記憶の迷路と深夜の図書室
夜の図書室――普段は静寂と知識の象徴であるその場所も、月明かりとともに闇へ沈むとき、まったく違う顔を見せる。
閉ざされた教室や廊下を抜けてたどり着く先に、失われた誰かの痕跡があるかもしれない。
あるいは、ただの幻に惑わされるだけなのか。
けれども、蝶や月のイラストが描かれた古い本、そして差し込む雪明かりは、まるで主人公に“まだ消えていない思い出”を指し示すかのようだ。
深夜の学校で進む探索は、いつしか実体の見えない“光月”との静かな再会へと変わっていく。
胸を締め付ける切なさと淡い期待が交差する中、図書室という知の空間が、知られざる過去と幻想を結び合わせる舞台となる。
それから数日後。どうしても心のもやが晴れず、僕はまた夜の学校に忍び込んだ。今度は“図書室”が目的だった。かつて光月がしょっちゅう本を借りていたからだ。あの本を探せば、彼女の足跡を辿れるかもしれない――そんな期待に突き動かされていた。
夜の校舎の空気には、どこか重苦しい緊張感が漂っている。廊下の電気は消され、ところどころ非常灯が赤く点滅するだけ。雪明かりが窓ガラスを通して微かに差し込むが、視界はあまりよくない。
図書室のドアは鍵がかかっているはず……と身構えながらノブを回すと、意外にもすんなり開いてしまった。拍子抜けするほど簡単だったが、そのぶん不気味さも募る。
入り口を抜けると、天井まで届く古い本棚がずらりと並んでいた。昼間に見る図書室とはまるで別世界だ。奥のほうは闇に沈み、本の背表紙すらよく見えない。足を進めるたび、床がぎしりと鳴る。
「光月が好んでいた本……たしか『月の神話』とか、『蝶の寓話集』みたいなのを読んでたっけ」
そんな記憶を頼りに棚を探す。ライトの代わりにスマホの画面を微かに当ててみるが、暗い上に埃だらけで、目的の本がなかなか見つからない。
ようやく棚の上段に「幻想生物記」という背表紙を見つけ、そっと引き抜く。だが、その本は湿気を含んでいたのか、開くとページがべたりと貼りついてめくりにくい。表紙を飾るのは、一匹の蝶と三日月のイラスト。なんとも奇妙な組み合わせだ。
ページを慎重にめくると、古ぼけた付箋のようなものが挟まれていた。そこには細い文字で何かが書かれている。
> 「蝶は魂の象徴。月は人の想いを映す鏡。
> やがて雪に還り、すべては静寂へと溶けゆく――」
このメモを書いたのは誰だろう。筆跡を見る限り、女子のものっぽい。もしかして光月の書き込み……? 胸が高鳴る。
もう一度本に目を落とそうとした瞬間、図書室の奥から物音がした。急いで本を閉じ、息を潜める。何者かが本棚の間を通り抜けるような足音が聞こえるのだ。背中に冷たい汗が伝う。
(こんな時間に、誰……?)
教師か警備員か、あるいは……いや、確かめたいけど怖い。数秒間、僕はじっとその場に立ち尽くした。足音はやがて遠のき、気配が薄れていく。ふう、と小さく息を吐いた。
しかし、胸のざわつきはおさまらない。まるで図書室そのものが、生きているかのように感じられるからだ。心の奥底で「ここには真実があるよ」と囁かれている気がする。
意を決して、本棚の間を進む。闇の先に見えるのは、小さな閲覧スペース。丸テーブルが一つと、椅子が数脚。それを照らすライトなどないはずなのに、なぜかほんのりと青白い光が漂っている。
その光の中に、人影が見えた――いや、見えた気がしただけかもしれない。僕は駆け寄ろうとしたが、急に胸が苦しくなって足を止める。
「……光月……?」
喉が乾いて声が出ない。薄暗いテーブルの前には、白い姿がかすかに揺れていた。しかし、何度瞬きをしても、そこに立っているのはただの影。目を凝らすと霧散するように消えていく。
しばし呆然と立ち尽くす。何だったのか、自分でもわからない。でも確信めいたものがある。あれは光月の幻影だ。ここに、彼女の思念が確かに残っている。
「やっぱり、まだ消えてないんだよね……」
本当にそうなのか、ただの僕の願望なのか。答えは闇に溶けて、何も返ってこない。
再びテーブルを見ると、そこには乱雑に積まれた本の山があった。古い卒業アルバムや文集のようなものまで混じっている。その中から一冊の文集を取り出すと、パラパラとページをめくる。
――『光月』という名前が書かれたページに辿り着いた。短いポエムのような文章。
> 「雪が降る夜、私は月を見上げて祈る。蝶が舞う夢を願う。
> それが、きっと儚くても美しい世界だから」
これを書いたのは、きっと光月本人だ。まさしく彼女らしい言葉。僕はそれを読んだだけで胸が熱くなる。あの日の笑顔、あの日の涙、あらゆる思い出が一気に押し寄せ、息が詰まるようだ。
思わず文集を抱きしめ、目を閉じる。涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。そのとき頭の奥で、光月の声が聞こえたような気がした。
「私のこと、忘れないで……」
それは本当に幻聴だったのか、それとも思い込みか。わからない。でも、僕はもうこの想いから逃れられない。
視線を上げると、テーブルの上に一匹の蝶がとまっていた。淡い銀色の翅を揺らし、まるで僕を見つめるようにしている。夜の図書室に、そんな蝶がいるはずがないのに。
だが、一瞬見とれたその蝶はふわりと舞い上がり、天井の隙間へと消えていく。残されたのは静寂と、僕の動悸だけ。
「光月……」
口にするたびに涙が溢れそうになる。けれど、ここで立ち止まってはいけない気がする。僕は文集とメモをそっと鞄に仕舞い込み、扉のほうへ向かった。
外へ出ると、雪がさらに強くなっていた。夜空には大きな月が浮かんでいて、まるで僕と図書室を見下ろしているようだ。今の出来事は、すべて夢か幻か――いや、確かにここに“何か”が存在するのだ。
階段を下りながら、次はどこを探せばいいのか考える。光月が残した痕跡は、きっとまだこの学校に眠っている。彼女の真実に辿り着けば、自分の喪失も受け止められるのだろうか。
夜の校舎を後にする僕の背中に、淡い月明かりと雪が降りそそいだ。暗闇の先には何があるのか、怖いような、それでいて少しだけ期待している自分がいる――。
暗い本棚の奥から聞こえた足音の正体は、主人公の不安な心が生み出す幻だったのか、それとも本当に誰かがいたのか。
どちらにしても、そこに刻まれていたのは「光月」という名と、彼女が残した“言葉”の足跡。
月の光を宿し、雪に溶けゆく儚い蝶のイメージが、主人公の胸をさらにかき乱しながらも、前に進む力を与えているようにさえ思える。
外へ出ると、一層強まる雪と大きな月が図書室を見下ろす。
あの夜の図書室で触れた記憶と感覚は、彼女との結びつきを確かなものにするのか、それとも幻想を深めるだけなのか――。
主人公が次に目指す場所を思案する姿からは、止まることのできない想いが、また新たな扉を開かせてしまうのだろうと予感させる。