3、恋
イリスは自覚した。
自分が恋をしていることを。
先日のことがあって以来、祖母の手紙を持ってルロワ代書屋に行くたびに、どきどきし、わくわくし、そわそわする。
エクトルの声を聞き、代書する姿を眺めてときめく。帰った後もわずかな会話を反芻し、にやにやしてしまう。
イリスは物語を読まないが、これが一般的に言われる恋であることは分かった。過去に経験したことはないが、とても幸せな感情だ。
なぜだろう。道に咲く黄色い花も、雲のない青い空も、いつも見ている赤い石も、普段よりも明るく輝いて見える。
華やかな服を着て、髪を上げ、美味しいものを食べようかなという気になる。
パン屋の香ばしい匂いで「彼は何を食べているだろう」と想像し、職場で金合金の指輪を見かければ彼の指を思い出した。
完全に脳内が埋め尽くされていることは自覚している。
とはいえ、祖母の手紙の代読、代書がなければエクトルに会うことは出来ない。
理由を付けて会いに行くことは可能だが、忙しい彼の仕事を増やしたくないし、この穏やかな関係を壊したくはない。
イリスは初めての恋をこっそり楽しんでいた。
しかしある日、エクトルの方がやってきた。
いつも通りルベール宝石商にいた日。
「ニャン」という猫のアーサーの声と同時に店に入ってきた人物に、イリスは目を見張った。長身に琥珀色の髪、サファイアの瞳。
(えっ! なぜここに!?)
彼は店の中をきょろきょろと見回すと、少し奥まったエリアに座るイリスを見つけて微笑んだ。
「こんにちは、イリスさん」
「こ、こんにちは……」
「イリスさんに鑑定してもらうことは出来る?」
「出来ますけど……」
ルベール宝石商は宝飾品の販売がメインだが、一般客の宝飾品の持ち込みも対応している。鑑定士が宝飾品を鑑別し、客との希望が合致すれば買い取っているのだ。
ルベール宝石商の他の鑑定士はオーナーについてあちこち買付に行ったり、宝飾展やマーケットに出向いて仕入を行ったりしている者もいる。
一方でイリスは店に常駐し、やって来る卸売店や一般客の対応を担当していた。
エクトルがイリスの作業机の対面に腰掛けると、彼の足元にアーサーがすり寄ってきた。
「あ、君が噂のアーサーさんだね。さっき、確かにニャンと鳴いたね。本当に言葉が分かるのかな」
エクトルは左手の小指に着けていた指輪を外して机に置き、足元のアーサーを抱き上げた。顔の高さまで持ち上げてから膝に乗せ、喉元を撫でる。
アーサーはそれが気に入ったようで、そのまま彼の膝の上に収まった。
普段は客に寄ってこないアーサーが大人しく抱かれているのにも驚きだが、イリスはエクトルの行動の方に思考を持って行かれた。
──今、彼はわざわざ指輪を外した。
指輪が汚れるかもしれないと気にした? いやきっと、抱き上げるアーサーを指輪で傷付けないためだ。
(ひょっとしたら、人に触れるときも……)
指輪を外したエクトルの手が自分の髪を撫でる姿を頭の中で想像してしまい、かーっと顔に熱が集まった。
疚しい想像を追い払うように、頭をぶんぶんと大きく振る。
「? イリスさん?」
「な、何でもないです! 物は何でしょう!?」
赤くなった頬を誤魔化すように手で覆い、イリスはエクトルを促した。
彼が出したのは、ペンダントだった。
五つの赤い宝石が花弁のように円形にセットされ、それが花に見立てられて二輪、繋げられている。
一部の宝石は落失したのだろう。花弁の一部と、その中央は空洞になっていた。
「家を整理したら出てきたんだ。僕が代理で仕事している間に片付けろって祖母がいうものだから──で、手紙で聞いたら、昔、祖父からもらって使っていたものだけど、石をいくつか落としてしまったので仕舞っていたって」
大切に使われ、大事に仕舞われていたのだろう。宝飾品としての作りは甘いものの、一部の石が無い以外は綺麗な状態だ。
「壊れているけどあげるって祖母から言われて、どうせならイリスさんに見てもらおうかなと思って持ってきました」
「へえ……可愛いペンダントですね。では失礼します」
断りを入れ、ペンダントを手に取る。裏返し、裏面の仕上げの程度を見て、それから拡大鏡でペンダントを覗き込んだ。
石の大きさ、カット方法、濃淡、内包物を確かめ、仕立ての詳細を確認する。しばらく眺めてから石を布で擦り、布側をしげしげと眺めた。
「……それは何をしているの?」
「安価なイミテーションだと、透明の石に色を着けているだけのものがあるんです。でもこれはイミテーションではないですね。本物の天然ルビーだと思います」
「ルビー!」
イリスは頷くと、机の横にある棚からたくさんの赤い輝く石が並んだ標本を取り出した。
「それは?」
「これはクオリティスケールといって、宝石の品質の比較表のようなものです」
上質なものほど色が濃く、鮮やか。イリスは標本の中央から下あたりを指差し、ペンダントの石と比べた。エクトルもそれを覗き込む。
