冷たい世界で、愚かな僕は乞い願う
急ぎ足で辿り着いた病室の扉を開くと、いつもどおりの静寂が僕を出迎えてくれた。
かすかな空調の駆動音と、心電図モニターの奏でる電子音。それだけが、室内に無機質に響いている。
その中で彼女は、昨日と変わらぬ姿でベッドに横たわり、静かにまぶたを閉ざしていた。
「夕方から、雪が降り出したんだ」
眠る彼女に声を掛けながら、僕は病室に足を踏み入れる。溶けた雪で肩の辺りが少し湿ってしまったコートを脱ぎながら、ベッドのそばへと足早に歩み寄った。
「それで、電車が止まって……遅くなって、ごめんね」
窓のないこの部屋からは、真っ白に染まった街の姿を眺める事はできない。もっとも、雪は嫌いだから、その風景を見ずに済むのは少し安心するのだけれど――そんな事を考えながら、僕は謝罪の言葉を紡ぐ。
けれど、彼女は答えない。
『いらっしゃい』と僕を歓迎する事もなく、『遅い』と僕を咎める事もなく――ただ静かに、眠り続けていた。
***
「もうすぐクリスマスだよ。ここに来る途中も、イルミネーションがいっぱいで、すごく綺麗だった」
ベッドのそばのパイプ椅子に腰を下ろし、眠る彼女の顔をそっと覗き込む。
もともとショートだった髪はすっかり伸びて、今や腰まで届くほどになっている。艶やかな黒髪に縁取られた小さな顔は、心なしかいつもより血色が良いようだ――その事に少しだけほっとしながら、僕は静かに語り掛けた。
「僕達も昔、一緒に見に行ったよね? あの時の事、まだ良く覚えてるよ」
それはもう、三年も前の事――けれど、イルミネーションを見上げて目を輝かせていた彼女の美しい横顔や、寒空の下で繋いだ手の温かさは、今も昨日の事のように鮮明に思い出せる。
「そのあとは……『寒い寒い』って言いながら家に帰って、君の作ってくれたケーキを食べたんだっけ」
幸せな思い出の残滓を探し求めるように、僕は太い点滴が繋がれた彼女の細い腕を、シーツの上からそっと持ち上げた。
両手で包みこんだ彼女の手のひらは小さく、そしてひんやりと冷たかった。
その冷たさの中には、幸福な記憶の面影などどこにも見当たらない――そんな現実を突き付けられて、僕の胸の奥がぎしぎしと嫌な音を立てる。
「あの時のケーキ、すごく美味しかった……いつかまた、作って欲しいな」
『久しぶりに焼いたから、美味しくできたか分からないけど』なんて言う彼女の照れ臭そうな笑顔も、もう僕の思い出の中にしか存在しない。目の前で眠る彼女の表情は、いつだって一つに固定されたままだ。
あの笑顔を、もう一度見たい。
甘くてふわふわのケーキを、また二人で一緒に食べたい。
もう何度祈ったか分からないそんな願いが、僕の心を滅茶苦茶にかき乱した。
「ねえ……答えてよ」
やせ細った手のひらを握る両手に力を込めながら、僕はぽつりと懇願をこぼす。
その声は自分でも分かるほど、ひどくかすれ、震えていた。
けれど、彼女は答えない。
『また一緒に行こう』と微笑む事もなく、『また焼いてあげる』とはにかむ事もなく――ただ静かに、眠り続けていた。
***
彼女の時間は、『あの日』からずっと止まっている。
楽しかったクリスマスの数日後に訪れた、大雪が街を真っ白に染めた『あの日』から、ずっと。
僕の元に向かおうと、横断歩道を渡っている途中――無慈悲に飛び込んできた、信号無視のトラック。それが彼女に、未だに覚める事のない、長い長い眠りをもたらしたのだ。
彼女に関わった医者は皆、口を揃えて『目を覚ます可能性は低い』と言った。
――けれど、それでも。
僕が彼女を想い続ける事をやめなければ。彼女を愛する事を諦めなければ、きっと。
彼女はいつか必ず、目を覚ましてくれる。そして僕を見つめて、「おはよう」と微笑んでくれる――それはまるで、地獄の底に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように、淡く儚い希望だった。
――そして僕は、今日もそんな願いにすがりついて。
真っ白な病室で、彼女のそばに寄り添い続けている。
***
ふいに傍らに人の気配を感じて、僕はいつの間にか伏せていた顔をゆっくりと持ち上げた。
巡回の看護師でも来たのかと思ったけれど、違った――振り返った僕のそばに立っていたのは、白衣の看護師ではなく、くたびれたスーツを着た二人の男性。
その内の一人、年配の男の方が、ひどく疲れた顔をしながらゆっくりと口を開いた。
「――――さん、ですね?」
