掻き立てられる。
「……入っていいのか?」
問いかけてももちろん返事はない。でも、背後からの夕陽が僕の背中を押すように感じた。意を決して扉を開けると、一瞬、埃の匂いと冷たい空気が混じり合ったような気配を受ける。
中に入ると、蝶の姿はもう見当たらなかった。代わりに、床の上に雪の結晶のようなものが落ちている。窓は閉まっているはずなのに、どうして雪が……? 手で触れると、すぐ溶けてしまった。
まるで、光月との記憶がここに滲み出ているかのようだ。
教室の中心に立ち尽くし、天井を見上げると、薄暗い梁の間にかすかに闇が揺れている気がする。でも何も起こらない。ただ静寂だけが降り積もる。
遠くのグラウンドからかすかに聞こえていた声も、いつのまにか消えてしまった。きっと部活も終わり、みんな帰路についたのだろう。時計を確認すると、もうすぐ夜の帳が降りる時刻に近い。
「……今日も、ここには光月の影だけがあるのか」
囁くように呟いて、名残惜しそうに教室を出る。夕焼けから夜へ移り変わる直前の瞬間、廊下の窓ガラスが暗く染まり、まるで鏡のように僕の姿を映し出した。そこには疲れた顔をした自分がいて、一瞬ぎょっとする。
「あいつがいないのに、ここをうろつくなんて、意味あるのかな……」
心に浮かぶ疑問。けれど、自分でも答えはわからない。ただ、どこかに光月が残したものがある気がして、足が勝手に動いてしまう。それが愛着なのか、後悔なのか、あるいは罪悪感なのか、自分でも判断がつかない。
渡り廊下を戻り、新校舎へ。下駄箱に行く途中、ふと振り返ると、旧校舎の窓に淡い光が見えた気がした。蛍光灯の明かりではない、もっと冷たい白い光。誰かがいるのかもしれない。もしかしたら、あの“影”が。
――でも、今日はもう帰ろう。明日にでも、また来ればいい。
そんな考えが頭をよぎり、僕は無言でその場を後にした。背中のほうで蝶が羽ばたく音が聞こえた気がするが、それもすぐに静まり返った。
この夜も、僕の喪失感は晴れないまま。けれど、胸の奥で何かが少しずつ変化しているのを感じる――それが再生なのか、さらなる崩壊なのかは、まだわからなかった。
空気が冷え、光の色が変わるだけで、校舎はとたんに違う顔を見せる。
そこで感じるのは、失った「光月」の足跡がまだどこかに残っているのではないかという淡い希望。それが例え錯覚でも、主人公は立ち止まれずにいるのだ。
廊下に差し込むわずかな光や、突然現れる蝶の翅音が、胸の奥に眠る喪失を刺激する。
それでも翌日も、またここに来るだろう――曖昧な痛みと再生の予感を抱えながら、夜の帳を後にした主人公が、次に何を見つけるのかはまだわからない。