2、きっかけ
――カリカリカリ。
ペンの走る音。
黒インクの匂い。わずかなレモンの香り。
目の前の青年。
「イリスさん、どうぞ」
「アーサーさんは涼しい場所をよく知っています。店の中の風が通る場所でのんびり過ごしています」
「はい」
「それでアーサーさんは最近、人間の話していることが分かるようです。お客さんが来るとニャンと鳴き、お帰りの時にはニャアと鳴くのです」
「…………本当に?」
「本当ですよ」
手はそのままで視線だけ向けてきたエクトルに、イリスは鷹揚と頷いた。「絶対に分かっています」と添えると、彼は小さく笑って紙に目を戻す。
「いつかおばあちゃんにも会ってもらいたいです。……宿は繁忙期でしょう。腰を大事にしてください。イリスより」
「おしまい?」
「はい」
途切れることなく喋っていたので水が欲しい。
イリスは机の上の水差しに手を伸ばしたが、エクトルがそれをひょいと取り上げた。
「僕がやるよ」
「ありがとうございます」
輪切りのレモンの浮かんだ水はとても冷たい。ただ、それまでのものよりも少し、香りも酸味も強いように感じた。
「気付いた? 実は祖母が買い置きしていたレモンが切れて新しいのを買ってきたんだけど、どうも以前と違うようで」
「こちらも美味しいですよ。ルロワ夫人は街のお店ではなく、西の市場で買っていると仰っていました」
「なるほど、どうりで」
イリスがごくごくと飲んでいる間に、エクトルは机の引き出しから新しく紙を出した。今、彼が記していた紙よりも上質のものだ。
「じゃあ少し待ってて」
「はい」
エクトルは「さて」と呟くと、先ほど書いた紙を傍に置いた。それを見ながら上質な紙にさらさらと書き写していく。今話した内容を清書していくのだ。
イリスはその様子を眺めていた。
エクトルに手紙の代読、代書を依頼するようになってしばらく経った。
彼は祖母であるルロワ夫人と同様、ただ穏やかに仕事をしてくれている。
目をつむって代読を聞いているのはなぜか恥ずかしいような気持ちになるので開けたままだが、彼の声を聞いているのはとても好きだ。いい声だなあと思う。
代書人だけあって、エクトルは非常に美しい字を書いた。本人曰く、書類によって字体を変えているという。
イリスの手紙は柔らかい字体にしていると言ったが、その違いはイリスにはよく分からない。
しばらくして、二枚の便箋が出来上がった。
左手の小指から指輪を外し、手紙の末尾、隅の方に判を押す。代書の印だ。エクトルは指輪を机の隅に置き、手紙を差し出した。
「お待たせ、出来たよ」
「ありがとうございます」
イリスが受け取ろうとしたところで、ドアベルが鳴った。扉が開き、入ってきたのは熟年の女性だった。
「エクトルさん! これ見てちょうだい!」
エクトルが返事をする間もなく、女性は一直線に作業机にやってきた。場所を空けるよう、イリスは身を引く。
女性は両手より少し大きいくらいの箱を開け、ずい、と中を見せた。
「これ!」
「な、なんですか?」
箱の中身は多数の宝飾品だった。
指輪が数点と、ペンダントにブローチ。赤、青、緑、あるいは無色の光り輝く石が装身具に嵌まっている。
「すごいでしょう、屋根裏部屋から出てきたのよ。数代前に上位貴族にお嫁に行った娘がいるって言ったでしょ。きっとその時のものだと思うのよ」
「はあ」
「それでね、前に作ってもらった相続書類にこれも追加してもらいたいわけ」
「ええっ」
慌てるエクトルを尻目に、女性は大きな緑色の石の指輪を自らの指に嵌めて掲げる。
「これなんかすごいと思わない? こんなに大きなエメラルド。美しいわあ」
「ええと、相続書類を変更するのは大変ですよ。作成した時も関係者全員に集まってもらいましたよね。変更するなら同様の手続きが――」
「なによ、減らすわけじゃなくて増やすんだから、ちょちょいと追記してくれたらいいじゃない」
「そういうわけには……」
イリスは状況を理解した。
彼女は自分と同じ、エクトルの客だ。どうやら、新たに出てきた宝飾品を彼が取りまとめた相続書に正式な財産として加えたいらしい。
うっとりと指輪を見つめる彼女に、イリスはそっと声をかけた。
「失礼、素敵な宝石ですね」
この人誰、という視線をエクトルに向けた女性に、彼は「ルベール宝石商の鑑定士さんです」と告げる。
「マダム、せっかくですから、うちで鑑別させて頂けませんか? 相続するにしても、価値を明確にしなければなりませんよね?」
イリスが同意を求めてエクトルに目をやると、彼は真剣な顔で小刻みに頷いた。イリスは宝石を指して続ける。
「それに宝飾品の価値は変動しますから、ものによっては今のうちに換金してしまった方が良いかもしれませんよ」
「そうなの?」
「ええ。もし本物でなくても、出来が良ければお金になるかもしませんし」
女性は「うーん」と首を傾げてから、頷いた。
「じゃあそうしようかしら。確かに価値が分からないとダメよね。私、見つけて興奮したまま来ちゃったものだから。ごめんなさいね」
「いえ、よかったらルベール宝石商へどうぞ」
