薄雪に揺れる想い出
雪が降り始めた朝、まだ誰もいない渡り廊下を舞台に、主人公の心に揺らめく記憶が動き出す。
静かに響く“光月”という名前が、本当にそこにあった温もりと喪失を象徴する。
モノクロの日常に忍び寄る一匹の蝶は、月の光を帯びた幻影なのか、あるいは失われた何かを繋ぎとめる存在なのか。
降り積もる雪が主人公の心を洗うかのように、かすかに残る後悔と切なさをあぶり出していく。
本編は、そんな曖昧な冬の朝に始まる。何気ない学園生活の裏側に潜む、取り戻せない時間と記憶の扉が、今ゆっくりと開かれようとしている。
朝のチャイムが鳴る直前、旧校舎のほうへ通じる渡り廊下を歩いていた。いつもなら寄り道せず、まっすぐ教室へ向かうのに――どうしてだろう。胸の奥が何かに呼び寄せられるような、不思議な感覚があった。
窓の外を見ると、雪がちらちらと舞い始めている。冬の寒気が校庭の隅々まで染み渡り、白い結晶がゆっくりと地面に溶けていく。その様子をぼんやり眺めているうちに、脳裏に遠い記憶が蘇った。
光月――あの名前を、小さく声に出してみる。誰もいないはずの渡り廊下は静寂に包まれ、自分の声がやけに響いた。返事なんてあるはずもない。彼女はいない。
思えば、小学校の頃から一緒だった。彼女は物静かで、でも不思議なくらい周囲を惹きつけるオーラがあった。雪の降る帰り道、僕らはよく一緒に歩いた。光月はいつも小さな声で「雪の匂い、好き」と言っていた。僕もそれが妙に嬉しかったのを覚えている。
(どうして今さら、こんなふうに思い出すんだろう)
教室に入り、いつもの席につく。クラスメイトが少しずつ登校してくる気配があるが、僕は心ここにあらずのままだ。隣の席に座った友人が「おはよう」と挨拶してくるが、なんだか空返事しかできない。
ホームルームが始まり、担任が軽くスピーチをする。明るい蛍光灯の下で、ほかの生徒たちの笑いや雑談が混じり合う。そんな平凡な光景のなか、僕はただ胸の痛みを噛みしめていた。
――光月はもういない。
ほんの数ヶ月前までは、同じようにこうして席につき、窓の外を見つめていたはずなのに。思い出すと、胸が締め付けられるようだ。
授業が終わり、昼休みになった。友人に誘われて屋上へ行こうかと思ったが、どうしても気が乗らない。誰にも言えず、僕は一人で旧校舎のほうへ足を向けた。
旧校舎は今は使われない教室が多く、薄暗い廊下は昼間でも寂れた雰囲気が漂う。ところどころペンキが剥がれかけた壁や、ひび割れた床が目につく。そこを歩いていると、不意に蝶が視界を横切った。冬なのに、どうして蝶がいるんだろう。
まるで月の光を帯びたような淡い輝きを残し、蝶は廊下の奥へ飛んでいく。僕は何かに導かれるように追いかける。少し急ぎ足で角を曲がり、階段を上がろうとしたところで、不意に足が止まった。
視線の先、窓の外に白く降る雪が見える。その一片を見つめていると、小学校時代の帰り道がありありと甦る。ちょうどこんな雪の日だった。光月と二人で、「あったかい飲み物が欲しいね」とか他愛ない会話をしていた。彼女がはにかんだ笑顔を向けてくれるだけで、なぜか胸が満たされた。
「……もう帰れないんだよな」
ぽつりと呟く。声は虚しく廊下に吸い込まれ、しんとした空気が取り巻くだけだ。再び蝶の姿を探すが、もう見当たらない。
昼休みの終わりを告げるチャイムが遠く響いてきた。さすがに教室へ戻ろうと引き返すと、まるで幻のように蝶がふわりと舞い降りて、僕の肩先をかすめていくのが見えた。
(あれは何なんだろう。もしかして、光月に縁のある象徴か何か……)
頭の中でそんな考えが渦巻くが、答えは出ないまま次の授業が始まってしまう。気づけば、胸の奥がざわざわと落ち着かず、その感覚は夕方まで続いた。
放課後、しんしんと雪が積もる校庭を窓越しに見つめながら、僕は決心する。今夜、この学校に来てみよう――閉じ込めていた思い出が、雪とともに落ちてくる気がするから。
朝の渡り廊下から始まった淡い追憶は、次第に雪景色の校庭と旧校舎を舞台に広がっていく。
“光月”の姿を追うように見え隠れする蝶は、主人公の胸に消えずに残る思いの化身なのかもしれない。
積もる雪が外の世界を白く塗り替えるように、胸の痛みとともに呼び覚まされる記憶は、これからどんな結末へ向かっていくのか。
廊下の先に待ち受けるのは、幻のように舞い降りる過去の断片なのか、それとも真っ直ぐに向き合うべき現実なのか――。
いずれにしても、主人公が夜の学校に踏み出すとき、それは眠りについた感情を呼び覚ます一歩になるだろう。
雪が降り積もるごとに深まる夜の学園と、そこに残されている想いの軌跡を、どうか見届けてほしい。