5、イリスの恋は虹色
机の端に飾られた薔薇の香り。
黒インクの匂い。
紙をめくるときの擦れる音。
声。
「――『夏祭りは天気もよく、星も綺麗に見えました。エルキュールは結局家に帰ってきて一緒にご飯を食べました』」
ルロワ夫人が帰ってきて、いつもの日常が戻った。
百合の季節は終わったので、今は薔薇が飾られている。レモンも以前の控えめな香りのものに戻った。
だが、イリスの気持ちは晴れない。
エクトルに会えなくなってしばらく経つ。ルロワ夫人は急に交代したことに恐縮していたが、イリスは問題ありませんでしたよ、と感謝を述べた。実際、エクトルが担当の間、特に困るようなことは生じなかった。
彼は王宮での仕事に戻ったらしい。そうすると、店で会うことはない。かといって、彼がどうしているかルロワ夫人に聞くのも気が引ける。
「――イリスさん、大丈夫かい?」
ぼんやりしていたイリスは声をかけられて我に返った。丸眼鏡の奥からサファイアの瞳が心配そうに見つめている。
「大丈夫です、すみません。少しぼんやりしていました」
「体調が悪いんじゃないかい?」
「いえいえ」
あなたの孫に懸想してます、とは言えず、イリスは居住まいを正して祖母への手紙の内容を考え始めた。
ルロワ代書屋を出て街をぶらぶらしていると、パン屋から美味しそうな匂いが香ってきた。しかし買う気にはならない。
現金なものだ、とイリスは自嘲した。
少し前までは、道に咲く花も、晴れた空も、店で見る宝石も何もかも光り輝いて見えていたのに、今ではどうでもいい。褪せて見える。
綺麗な服を買ってみたりもしたが、もう特別な人に会うことはないし、何を着たってどうせ中身は同じだ。
はああ、とため息をつきながら、帰り道にあるルベール宝石商を通りかかった。
イリスは今日は休みだが、店は開いている。結構客が入っているなと思っていると、見覚えのある姿を見つけてイリスは目を疑った。
エクトルが、店にいる。
(えっ! なぜ!?)
建物の陰に隠れ込み、覗くように店内を窺うと、彼は非常に難しい顔をしてショーケースを見つめていた。
同僚でもある店員が説明しているようだ。彼の視線の先には宝飾品。
いよいよイリスはその場にくずおれた。
「あああぁぁ…………」
やはり恋人がいるのだ、彼には。
見たこともないような険しい顔をして悩んでいる。きっと素敵な女性に贈り物を選んでいるのだろう。
そもそも彼は王宮勤めなのだから、美しい女性に囲まれて過ごしているはずだ。自分のような冴えない女ではなく。
せめて相談してくれたら。その人にぴったりの宝石を紹介出来るのに。
(ああ、でもいざそんなことになったら、その場で泣くかも)
見ているのが辛くなり、イリスはよろよろと立ち上がってその場を後にした。
家に帰り、荷物を放り出して寝台に突っ伏す。眠気はないが、脱力して動けなくなった。
(忘れられるかしら……)
思い返せば、エクトルのように惹かれた男性はこれまでにいない。だから、人を好きになることでこのように気分が乱高下するだなんて知らなかった。
ここ最近は四六時中、彼のことを考えていたように思う。それに引っ張られるように、毎日が明るく、楽しかったのだ。
また以前のように戻れるのだろうか。どうやったら気持ちに踏ん切りをつけられるのだろう?
