4、最後
食事を共にしてから数日後。
イリスは祖母からの手紙を手に、ルロワ代書屋を訪れていた。
あいにく天候は雨。傘を畳んで店先に置かせてもらう。上着を脱いで水滴を払い、扉を開けたが、店内には誰もいなかった。
「……留守かしら」
普段ならいる時間帯なのに、と首を捻ると、すぐ後ろの扉が開いてエクトルが入ってきた。
両手に袋を抱えており、傘をさせなかったらしい。大きなローブを魔法使いのように頭からかぶっている。
「あ、いらっしゃい、イリスさん」
「こんにちは。ご都合悪かったですか?」
「ううん、ちょっと近所に呼ばれて出てただけなんだ。どうぞ」
エクトルはどかどかと店に入り、抱えていた大きな袋を作業机の上でひっくり返した。すると真っ赤な林檎がごろごろと転がり、机の上に広がった。
「ちょうどよかった。イリスさん、林檎もらってくれない? 頂いたんだけど多すぎて」
「いいんですか?」
「助かります。袋に入れるから少し待って」
机の脇から小ぶりの紙袋を取り出し、林檎を三つほど放り込む。
その袋を差し出しながら、エクトルはにやりと笑った。
「なんか白雪姫みたいだね」
イリスは首を傾げたが、エクトルと自分の姿を確かめて気付いた。
今日のエクトルは雨除けの真っ黒のローブを頭から羽織り、自分はオフホワイトのワンピース。つまり、彼は魔女だ。
ぷっと吹き出したイリスは、林檎でぱんぱんの袋を受け取った。
「私は白雪姫だなんて可愛らしい人間じゃありませんよ」
「そんなことない、イリスさんは可愛いよ。鏡に聞いてごらん」
「それ、私が魔女側になっちゃいません?」
可愛いだなんて自然に言われて一瞬どきりとしたものの、冗談めかして返し、笑い合って席に着く。
ローブを脱いだエクトルは机の上の林檎を別のカゴに移し、そのうち一つを手にした。
「毒林檎じゃないから安心して。むいてくる」
奥の部屋で林檎を一つむいて、エクトルは戻ってきた。ガラス皿に綺麗に並べられた林檎から、爽やかな香りがする。
「食べながらやろう」
そう言って一欠片口に放り込み、あっという間に咀嚼し飲み込んでから、手紙を開いて読み始めた。
「──『イリスへ。元気ですか。おばあちゃんは腰が痛いけど元気です』」
今日はいつもと違って果物の香りがする。
少しだけ目を閉じてみたら、彼の声はとても心地よく聞こえた。そのまましばらく目をつむって声に集中する。
「──『夏祭りに向けてエルキュールも頑張り始めています。毎年のことだけどどうせ無駄なのにね。女の子に片っ端から声をかけ、つれない態度をとられ、いじけ、終いには女なんてと嘆き……』」
しばらくも経たないうちにエクトルの声が震えだしたので、イリスは目を開いた。どうやら笑いを堪えていたらしい。肩も震わせている。
「……ご、ごめん。笑ったらいけないって分かってるんだけど、おばあさんの書き方が辛辣で可笑しくて。このエルキュールって誰?」
「弟です。惚れっぽくて女の子に声かけては振られてばかりの、うちの跡取りです」
きりりと告げるイリスに、エクトルは耐えきれずに声を立てて笑った。
夏祭りはカップルで行くことが多い祭りだが、例年、弟には彼女がいない。祭りに間に合うようにとこの時期から恋人作りに勤しむのだが、振られてばかりだ。
姉から見ても「こいつ彼女が欲しいだけだな」という軽薄さがみえみえなのである。弟の恋活は我が家の夏の風物詩だ。
エクトルはしばらく笑った後、滲んだ涙を指でこすった。
「ご、ごめんね、笑って。虹の女神の弟が英雄で最高にかっこいいのに、惚れっぽいっていうのがなんか面白くて」
「名前負けしてますよねえ」
するとエクトルはハッとしてから渋い顔になり、首を横に振った。
「いや、ごめん、僕は人のことを笑えない。僕の方が名前負けしている。なんて言ったって、こんな形して戦士だからね」