納得した女性は箱をしまい、店を出て行った。
扉が閉まり、エクトルがほーっと息をつく。
「ありがとう、イリスさん。助かった」
「いえ」
「それにしても驚いた。あの宝石、本物だったんだ?」
「いいえ」
「えっ!?」
目を剥いたエクトルに、イリスはくすくすと笑った。
「少なくとも、あのエメラルドはイミテーションでした。エメラルドはベリルという鉱物なんですが、無色のベリル二枚の間にグリーンガラスを挟んだだけの、よくあるやつですね」
「そうなんだ……」
このイミテーション手法は、ぱっと見は分かりづらい。しかし先程の指輪は石を固定する爪から石座までが雑で、石のサイドが覗いて見えたので分かったのだ。
「よく分かったね、本職は凄いなあ」
「いえ……」
手放しでエクトルから褒められたものの、イリスは浮かない顔で俯いた。
「……私にはこれくらいしか取り柄がないのです。読み書きすら出来ない落ちこぼれですもの」
誰に褒められてもそうだ。素直に喜べない。
逆に、これしか出来ることはないのだから。
石の良し悪しを見極めるのは得意だ。経験も長い。
オーナーにも信頼してもらっているし、宝石の持ち込み客の評価も悪くない。
それでも、イリスにとって読み書きが不得手であることは大きなコンプレックスだった。
他の人が普通に出来ることが、自分には出来ない。
しかし、暗い表情で俯くイリスに対して、エクトルは明るい声を出した。
「いや、逆じゃない? 君は敏感な人だ。香りも、音も」
疑問に思ったイリスが顔を上げると、彼はレモンの浮いた水差しを指差す。
「さっきもレモンの変化に気付いたしね。感覚が鋭くて色々な情報が入って来るから、自然に取捨選択しているのかもしれないよ。他の知覚から得られる情報で十分だから、識字からの情報は必要ないという神の判断かも」
「え……」
「人よりも多くのものが見えているんだろうね。なんて言ったって、虹の女神だ」
その言葉に、イリスの心臓はどきりと跳ねた。
今までこの欠点を、そんな風に言われたことはない。いつもイリスは自分のことを劣っていると思っていた。
そうではなく、入ってくる情報が多いから。今のエクトルの言葉が心にじんわりと沁み込む。ただの励ましだとしても、劣等感がほんの少し薄れる。
むず痒いような、恥ずかしいような気持ちになり、イリスはまた俯いた。
(そうか、わたし、嬉しいんだわ)
胸の奥が熱くなり動けなくなったイリスだが、エクトルはそれに気付かず、冗談混じりにぼやく。
「いいなあ、君から見た世界は七色に見えるんじゃない? 僕なんて仕事の日は世界が灰色に見える」
「…………私だって他の人と同じですよ。仕事の日は憂鬱です」
二人で苦笑する。
するとエクトルは「あ、そうだ」と何かを思い出して、引き出しに手を伸ばした。
「確認書にサインしてもらわないと」
一枚の書類を取り出し、机に置く。手紙を代書した証をルロワ代書屋で保管するための確認書だ。
イリスは一瞬躊躇した。
というのも、彼の前で字を書くのは初めてなのである。今まで確認書にサインするときは、彼が目を離している隙に書いていた。悪筆なのはばれているが、汚い字を書くところを見られるのは少し恥ずかしい。
しかしエクトルはその場から離れようとしなかったので、諦めてそのままペンを手にし、必要な項目にチェックを入れてサインを記した。
すると突然、ペンを持つ手をさらに大きな手で包み込まれ、イリスは固まった。
速くなっていた鼓動が、さらにピッチを上げる。
(えっ!?)
「ああ、力が入りすぎているんだね。少し力を抜ける?」
エクトルはそう言うと、ペンを握りこむ手を揺らし、イリスの手の力を抜かせようとする。
しかし不可能である。温かい手のひらの感触が自分の指に伝わり、ますます力が入る。触れる長い指に異性を感じ、イリスはどきどきして余計に強張った。
そんなイリスの様子にようやくエクトルも気付いた。髪と同じくらい顔を真っ赤にした彼女を見て、慌てて添えていた手を離す。
「あっ、ごめん、失礼を。ああそうだ、ちょっと待ってて」
席を立ち、店の奥へ入って行ったエクトルを目で追い、イリスは脱力した。固まっていた手からころりとペンが転がる。
はああ、と息をついて突っ伏すと、耳まで熱くなっていることに気付いた。
(ど、どきどきした……)
彼はなぜああも自然に距離を詰めて来られるのだろう。異性に免疫のない自分がおかしいのだろうか。
あるいは、彼が非常に女性に手慣れた男であるという可能性もある。美しい人だし。
イリスが深呼吸していると、エクトルはすぐに戻ってきた。手には見たことのない小さな器具を持っている。
「これ、子ども用だけど持ち方が楽になれば少しは疲れないんじゃないかと思って。使ったことある?」
「いいえ」
それは筆記を学ぶ子どもが使うという補助具だった。ペンを持つときの指の位置を正しく固定するものだ。
試しに書いてみると、確かにそれまで握りこんでいた持ち方よりも力を入れずに済むような気がした。
イリスは礼を言い、どきどきしたまま祖母への手紙を持って店を出た。