桜色の余韻と、新学年への準備
冬の長い夜を経て、やっと訪れたはずの春。
卒業式が終わり、校舎には新年度に向けた準備の空気が漂う――にもかかわらず、主人公の心にはまだ冬の影が巣くっている。
静かで広く感じられる廊下、穏やかに微笑む生徒会の先輩、そして淡く咲きかけた桜。
どれも、あの「崩れかけた旧校舎」を夢のように遠ざけていく。
夜の校舎を巡り、光月と向き合ったあの日々は、もう過去のことなのか。
けれど、胸に残る“喪失感”がはっきりと告げている――何も終わってはいない、と。
桜色の風が吹き込む渡り廊下を、慌ただしく飾り付けしながらも、心はまだ冬を引きずっている。
春休みが明けるまで、あとわずか。
光月のいない新学年を迎える予感は、安堵と虚しさを同時にもたらすのだろうか。
春休み中の校舎は、冬ほどの静寂とはまた違う意味で寂れている。
廊下を歩いても、生徒の姿はまばら。先生たちが新年度の資料を整理しているだけで、日中にもかかわらず、どこか落ち着かない空気が流れていた。
僕は朝から生徒会主催の「新入生歓迎準備」の手伝いを頼まれ、職員室と体育館を行ったり来たりしている。
貼り紙の印刷や歓迎用の立て看板を運んだり、花を飾るためのスペースを確認したりと、細々した雑務が尽きない。
(こうして動いていると、あの“喪失感”は少し和らぐのだろうか)
心の片隅でそんなことを考える。
光月を失った現実を受けとめて、まだ日は浅い。
先週までは、夜の学校で幻のような世界を歩き回り、最終的に崩れかけた旧校舎で光月を見送った――そんな体験が嘘のように思えてしまう。
――これが僕の求めていた平穏かと問われれば、答えに詰まる。
あの歪んだ廊下や月明かりに照らされた雪の光景を思い出すと、胸の奥が今も鈍く痛むからだ。
「ほら、これ持って行って。歓迎メッセージを書く用の大きいボード」
生徒会の先輩が僕を呼び止め、作業の指示を出してくる。
「了解です」
返事だけは元気よくしてみせるが、内心は少し重い。大きなホワイトボードを抱え、校庭沿いの渡り廊下を通ると、ほんのりと春めいた風が吹き込んできた。
窓の外をのぞくと、桜のつぼみが淡いピンク色に染まりかけている。
雪が消えたあとの地面は、まだ荒い土色だけれど、そこに緑の芽がちらほら見え始めていた。
(冬が遠のいていくのは、こんなにもあっけないものなんだな)
夜の校舎を巡り、光月と対峙した記憶――すべてを受けとめたはずなのに
周囲の風景がどんどん春へと進んでいくほど、僕は置いてきぼりにされているような気がしてならない。
「何か悩んでる?」
不意に隣を歩いていた先輩が声をかけてくる。
「えっ、いや……」
唐突な言葉にぎくしゃくしてしまう。
「さっきからずっと暗い顔してるよ。しんどいなら、無理しなくてもいいのに」
先輩は優しく微笑む。その笑みを見ると、余計に胸が痛む。光月がいた頃の穏やかな笑顔を思い出してしまうから。
「大丈夫です。ちょっと考え事してただけで……」
言葉を濁してしまう自分がもどかしい。
昼過ぎ、歓迎ムードの飾り付けがひと段落すると、先輩から「もう帰っていいよ」と言われた。
時計を確認すると、まだ午後二時前。
ふらふらと校舎内を歩くうち、旧校舎へ通じる渡り廊下の扉が目に留まる。
もう、夜になってあそこへ行くことはないだろう。
崩れかけた世界を見たあの日々は消え、旧校舎は“ただの古い建物”に戻ったように思える。
(今さら入っても何もないかな……)
しばらく立ち尽くしていたが、結局ドアには触れずに踵を返して昇降口へ向かった。
春休みが明けるまで、あと一週間と少し。
光月のいない新学年――そう想像すると、安堵と寂しさが入り混じった気持ちになってしまうのだった。
春の匂いが満ちる校舎のなか、誰もが新入生を迎える準備に忙しく動いている。それなのに、主人公の心は取り残されているかのようだ。
「光月」を喪い、その幻と深く対峙した夜の記憶は、消え去ってしまったわけでも、完全に受けとめられたわけでもない。
しかし、新しい季節は容赦なく巡ってきて、冬の名残を塗り替えていく。校庭を通る風のやわらかさや、先輩の優しい気遣いが、ますます主人公の孤立感を際立たせるようにも思える。
それでも、立ち止まり、旧校舎へ通じる渡り廊下のドアに触れそうになる自分を責めることはない。
気づけば、春休みはあとわずか。光月のいない世界が始まるのは必然だとわかっていても、寂しさは拭えない――。
黙ってドアから離れ、昇降口へ向かう足取りの先には、もうすぐ始まる新学年という現実が待っている。
そうして、冬と夜の想いを抱えたまま、主人公はまた一歩、日常の中へと歩を進めるのだろう。