静かな部屋の中だというのに、僕は何故か、その声を上手く聞き取る事ができなかった。
しかし、彼らが何を問うて来たのかは、なんとなく分かったから――小さく頷き返すと、男は、ふ、と嘆息する。そして胸ポケットから黒い手帳を取り出すと、開いたそれを僕の目の前に掲げてみせた。
「――県警察です」
「――――さんが殺害された件について、お尋ねしたい事が」
「お手数ですが、ご同行――――」
再び掛けられた声は、やはり所々にひどいノイズが掛かったようになっていて、上手く聞き取る事ができない。
けれど、その切れ切れの言葉から、僕は彼らがここに来た目的を理解する。
こんなに早く、僕の元に辿り着くなんて。
やはりこの国の警察は優秀だな――頭の片隅でそう考えながら、僕は唇の端を歪めて笑った。
***
彼女の時間を止めたトラックの運転手が出所したのは、一ヶ月ほど前の事。
その彼に、どうして会いに行こうと思ったのかは、自分でも良く分からない。彼女に直接謝罪をして欲しいと思ったのかもしれないし、あるいは――彼女が今も目覚めない事に、何か理由が欲しかったのかもしれない。
――けれど。
『三年も昔の事なんて、良く覚えていない』
へらへら笑いながら、彼は軽薄に吐き捨てて。
法廷で見せていた反省の態度は、全て虚構だった。残酷な真実を突き付けられた瞬間――僕の中で、何かが壊れた。
この男の運転するトラックが、幸福に、平穏に続くはずだった彼女の時間を止めてしまった。
そして、彼女に寄り添う僕の時間も、あの日からずっと止まったまま。
それなのにどうして、この男の時間だけが、何事もなかったかのように動き続けているのか。
理不尽な現実を呪う僕の元に――唐突に、天啓のように、答えが降って来たのは、その瞬間の事だった。
――ああ、そうか。
この男が、動き続けるはずだった彼女の時間を奪い、自分のものにしてしまったから。
だから彼女の時は止まり、いつまで経っても眠りの中から抜け出せずにいるのか。
だったら話は簡単だ。
この男が奪い去った彼女の時間。それを奪い返して、彼女に返せばいい。
そうすればきっと、彼女は目を覚ましてくれる。そして僕を見て、あの頃と同じように微笑んでくれる――脳裏に色鮮やかに浮かび上がる、幸せにあふれた光景。それが僕から、ためらいを根こそぎ奪い去る。
そうして、僕は――この手で、全てを、成し遂げた。
それなのに――彼女は今も、目覚めないまま。
止まった時間が、再び動き出す事はなかった。
***
「……分かりました。行きましょうか」
警察だって愚かではない。ここに来たのはきっと、何かしらの証拠を掴んだから――ゆえに抵抗は無意味と判断し、僕は静かに頷いた。
最後に一度、しっかりと握り締めてから、彼女の手をシーツの上に戻す。冷たい指を手放す瞬間、僕の胸は名残惜しさにずきずきと痛んだ。
「それじゃあ……少し、出掛けてくるよ」
心を引き裂かれるような痛みに耐えながら、眠る彼女にそっと囁きかける。
「必ず戻ってくるから。だから、ここで待っててね」
――それでも、彼女は答えない。
『行ってらっしゃい』と見送る事もなく、『行かないで』と引き留める事もなく――ただ静かに、眠り続けていた。
「さよなら」
そんな彼女に別れの言葉を告げて、僕は椅子から立ち上がる。
「……愛してる、ずっと」
そして最後に、ぽつりとそう呟いて。
僕は男達に従って、病室を後にした。
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かすかな空調の駆動音と、心電図モニターの奏でる電子音だけが響く、無機質な病室の中。
寒々しいその空間で、一人の女性がベッドに身を横たえ、静かに双眸を閉ざしていた。
ふいに、そのまつげが小さく震えたかと思うと――重く閉ざされていたまぶたが、ゆっくりと開かれて行く。
三年もの間一度も開く事のなかった瞳には、弱々しい蛍光灯の光でさえナイフのように鋭い。ひどく眩しそうに眉根を寄せながら、彼女は眼球をせわしなく動かした。
やがて――自分が孤独である事を悟り、その真っ白なまなじりから、一筋の涙が音もなく滑り落ちる。
「……ねえ……どこに、いるの…………」
乾ききってひび割れた唇の隙間からこぼれた声は、ひどくかすれ、震えていた。
けれど、彼女に応える者は、もうここにはいない。
か細い声は誰の耳にも届く事なく、部屋の静寂に吸い込まれて行った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。