薄青のアーチと沈黙の蔵書室
春から初夏へ季節が移る狭間──柔らかな陽の光が夕映えの茜に溶ける頃、旧図書室の埃は静かに匂いを立て、忘れ去られた秘密だけが呼吸を続けている。
主人公と転入生・月影光火が“四月末”という微妙なタイミングで再び闇の書架に分け入るエピソード。冬の幻想を経た二人にとって、図書室はもはや単なる〈静かな自習スペース〉ではない。そこは「鍵」「闇」「図書室」という三つの符丁が重なり合う、物語の次なる扉口──光火の琥珀色の瞳がかつてより強い輝きを宿すのは、まさしくその扉の気配を感じ取っているからだろう。
そして見つかった木箱に眠るのは、タイトルすら不穏な《雪色ルナティック》。未完の放送脚本とリールテープは、凍った記憶を再生しかける“磁性体の棺”。ページの余白に書かれた “すべての鍵は図書室が闇に沈む時”──果たして闇へ落ちるのは図書室なのか、それとも彼ら自身の心なのか。
黄ばんだカードや蔵書印に触れれば触れるほど、「春休みの探索は序章に過ぎなかった」と思い知らされる。
四月最後の放課後。校舎の長い影がグラウンドを横切り、風に乗った新緑の匂いが渡り廊下へ忍び込んでくる。三年生になったばかりの“僕”は、部活も仮入部も関係ない静かな時間を選び、閲覧棟の旧図書室へ向かった。
古い鍵をひねると、軋んだ蝶番が微かな悲鳴を上げる。外よりわずかに低い温度が頬を撫で、埃と羊皮紙の混じった匂いが肺を満たした。春休みの探索で見慣れたはずの闇だが、今日は一段と深く感じられる。
書架の谷間を縫うように奥へ進むと、薄闇の先に藍い影。
「先輩……やっぱり来てた」
月影光火が振り返る。昼下がりの光を受けた琥珀色の瞳は、冬より少しだけ強い輝きを宿していた。
「委員長に頼まれた在庫整理。二人いれば早く終わるでしょ?」
光火はそう言って埃除けの軍手を差し出す。――春休みに旧校舎を歩き回った“相棒”という距離感が、自然な呼吸で胸に入った。
午後の光が傾くほどに、段ボールの山は低くなる。黄ばんだ索引カード、破れかけのフィルムカバー、頁に押された蔵書印。
「この棚だけ妙に詰まってるね」
光火が指さした最奥の書架は、背表紙が見えないほどびっしり詰め込まれていた。二人で本を抜き取ると、背後に浅い窪みが現れる。
そこには天鵞絨の布で包まれた古い木箱が、ひっそりと隠れていた。
蓋の真鍮留め金は錆び、指で触れるとざらりと音を立てる。開くと、箱の中には小型のリールテープと厚手の原稿用紙、そして青インクで書かれたタイトル。
> 「雪色ルナティック―放送脚本(未完)」
光火が息を飲む。僕はページを慎重にめくった。フォーマットは校内放送用の朗読台本。日付欄は空白のまま、ところどころに「蝶」「月」「雪」の単語が朱で囲われている。
「光月……?」思わず名を呟きかけ、唇を噛んで止める。
脚本の余白に残った走り書きは読み取れないほど滲んでいたが、最後の一行だけははっきりしていた。
> ――“すべての鍵は、図書室が闇に沈む時”
鍵、闇、図書室。揃う順序はわからない。けれど鼓動だけが妙に早まる。
「先輩……今日は閉室時間だよ。続きはまた」
光火の声に我へ返る。窓の外、茜色のアーチが校舎の端から端へ伸びていた。春と夏を結ぶ渡り廊下のように。
木箱を抱えたまま扉を閉めると、闇の向こうで書架がわずかに軋いた。聞き慣れた音のはずなのに、胸の奥で長い糸が震える。
旧図書室の奥に潜んでいた木箱は、単なる “隠された古物” ではなく「夜が来るのを待ち続けたメタファー」そのものだったのかもしれません。
箱の中身──未完の脚本とリールテープ──は、“蝶・月・雪”というキーワードを朱で囲みながら、まだ語られていない〈本編より古い本編〉の存在を示しています。放送用脚本という体裁が示唆するのは「声」と「反響」のモチーフ。闇に沈む図書室=本を読む静寂の空間が、これから “声” によって揺さぶられる未来を暗示しているようでもあります。
また、春と夏を結ぶ茜色の渡り廊下は、過去と現在を結ぶ時空のブリッジでもあり、この回のラストで「長い糸が震える」と表現された微細な不安の振動は、確かに伝わったはずです。
鍵はどこに揃い、闇は何を呑み込むのか──次に図書室の灯りが落ちる瞬間、二人が引き寄せられる“磁場”はさらに濃密になるでしょう。