「エクトルさんは素敵ですよ」
ぽろりと口から溢れた言葉に一瞬イリスはしまったと思ったものの、社交辞令に聞こえたらしい。エクトルは苦笑してありがとうと言い、代読に戻った。
でも、事実だとイリスは思う。確かに戦士というには温和かもしれないが、彼は優しくて、素敵だ。
きっと弟とは違って女性に振られるなんてことはないだろう。既婚者ではないようだが恋人はいるかもしれない。だが、それを確認する勇気はない。
「──『まだ先の話になりますが、今年の終わりには帰って来られるのでしょう? 楽しみにしてます』」
ぼんやりしていたら代読が終わった。
エクトルは手紙をイリスに渡すと、机の引き出しから代書用の紙を取り出し、かぶせてあったインク瓶の蓋を外した。イリスの好きな香りがふわりと漂う。
「さて、イリスさん、どうぞ」
「はい。おばあちゃん、腰の具合はどうですか、私は元気です」
もし自分が弟のようにガッツがあれば、エクトルに恋人の有無を聞くことが出来る。いや、そんなまだるっこしいことをしないで、すぐに告白するかもしれない。
きっと彼はこちらの気持ちなど一切気付いていないだろう。客だから優しくしてくれるだけで。告白などしたら気味悪がられるだろうか――。
イリスの声に合わせ、カリカリというペンの音。
「エルキュールは相変わらずですね。でも彼には友人が多いから彼女が出来なくてもお祭りは楽しめるでしょう」
「……はい」
「…………こちらには夏祭りはありませんが、都暮らしも楽しいです。素敵な人にも出会えました」
ほんの少し気持ちを漏らした言葉に彼が反応してくれるかとちらりと窺い見たが、エクトルは何の反応も示さなかった。
イリスはほっとした気持ちとがっかりした気持ちがないまぜになって、気を紛らわすように林檎に手を伸ばした。
便箋二枚分の代書を終え、エクトルはいつも通り判を押した。それを丁寧に封筒に入れ、イリスに差し出す。
「そうだ、祖母が帰ってくるよ」
その言葉に、イリスは手を出したまま固まった。
「えっ?」
「手伝いに行っていた先で産後、赤ん坊と母親も落ち着いて生活が回るようになってきたみたいでね、連絡があったんだ。来週には戻るから、次回からは祖母に戻るよ」
「そ……、そうですか……。それはよかったですね」
ルロワ夫人が帰ってくる。
すっかり頭から抜けていた。そうだ、彼は期間限定だったのだ。
ということは、会えるのは今日が最後。
「しばらくの間、こんな男の声での代読だったけどごめんね。イリスさん、ありがとうございました」
「こ、こちらこそ……」
急な話に頭がついていかない。
ルロワ夫人が帰ってくることは大変喜ばしい、歓迎すべきことだ。自分も待っていたし、エクトルは王宮での仕事に戻らなければいけないのだから。
しかし、彼に会えるのは今日が最後。
(……最後……)
ショックだ。
代読、代書も終えた最後のこのタイミングで告げたということは、エクトルの方は自分とのこの時間に何も特別意識などないということだ。
イリスはこの時間が好きだったし、会えなくなるのが名残惜しい。でもエクトルはそんなこと思っていない。普通である。
すなわち、これは失恋ではなかろうか。
イリスは声が震えないように気を付けながら、頭を下げた。
「あ、ありがとうございました。エクトルさん、お世話になりました」
「いいえ、少しの間だったけど、僕は楽しかったです。それで、イリスさん――」
その時、ドアベルと同時に客が入ってきた。
「エクトル、ごめん急ぎなんだけど」
「えっ、はい」
男性がずかずかと入ってきて作業机に書類を置く。
彼は一体何を言いかけたのだろう。しかし確認することも出来ず、イリスはもう一度頭を下げて店を出た。