知るとは違いがわかる事
とあるゲーム実況者の配信をみていたら、「ケンミンショー」という番組に憤っていた。私もあの番組は嫌いだ。
その実況者は大阪出身なので、大阪に対する取り扱いがいつも同じで、ステレオタイプな事に腹を立てていた。いつもカメラは通天閣のアップから始まり、いつも吉本新喜劇の滑稽な音楽で始まる。「大阪はこれでええんやろ」といういつものテレビ演出だ。
私もあの番組は嫌いだ。私は京都出身なのだが、いつかみたケンミンショーでは、「京都人は親子丼が好き」という勝手なレッテルを貼っていた。また「京都の親子丼はよそと違う」という映像を流していたが、その「よそとは違う親子丼」は、京都に二十年近く生きていた私がはじめて見るものだった。(おそらく京都のどこかの地域の親子丼を誇張したのだろう)
今更テレビを叩いてもしょうがないが、テレビのやらせと誇張はあまりにもひどい。しかし、これは人々が望む単純なイメージをなぞったものでもある。
人はとかく単純なイメージが好きだ。というのは、認識が節約できるからだ。「大阪人は〇〇」という風に一括りにして考えれば、個々の微細な差異については考えずに済む。
最近流行りの「コスパ」とでもいえばいいか。思考のコスパを良くする為には、現実のざらざらとした差異をならして、すべてをのっぺらぼうに一色に塗りたくればいいのだ。…要するに人は考えたくないのである。
この文章のタイトルは「知るとは違いがわかる事」としている。逆に言えば、無知とは全部がのっぺらぼうにひとつのものに見えるという事だ。
これは色々なものに当てはめて考えられる。
日本に長年住んだあるイギリス人は最初日本に来た時、日本人がみんな同じ顔に見えたそうだ。しかし住んでいるうちに個々の顔の違いがはっきりしてきたという。
西欧人がアジア人を侮蔑する時によく目を引っ張る動作をする。これは「目の細いのがアジア人」というステレオタイプな見方である。彼らはアジア人をよく知らないから、アジア人はみな同じにみえる。
彼らに別に侮蔑の気持ちがなくても、知らない状態では、韓国人も中国人も日本人もみな同じで、にたりよったりにみえる。
私はネトウヨとフェミニストはほとんど同じ存在だと考えている。どちらもネットで活躍している。
彼らの世界観は単純だ。こちらに味方があり、あちらに敵がいる。
日本人 VS パヨク
女 VS 男
以上のような単純な二項対立が想定されている。こうした対立を掲げている限り、日本人の中の差異や、パヨク(この呼称もよくわからないが)の中の差異はわからない。女の中の差異、男の中の差異はなかった事になる。
差異は、あらかじめ掲げられている単純な二項対立に収斂される。それ故に自分の頭でものを考えたり、自分の目でものをみたりしない人々には人気なのだ。
私は最近、投資を始めたのだが、投資においても全く同じ事が言える。
投資に興味がない人からすると、ニュースに出てくる「日経平均大幅上昇」のような文言がみえると、「株をもっている人は全員儲かった」という風に思うだろう。
ところが、実際に投資をはじめてみると、日経平均は上昇しているが持ち株は下がる、というような事が多い。その反対に、日経平均は下落しているが持ち株は上がる、という事も多い。
「日経平均がこれだけ高止まりしていると投資を始めるのは難しい」というようなコメントを私は以前にみた。しかしこれは間違っている。日経平均が高いからといって、全ての株が割高なわけではない。
私は自分で投資をはじめて個別株について調べたが、株というのは色々ある。…色々ある、と私が言えば「そりゃそうだ」と人は言うかもしれない。しかし、「色々ある」という事が具体的に個別株の様々なあり方を想像できる「色々」と、ただ一般的な抽象的な知識としての「色々」ではぜんぜん違う。
株には色々ある。真面目な企業もあれば、企業努力を放棄しているものもある。割高なものもあれば、割安なものもある。仕手株化しているギャンブル銘柄もあれば、少しずつ成長しているが相場からは見向きもされない真面目な不人気銘柄もある。色々ある。
これらのすべてが「日経平均」という指標のもとに強引に集約される。株をやる、実際に投資をするとは、イギリス人が日本に来て日本人の相貌が見分けられるようになる事と同じように、個々の株、個々の企業の違いが見極められるようになる事だ。遠く離れてみると全て一緒にみえる。
以前に何かで読んだのだが、蟻の研究者は蟻の相貌が見分けられるそうだ。もちろん、私には無理だし、私達のほとんどが無理だろう。
知るとは、このように、その分野の中に分け入って、個々の違いを見極められるようになる事だ。そう簡単に言っていいかと思う。
逆に知らない人間というのは、十把一絡げにものを言いたがる。「日本は〇〇」「女は〇〇」といった言い方をする人には注意が必要だろう。
もっとも私も必要があればそういう言い方をする。そういう言い方をしなければ全体的な論理について話す事が不可能だからだが、心の中では、自分のトータルとしての範疇のくくり方が全てではないといつも気をつけていなければならない。
無知な人間が世界をみると、世界はのっぺらぼうにみえるが、実際には世界はざらざらとした差異の連続である。遠くからみた月は丸くてツルツルしているが望遠鏡でみると、ざらざらとしているようなものだ。
豊かな視点とは、このざらざらとした差異を実際に触れながら、それらの相違や意味について考える事にあるのではないかと思う。
それと比べると、テレビや、ネット・イデオロギーなどは、その種類は違えど、人々に世界を単純に認識できる簡単な道具を与えてくれる。しかし現実はそうしたものではないので、彼らの簡単すぎる世界測定器はいつかは壊れてしまう。
とはいえ、世界のざらざらとした皮膚に率先して取り組もうとしない人間はいつまでも世界を単色に塗って満足するのみだ。左翼から右翼へ、右翼から左翼への転向というのは極めて容易に行わるが、自分の目や耳で世界をみる人間に変わる事はいつの時代でも難しい。