道先4
水嘉瀬 卓の躓き
「畜生、なんで俺がこんな事しなきゃならないんだよ。今日はマイたんの生配信があるっていうのに。糞、糞!」
腕時計はすでに日付を跨ごうとしている。かなりふくよかに育った腹を辛うじて包み、はちきれそうなワイシャツを右に左にと揺らしながら帰路を急ぐ。
終電を逃し、走っているのだ。会社から自宅まで徒歩30分とナビは記すが、とてもそんな時間では済まない。成人男性が歩く歩幅と自分のスピードでは雲泥の差がある。
間に合わないと分かっているが、タクシーを呼んで待つ時間すら惜しかった。
運動不足の極み人としては満点である自分の足ではとても無理。
小学生の持久走大会を思い出す程、走って走って走って走って自宅へと到着する。
ぜぇぜぇおえっと酷い息の仕方だ。苦しい、苦しい。
玄関を乱暴に開けて、靴を脱ぎ散らかしながら転がるようにして部屋へ上がる。
繋ぎっぱなしのPCからは楽し気な音楽。
画面には、【今日は来てくれてありがとう! 本日の配信は終了しました、また見てね!】
と表示され、汗滴る目元を拭って改めて時計を見るととっくに日付は変わって翌日になっていた。
「ま、間に合わなかった……う、畜生……畜生っ」
アーカイブは残るので今見なくても後でも見れる。だがしかし、そうではないのだ。
推しの生配信をリアルタイム視聴する事は何より大切であるのだから。
推しを拝みながら界隈の仲間と肩を抱き合うようなイメージでチャット欄を盛り上げるのだ。そのひと時は、社畜として馬車馬のように働く日々に光をもたらしてくれている。潤いであり、生きる糧、生きる理由そのもの。
脱力しかけたが、唇を噛み締める。
冷蔵庫へずかずかと歩いていき、抱える程の缶ビールを持って小さなスクエア型のテーブルにドカンと乱暴に置く。
大袋のポテトチップスを引き出しから引っ張り出してバリっと開けた。
アイドルグループの最推しがライブ配信を行うというのに間に合わなかった。この日の為に業務がスムーズに終えられるよう調整に調整を重ねた。なのに。
定時に退社しようとした3分前、片付けを終えた所上司にポンと肩を叩かれた。
「おう、水嘉瀬ぇ悪いなぁ今日社長に酒の席呼ばれててよ。定時上がりしないといけんのだわ。これとそれ資料とデータまとめといてくんない? 今夜中な」
積み上げられた資料の束に目を剥いた。
「いえ、今日は」
「あ~、社長が待ってるからもう行くわ! じゃ、よろしくな!」
ひらひらと気軽に手を振って多量の仕事を押し付けていった無能を奥歯を噛み締めながら見送る。
推しの配信に間に合わなかったのは全て馬鹿上司の所為だ。
「あいつさえ、居なきゃ。クズ、糞くずが、なんであんなに仕事の出来ない奴が上に居るんだ、社長と古くからの付き合いだなんて知った事かよ畜生、糞が、辞めちまえ無能」
怒りが沸々として湧き上がる泡の如く、口をついて悪態が出る。
ぎりぎりと歯ぎしりまでしている事には気が付いていない。日頃から強く食い縛ったり、歯ぎしりのある歯はかなり平たくなり噛み合わせは随分と悪い。それによく噛まず飲み込む癖も抜けない。
何となく、腹一杯になればよく眠れるから味なんてどうだっていい。
会社から帰宅するや否や、苛つくままに
「俺はこんなに有能なのに、無能なあいつが買われて俺がこんな下の扱いを受けるなんて」
一缶ビールを開けてがぶがぶと飲み干す。許せない、許せないと煮える腹の中。
畜生、と言いながらもバリバリとポテトチップスを口に放り込んでは酒を流し込んでいく。
ビールが3缶終わるころにはポテチは無くなり、更に食べる物を探りに立ち上がる。
枝豆やチーズ味のスナック菓子をボリボリと食べ続け、腹にはアルコールをどんどん入れている内に、視界がぐんにゃりと歪み始めた。
「にゃあー」
飼っている黒猫が一声鳴いた。
動物に人間の言葉なんて分かるはず無いのに、いつも話しかけてしまう。
「なぁ、くるみぃ……俺は、駄目な奴なのか? 頑張ってるんだよ、なのに、なのによ、誰も認めてなんてくれねぇよ」
「んぅー」
どこから出しているか分からないような声で鳴きながら小首を傾げる様は可愛いなと思いながら撫でようと手を伸ばすが、ポテチやつまみのカスまみれだと気が付いて立ち上がる。
「いけねぇ、人間の食べ物は駄目だった」
小さなスクエア型のテーブルには酒の空き缶がカラコロと転がり、つまみにした物達のカスが散らばっている。足元に転がっていたゴミ箱を置き直してそこにある物を全部ひっつかんで突っ込む。
フラフラの千鳥足になりながら缶を全て流しの中へ放り込む。
「ばあちゃんの躾が良くて、くるみはあそこにはいかねぇからな……」
ついでに手を洗い、フラフラと歩きながらまた戻って来ようとして、部屋の前の僅かな段差に躓き転倒した。
「い、いてぇ…………畜生、畜生」
起き上がる気力も無く、うつ伏せになったまま動こうとしない卓にくるみがそっと近づいてふんふんと匂いを嗅ぐ仕草をする。ぐりぐりと頬に頭を寄せるのでふわふわの毛が触っていく。
「お前はあったかいなぁ、くるみ」
小さな頭を撫でてやれば、気持ちよさそうに目を細めている。
大きくはない体から温もりが伝わりじんわりと掌が温かくなっていくような気がした。
「…………ばあちゃんの旨い肉じゃが、食いたいなぁ」
顔の側に寄り、スリスリと頭をこするくるみは卓の頬を伝った涙をペロリと舐めとり、その場でくるりと丸くなる。喉をコロコロと鳴らしながら一緒に夢の中へと落ちていったのであった。
 ̄ ̄ ̄ ̄
…………
……
…
その晩、卓は夢を見た。
『すぐる、すぐるはいい子だねぇ。良い子だねぇ。頑張り屋さんだねぇ』
シワのある掌は、幼い卓の頭を撫で頬を撫で、包んだ。
くすぐったくて、じんわりと温かくなるあの頃の夢