後日談
エクトル視点
ルロワ代書屋の臨時店主を終えたエクトルは王宮での仕事に戻った。
時期的に繁忙期。多数の書類に追われ、くたびれたエクトルはとぼとぼと自宅であるルロワ代書屋へと帰っていた。
最近はイリスとも会えていない。
祝い事の多いこの季節、宝飾品を買い求める人々や、逆に物入りで手持ちの宝石の鑑定に訪れる客が多いようで、彼女も忙しそうにしている。
せっかく両想いになったのに、とため息をつきながら店の裏から家に入り、上着を脱ぐ。
すると、表の方から笑い声が聞こえた。
そろそろ閉店している時間だが、客が残っているらしい。エクトルがそっと窺い見ると、イリスが祖母と談笑していた。
「それでね、その苦くて美味しくない酒をなんとか普及させようと、ミルクと混ぜてみたそうなんだよ。そうしたら予想外に美味しかったらしくて。本当かねえ」
「それ、私飲んだことがありますよ。すごく意外でしたが、結構美味しかったです」
「ええ? 本当かい? 不味くないの?」
二人の笑い声に、自然とエクトルも口元が緩んだ。きっと彼女の実家の祖母とも、こんな空気感でおしゃべりをしているのだろう。
イリスの依頼を代わりに引き受け始めてすぐ、エクトルは彼女の穏やかな雰囲気に惹かれた。
やり取りしている手紙は確かに特別な内容ではない。しかしそれは家族である互いを気遣うもので、優しい人柄にあふれるものだった。
もっと話をしてみたい、手紙の代書という仕事以外でも会いたいと思うようになり、言い訳まで作って彼女の仕事場に押しかけてしまった。幸い、彼女も同じように思ってくれたようで、勇気を出してくれた手紙はエクトルの宝物だ。
しかしせっかく恋人になれたのに、なかなか時間が取れないのが残念で仕方ない。
少しの間、柱の陰にもたれて二人の会話を聞いていたエクトルに、イリスが気付いた。
「あ、エクトルさん。お帰りなさい」
「おや、帰ってたの、お帰り」
ルロワ夫人も振り返る。
エクトルは「ただいま」と挨拶し、脱いだ上着をもう一度手に取った。
「もう代書は終わった? イリスさん、帰り送るよ」
「大丈夫ですよ、すぐ近くなので」
「もう暗くなってきているから」
「でも、エクトルさんお仕事から帰ってきたばかりですし」
押し問答する二人に、ルロワ夫人が「エクトルに送らせてやってちょうだい」と半ば呆れたように声をかけた。
エクトルは指輪を小物入れに放り込み、恐縮するイリスの背を押して店を出た。
♢
夕暮れの道を並んで歩く。
エクトルが隣のイリスに視線を向けると、彼女が胸元に着けているブローチが目に入った。
花のモチーフ、赤いルビー。
「それ。出来上がったんだね」
「あっ、そうなんです! これを見てもらいたいと思って今日着けてきたんです」
それはもともとはエクトルがイリスに会いに行く言い訳に使ったルロワ夫人のペンダントだ。
二輪の花の花弁を模していたルビーが一部落失していたので、小さな花弁が集まったような一輪の花に見立てて、仕立て直してもらっていたのである。
イリスは嬉しそうにブローチを撫でた。
「とても可愛らしいです。本当にありがとうございました」
「……そうだね、可愛い」
イリスは恥ずかしそうに俯いた。含みを持たせたエクトルの言葉に気付いたらしい。染まった頬は夕焼けだけのせいではないようだ。
エクトルはもう一度、可愛いなあと思い、笑みを漏らした。祖母の持ち物であったルビーを気に入ってくれてよかったと思う。
「……イリスさんの一番好きな宝石ってなに?」
ふと思いついた疑問を口にすると、イリスは目を瞬いて、首を捻った。
「なんでしょう……」
歩きながら、ゆっくりと周りに目を向ける。
赤く染まっている空や、葉の落ちた枝。調理の匂いのする家に目をやったかと思えば、家路を急ぐ子どもたちを視線で追う。
イリスは周りをよく見ている。目がいいし、音も匂いも感覚が優れているようだ。
周りを観察しながら、頭の中では種々の宝石を思い浮かべているのだろう。エクトルはその様子を見つめていた。
少しの間考えていたイリスの視線は、最後にエクトルに向けられた。
目が合って、彼女は何かに気付いたような顔をした。
首を傾け、エクトルが答えを促す。
「やっぱり宝石といったらダイヤモンド?」
すると、イリスも同じように首を傾けた。
「ダイヤモンドも好きですが……、サファイアも好きですね」
その答えに、エクトルは瞠目した。
イリスが何を見てその答えを出したのかが明白だったからだ。
途端に気恥ずかしくなり、エクトルは顔を背けた。顔に血が上っているのが自分でも分かる。
「……それは……、どうもありがとう」
告白されたような気になって思わず礼を言えば、イリスはハッとして口を手で覆った。
夕焼けでは紛れないくらい、みるみるうちに耳まで赤くなる。
「違いますよ、いや、ええと、違わないですけど……」
今の発言は無意識だったのだろうか。
もごもごと言い淀み動揺するイリスに、エクトルはくすくすと笑った。
「じゃあまあ、また今度答えを聞かせて」
「んんん……」
恥じらう姿が愛おしくて、そっと手を取った。
そのまま夕暮れの道をゆっくり歩く。
しばらく恥ずかしそうにしていたイリスだが、家が近付いてきて顔を上げた。
「私、色々な宝石が好きですけど……、でもエクトルさんに贈るならエメラルドですね」
「え、なぜ?」
イリスは、ふふふと笑っただけで答えを告げぬまま、「送ってくださってありがとうございました」と礼を言い、家に入って行った。
エクトルは疑問に思いながらも来た道を帰った。ぬくもりを失った手が寒かった。
数日後、イリスの言っていたことが気になったエクトルは王宮の書庫で鉱物の図鑑を開いた。なにか含みを持たせた言い方。きっとなにか理由があるはずだ。
目的の項目を探す。
――エメラルド、エメラルド、エメラルド――
見つけたエクトルは、その項目を指で追ってから、固まった。
それから「ううう」と呻いて、本に顔を突っ伏した。
エメラルドの石言葉
『愛の成就』
《 おしまい 》