1、手紙
机の端に飾られた百合の香り。
黒インクの匂い。
紙をめくるときの擦れる音。
声。
「――『暑い日が増えてきて、イリスの好きな桃はもうじき収穫。もう少し近ければ送ってあげたいのだけれど、それは難しいからジャムにしたものを送ります』」
イリスは目を閉じたまま、実家の桃を思い出した。
触ると意外と痛い産毛。つるりとむいて口に入れた時のみずみずしさ。
祖母がむいてくれた時には、種周りの部分をこっそりイリスにくれる。その部分が一際甘いのだ。
話しているルロワ夫人の声が祖母に似ていて、さらに懐かしくなる。
「『でも思い出すのは、この時期になるとイリスが桃しか食べなくなることです。暑くなるとあなたは食欲が落ちるので心配です』」
ルロワ夫人の声が途切れたので、イリスは閉じていたまぶたを少しだけ上げた。
丸眼鏡の奥から窺うように向けられたサファイアの瞳と目が合う。イリスは苦笑して「ちゃんと食べてますよ」と返し、また目を閉じた。
店の中にはイリスとルロワ夫人の二人だけ。
インクの匂いと百合の香り。
祖母に似た、柔らかい声。
「――『よく食べて、よく寝て、体に気を付けてください。おばあちゃんより』」
「ありがとうございます」
ルロワ夫人は読み終えた手紙をイリスに渡した。
「桃ってこっちではほとんど見かけないけど昔食べたことがあるよ、美味しいよねえ」
「美味しいですよね。実家の方ではたくさん採れるんです。きっとジャムが大量に届くのでおすそ分けしますね」
「それは嬉しいねえ、楽しみにしてるよ」
話しながら、イリスは手紙に目を落とした。美しい文字が流れるように並ぶ。でもその文章はうまく頭には入ってこない。
「さて、イリスさん。どうぞ」
手に持ったペンをインク瓶につけ、準備を終えたルロワ夫人が促した。イリスはレモンの浮かんだ水で唇を湿らし、口を開いた。
「『おばあちゃんへ、手紙をありがとう。私は変わらず元気です。暑い日が続くかと思うとうんざりしますが、ジャムを楽しみにしています』――」
この静かな空間が、イリスはとても好きだ。
♢
イリスは、ルベール宝石商で鑑定士として働いている。
出身は馬車で数日かかる農村地域で、そこには祖母と両親、弟がおり、宿を経営しながら農業を営んでいる。
その村は他国へ繋がる港と都の間にあり、実家の宿に宿泊するのは貿易関係者が多かった。
イリスは彼らから様々なものを見せてもらった。
絵画、彫刻、書籍、工芸品。
その中でも、イリスは特に宝石に魅せられた。ただの石なのに、色、形、濁り、何一つとして同じものはなく、どれも自然の産物。
輝く石を見せてもらい、その特徴を教えてもらう中で、イリスの感性は徐々に磨かれていった。
イリスの審美眼が良いことに気付いたのは祖母だ。都で働くよう勧めたのも祖母である。苦手なことがあってもそれを上回る特技があるのだから、仕事にしなさい、と。
そしてイリスは娘一人、この王都で働きながら暮らしているのである。
とはいえ、一人で働く孫娘を田舎の祖母は大変心配しているようだ。
様子を知りたいのであろう。引っ越してきた当初から頻繁に手紙が送られてくるようになった。
しかし、文通には問題があった。
イリスは幼い頃から読み書きが非常に苦手なのである。
出来ないわけではない。ものすごく時間をかければ、読めるし書ける。しかし、読み間違いも書き間違いも多い。しかも悪筆。
祖母もそれを知ってはいるが、他に連絡手段がないのだ。
イリスは困った。
元気にしているということ、街の暮らしを結構楽しんでいることを伝えたい。
しかしながら手紙の読み書きだけで日が暮れる。そもそも、字を書くのが嫌だ。
悩んだ結果、代書屋に依頼することにした。
代書屋とはその名の通り、書類を代わりに書く仕事をしている店である。
ただし、手紙の代筆などは近年、行っていないことが多い。一般市民の識字率が向上し、皆、自分で読み書き出来るからだ。
現在の代書屋の主な仕事は、書類の作成である。
生活に関わる契約書、役所に提出する公的書類など、専門性の高い文書を扱う。
とはいえ『代書屋』。
料金を払えば手紙の代筆もしてくれるのではないかと期待して、イリスは街の代書屋を訪ねた。
しかし、どこからもすげなく断られてしまった。
「そのくらい自分で書きなよ。出来るだろ」
「手紙は自分で書かないと相手に気持ちが伝わらないよ」
そんなこと言われたって、イリスにとってはイミテーションのエメラルドを見破るよりはるかに難しい。
三軒の代書屋に断られ、諦めかけて四軒目に訪ねた『ルロワ代書屋』で、ようやく請け負ってもらえた。
店主であるルロワ夫人は祖母と同じくらいの年代で、グレーヘアを緩やかにまとめた穏やかな女性だ。
イリスの依頼を正確に理解し、祖母から届いた手紙を読み上げ、返事を代筆してくれた。
イリスは大変感激した。
それ以来、定期的にルロワ代書屋へ行き、手紙の代読と返信の代筆を依頼しているのだ。
田舎の祖母もそれを知っており、孫娘を気にかけてくれる人がいてよかったと安堵している。
イリスはルロワ夫人との時間がとても好きだ。
祖母を思わせる柔らかさ。手紙を読んでもらい、その内容についてあれこれ話す。時には祖母への手紙の内容を相談することもあった。
自分の日々の話を聞いてくれる彼女との時間は、イリスにとって心休まるひと時だ。
♢
ある日、いつも通り祖母からの手紙を持って、イリスはルロワ代書屋を訪ねた。