(出来ないかも)
時間が気持ちを風化させるのかもしれない。
しかしこのままではきっと、初めての恋は苦く暗い思い出として永く心に残るだろう。中途半端に終わってしまった片想いと自分の不甲斐なさに、きっと哀しくなる。
――それは嫌だ、とイリスは思った。
恋している間は幸せだった。それは事実だ。
せっかくの初恋なのだ。この気持ちが朽ちるまで、行き場のないまま雑に放り出すわけにはいかない。
美しい宝石を大切に扱うように、初めての気持ちを丁寧に終わらせて心にしまいたい。
イリスはがばりと寝台から起き上がり、机に向かった。
めったに使わないペンを取り、とっておきの便箋を引き出しから出す。固まったインク瓶のふたをメリメリと強引に開け、まだたっぷりあるそれにペン先をつけた。
その日、イリスは一晩かけて恋文を書き上げた。
宛先はルロワ代書屋だ。
♢
イリスはいつも通り、ルベール宝石商にいた。
今日は客も少なく、アーサーは入口近くの陽当たりの良い場所で欠伸をしている。
勢いで書いた恋文をエクトルに送り付け、イリスの気持ちは晴れていた。
突然ひどい悪筆の恋文を送り付けられて彼は困惑しているかもしれないが、イリスの中では一応、区切りがついた。行き場のない恋心を(一方的に)伝えることは出来たからだ。
エクトルに会う前のように戻るには時間はかかるかもしれないが。
オーナーから鑑別依頼を受けたヒスイを半ば晴れ晴れとした気持ちで拡大鏡越しに見ていると、「ニャン」というアーサーの鳴き声が耳に入った。
いらっしゃいませ、という同僚の声と共に顔を上げる。
そこには、エクトルが立っていた。
琥珀色の髪、サファイアの瞳。走ってきたようで、肩で息をしている。しかも出勤前なのか、紺色の制服姿だ。
イリスは呆気に取られて、持っていた拡大鏡をぽとりと落とした。
「……イリスさん、手紙を受け取りました」
「え、ああー……、すみません」
手紙、の言葉にどきりとしたイリスは、彼が難しい顔をしてやってきた理由が分かった。返事はいらないと書いたのだが、文句を言いに来たのだろう。
自分なりに丁寧に書いた手紙だけれども、普通の人からすれば読めない手紙は嫌がらせだ。
額を押さえるイリスに、エクトルは呼吸を整えつつ、声をかけた。
「少し話をしてもいい?」
「……どうぞ」
「ええと……、もし大丈夫だったら、外で」
「?」
客がいないので、先日彼が座ったのと同じ向かいの席を示したが、エクトルはわずかに頬を染めて気まずげにイリスを見つめる。
もしや罵倒されるのだろうか。だから場所を変えたいのかも、とイリスが顔をこわばらせると、エクトルは意を決したように口を開いた。
「……これから僕は一世一代の告白をしようとしているけど、ここでもいい?」
「はっ??」
思わぬ言葉に仰天し、腰を浮かしかける。聞き間違いだろうか。しかしエクトルは真剣な表情で、イリスを見つめる。
イリスは冷やかしの目を向ける同僚に断りを入れ、店を出た。
わずかに風の吹く広葉樹の下で、エクトルはイリスの手紙を懐から出した。風と共に、遅咲きのラベンダーの香りがする。
郵便に出したのはつい先日なので届いたばかりのはずだ。読んで、ルベール宝石商に飛んできたということだろう。
「イリスさん、手紙ありがとう」
「え、ええと……、すみませんでした。よ、読めました……?」
「読めたよ」
エクトルが愛おしそうに手紙を撫でる。イリスは落ち着かない気分になった。誤字、脱字、綴り間違い、見直したけど必ずあるはずだ。おまけに字が汚い。
しかしエクトルは微笑んで、イリスに視線を向けた。
「……嬉しかったです。僕も店でのイリスさんとの時間が楽しかった。だから最後の日、これきりじゃ寂しいと思って声をかけようとしていたのに、うまくいかなかったんだ」
最後に会った日、帰り際に彼が何かを言いかけていたことを思い出す。自分と同じように思ってくれていたことを知り、イリスは胸が詰まり、言葉が出なくなった。