「ばらつきはありますが、このルビーの品質はこの辺りです。ペンダントの仕立ては甘いです、石を落としてしまうくらいなので。でもきっと大切に使っていらしたんだと思いますよ。傷は少ないです」
「うん」
「どうしますか? より詳細な分析が必要なければ、買取させて頂くことも出来ますし、石だけ使って他の装身具にリメイクも出来ます」
エクトルは少しだけ考え、首を横に振った。
「持ち帰って少し考えようかな」
「承知しました。ではここでお出しできる鑑別書だけ作成しますのでお待ちください」
標本と拡大鏡を片付け、代わりに書類を取り出す。
「鑑定書じゃないんだ?」
「鑑定書はダイヤモンドだけに発行される証明書で、基本的に石の詳細を記載する証明書は鑑別書というんです」
「へえ……」
文字の見本書も広げ、それを見ながら丁寧に必要事項を記載していった。
手には先日エクトルからもらった筆記の補助器具を使っている。それを見た彼は目を細めた。
「それ、使ってくれてるんだね、ありがとう」
「こ、こちらこそありがとうございます。とても書きやすくて愛用しております」
実際、以前より力を入れる必要はないので楽なのだ。
「ただ、書くのはやっぱり遅いので少しお時間をください」
「もちろん」
エクトルは膝の上のアーサーの頭を撫でている。普段と逆の立場になってしまい、妙に気恥ずかしい。いつもは自分があちら側なのに。
彼がアーサーに夢中になっている間に急いで書類を仕上げようと思うと焦ってしまい、記載事項はわずかなのにやたらと手間取ってしまった。
「お待たせしました、出来ました」
イリスが書き上げたその時、昼を告げる鐘が鳴った。アーサーがエクトルの膝からひらりと降りる。ご飯をもらいに行くのだろう。
エクトルは鑑別書を懐にしまいながら立ち上がった。
「鑑定ありがとうございました。イリスさん、よかったらお昼を一緒にどう?」
「えっ!?」
「みなさんお昼休みでしょう?」
基本的に昼休みは客も来ないので皆、休憩だ。周りの店員も警備以外は引き上げようとしている。
まさか彼と食事を共にすることになるとは。
イリスはどきどきしながらも頷き、エクトルと共に店を出た。
♢
二人はルベール宝石商近くのレストランに入った。
一種類しかないランチメニューを注文して待つ。彼は先ほどの鑑別書を懐から取り出し、にこにこと眺めている。改めて自分の字を見られるのは、なんだか居心地が悪い。
「……字が汚くてすみません……」
「え? いいえ全然。本物のルビーだったなんて、なんか嬉しくて」
そう言うと、エクトルはイリスに視線を向けた。
「君の色だ」
サファイアの目線に晒され、恥ずかしくなったイリスは目を伏せた。
別にこんな赤毛、綺麗でもなんでもない。なのにそんな言い方をされると、まるで特別なもののように聞こえてしまう。ルビーはもっとずっと高貴なものなのに。
「……イリスさんの書く鑑別書は大体この書式?」
「え?」
エクトルはまた鑑別書に目を落とし、イリスの記入した項目を指でなぞっている。
「いや、書くことが大体決まっているなら、毎回書かなくてもいいんじゃないかなって。もし書類書きが大変なら、例えば、よく使う言葉は判子にするとか」
「判子?」
「ええ。今日書いて頂いたこの石の種類、コランダムって言葉。よく鑑定する石がもし決まっているなら、その判子を準備しておけば書く手間が省けるよ」
ルベール宝石商で扱う鑑別書の書式は統一されている。
鉱物の種類、宝石名、重量寸法、カット形式、色や光沢など。宝飾品として持ち込まれたものは石単体の検査が出来ないので記入できない項目もあるが、概ね記入することは決まっていた。
鑑別依頼のある鉱物もそんなに種類はない。
ダイヤモンド、コランダム、ベリル、クリソベリル、ヒスイ──。記載する宝石名も、定番は決まっている。
「判子……」
確かに、よく記入する鉱物の判子を一式用意しておけば、見本書を見ながら一文字一文字慎重に書く手間は省ける。良いアイデアのように思えた。
「……判子ってどうやったら手に入るでしょう?」
「印刷屋が活字を扱ってるから、依頼すれば作ってくれるよ。あとは彫ってもらうとか。これみたいに」
そう言って左手を差し出す。小指にはシグネットリング。確かに、判子だ。
「あ、これならうちで伝手のある職人さんにお願いしたら作ってもらえそうです」
エクトルが微笑んで頷くと、料理がやってきた。
ひよこ豆と鶏肉の煮込みスープ、硬めの白パン、蒸した野菜、それにナッツの入ったタルト。スープは出来立てで湯気が上がっている。
「美味しそうだ」
エクトルはにこにこと微笑み、また指輪を外して懐に入れた。
それを見たイリスは、先ほど店で空想してしまったことを思い出して、恥ずかしさから唇を噛んだ。
どうかしている。彼のわずかな仕草からいけない想像をしてしまうなんて。
自分を叱責し、エクトルに分からないよう咳払いをしてカトラリーを手に取った。