手には葡萄酒とパンの入ったバスケット。勤め先であるルベール宝石商のオーナーからもらったものだ。
(なんだか赤ずきんみたいだわ)
おまけにイリスは燃えるような赤毛なのである。店の窓ガラスに映る自分の姿を見て苦笑した。
カランというドアベルの音と一緒に店に入ると、ルロワ夫人の姿はなかった。
「ごめんください」
黒インクの匂いはいつも通りだが、百合の香りはしない。普段ルロワ夫人が座っている机にも誰もいない。
代わりに店の奥から出てきたのは若い男性だった。
イリスを見て、なにかに気付いて目を瞬く。
「お待たせしました……、あ、こんにちは。あなたはイリスさん?」
琥珀色の髪と、ルロワ夫人と同じサファイアの瞳の美しい青年。見知らぬ人物にイリスは身構えた。
「……そうです。ルロワ夫人に依頼をしたいのですが……」
「祖母はしばらく休みなんだ」
「えっ?」
「大したことじゃない。親類の出産の手伝いで」
青年は机の引き出しをごそごそさせると、手のひらに乗るくらいの名刺を差し出した。
「エクトル・ルロワといいます。祖母がいつもお世話になってます」
「あ、イリス・マルタンです。こちらこそルロワ夫人にお世話になってます」
名刺の名前の上には役職。
そこに書かれた『王宮』の文字だけ頭に入ってきたので、イリスはぎょっとした。王宮で働く代書人は上級役人で、かなりの高給取りだ。
「本当はもう少し先だったんだけど、予定より早く出産になって祖母は急遽そちらに行ってしまって。イリスさんに伝えられなくて申し訳ないと言ってました」
「あ……そうなんですか。お産は無事に?」
「ええ。ただ産後の手伝いをするというので」
親類の産後の手伝いに行くことは聞いていた。その間の話はしていなかったが、頑張って自分で手紙を書こうかと思っていたのだ。
仕方ないので帰ろうとすると、エクトルは一つ咳払いをした。
「さて、イリスさんのことは祖母から聞いています。代わりに僕が仕事を請け負っても? 男の声での代読でもよければだけど」
「え、いや、でも……、エクトルさんは普段、王宮でお仕事をしているのではないですか?」
「そうです。普段は外務関連部署にいるので、外交書類ばかり扱ってます。でもしばらくは僕がこの店の代理を」
イリスは困惑した。
他国との交渉書類を扱う人に、自分の生活感丸出しの手紙など代読してもらってよいのだろうか。
手紙の主な内容は祖母の病気自慢と勤め先の猫の話といった、彼が普段扱わないであろう話ばかりなのである。
「あの、私の依頼はただの手紙の代読と代書なんです。なので、その……」
「大丈夫。僕は書類を読むのが得意だ」
『えっへん』とでも言わんばかりに、エクトルが誇らしげに胸を張る。その様子に気が抜けた。もちろん得意だろう。国中の誰よりも。
目の前の彼は上級役人というには堅苦しくなく、ルロワ夫人の柔らかな雰囲気にとてもよく似ている。
他愛もない手紙の代読など面白くもないだろうが、彼なら依頼しても大丈夫かもしれないとイリスは思った。
「では、すみませんがお願いしてもいいですか?」
「もちろん。さあどうぞ」
席に促され、座ろうとしたところで、手にしたバスケットを思い出した。
そうだ、葡萄酒とパンを渡そうと思っていたのだ。そのままエクトルに差し出す。
「これよかったらどうぞ。おすそ分けです」
中身を覗き込んだエクトルは目を丸くした。それからイリスの髪にもちらりと視線を向ける。
「なんか赤ずきんみたいだね」
先ほどイリスが思ったことと同じことを想像したらしい。イリスは眉を上げ、悪戯っぽくエクトルを指差した。
「ということは、あなたは……」
「そうなるね。でも僕の耳はあまり大きくなくても君の声をよく聞き取れるから安心して」
朗らかに笑う彼は、とても狼になんて見えない。くすくすと笑いながら席に着き、イリスは祖母からの手紙を出した。
差し出された長い指にはシグネットリングが嵌まっていた。ルロワ夫人と同じもの。現在、代書人は国から認可の必要な職業だ。その印として、印章を指輪にしているのである。
K18、と指輪の貴金属に当たりをつけ、イリスは椅子にもたれた。
そのままいつも通り、まぶたを閉じる。
カサカサと手紙が封筒から出される音。それから、エクトルの咳払い。
「――『イリスへ。元気ですか、おばあちゃんは』」
「――!!」
冒頭が読まれ始めてすぐ、イリスはがばりと背を起こした。
目を丸くしたエクトルの視線と合う。
「なにかおかしかった?」
「いえ! なにも、すみません。どうぞ続けてください」
動揺を隠すように手のひらを向け、先を促す。また背をもたれたイリスだが、今度はまぶたを閉じなかった。
(――ど、どきどきした!!)
ルロワ夫人とは全然違う、低い艶のある声。
目を閉じて聞いていたらなんだか生々しく聞こえてしまい、そのまま聞いていられなかった。
いつもと違うのは、香りという点でもそうだ。百合がない。あれはルロワ夫人が飾っていたものなのだろう。
嗅覚から入ってくる情報が一つ少なかったので、聴覚からの情報がより鮮明だったのだ。
エクトルは流れるように読み上げているが、それどころではない。心臓がどっこんどっこんと激しく打っている。
「『おばあちゃんはいつも通り腰が痛いけれど、元気です。猛烈な暑さも早く落ち着いて欲しいと』――」
(落ち着いて、わたし!!)
その日の手紙の内容はなかなかイリスの頭の中に入ってこなかった。