「イリスさん、好きです。もしよかったらこれからも会ってもらえませんか」
ついさっきまでは思ってもいなかった言葉をかけられ、頭の中が沸騰しそうになる。
しかしそのとき、ルベール宝石商で見かけた彼の険しい顔が脳裏をよぎった。
「でもエクトルさん、恋人がいるんじゃ」
「え、いないけど」
「見てましたよね、宝石を」
イリスの言葉の意味を理解したエクトルは「ああ、知ってたんだ」と照れ臭そうに頭をかいた。
「あれは君に何か贈りたいと思って。でも極上の宝石を見ている君に僕が買えるくらいの宝石を贈るなんて、宮廷料理人に家庭料理を出すようなものかと思ってやめたんだ」
「そ、そうなんですか…………って、私なんか上級役人さんに個人的な手紙を読んでもらってたんですが!?」
「いいんだよ」
ははは、とエクトルが朗らかに笑う。それを見たら、イリスも肩の力が抜けた。
手紙をしまったエクトルは、風になびくイリスの髪を右手ですいた。
「イリスさんと会って話をしたくて色々考えていたら君の方から手紙が来たから、焦って大急ぎで来たんだ。本当は僕が先に告白したかった」
わずかに耳をかすめた彼の指が温かい。知らなかった感触と今の言葉でどきどきし、イリスは俯いた。
「……いいんですか。わたし、本も読めないんですよ」
「僕が代わりに読んであげる。得意だから」
「字を書くのも苦手ですし……」
「幸い、僕はそれも得意だ。他には?」
「…………私も好きです」
エクトルは「嬉しい」と呟き、二人は見つめ合って微笑んだ。
揺れる自分の髪。同じように揺れる琥珀色。
彼の指輪。頭上でなびく広葉樹。サファイアの瞳。
目の前の制服。ラベンダーの香り。
イリスには、世界が輝く七色に見えた。
♢
「へえ、少しいない間にそんなことになっていたんだねえ」
興味津々のルロワ夫人の視線から逃れるように、イリスは染まった顔を背けた。
白状したわけではないのに、エクトルとのことをすでにルロワ夫人は知っていた。彼が告げたのか、はたまたルベール宝石商でのことが噂になってしまっているのか。
「す、すみません」
「とんでもない、嬉しいよ。はい、これどうぞ」
「……ありがとうございます、嬉しいです」
ルロワ夫人はにこやかに頷いた。
イリスの手の中には二輪の花を模したペンダント。以前、エクトルの依頼で鑑別したものだ。
エクトルとの会話の中で、あのルビーのペンダントが素敵だったと話をしたら、譲り受けることになったのである。石が欠けているため二人で相談し、モチーフはそのままでリメイクする予定だ。
大好きなルロワ夫人の宝石。イリスはそっとペンダントを撫でた。
「おかしいと思ったんだよねえ。いきなりエクトルから手紙が来て、この壊れたペンダントをくれだなんて言うから」
「えっ?」
「あ、知らなかったかい?」
しまった、という顔でルロワ夫人が舌を出す。
エクトルがルベール宝石商にペンダントを持ってきたとき、「家を片付けていたら出てきて、祖母からあげると言われた」と言っていた。
しかもその理由は「祖母から家を片付けろと言われて」だったはずだ。
――あれは、すなわち。
「ただいま」
帰宅したエクトルが店の奥から出てきた。今日はルロワ夫人への依頼の後、食事の約束をしていたのだ。
にやけているルロワ夫人を見たエクトルは「余計なこと言わないでよ」と告げたが、彼女は片眉を上げて目を逸らした。意図的ではないものの、『余計なこと』はすでに一つ明かされてしまっている。
イリスは唇を噛んで顔がにやけるのを堪えた。
自分と同じように、彼も恋に悩んでいたということが嬉しい。
その様子に首を傾げたエクトルだが、指輪を外して机の小物入れに放り込んだ。それからその手をイリスに差し出す。
「お待たせ、イリスさん。行こう」
「はい」
イリスは、大きな手に自分の手を重ねた。
《 おしまい 》