後編
「はっ!」
気がついた時――俺は車に背中を預けるようにして、その場に座り込んでいた。
ここはどこだ、そう思って周囲を見渡して、今自分が駐車場にいることを理解する。夜闇に包まれた周囲の風景、どこからともなく、自動車の走行音がかすかに聞こえてきた。
一体どうなって、何で俺はこんな場所に、俺は飲酒運転で轢き逃げをやらかして、刑務所に……そう思った時だった。
「起きたか?」
その声に振り向くと、ひとりの青年が街灯に背中を預けて立っていた。
見慣れないけれど、知らない顔ではない。
俺は、すぐに思い出した。飲み会の帰り、車に乗り込もうとした時にいきなり俺に話しかけて、飲酒運転を咎めてきた……あの青年だった。
状況の整理が、まるで追いつかなかった。
「何が、どうなって……!」
立ち上がることも忘れて、俺は言った。
すると青年が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「ま、混乱するのも無理はないだろうな」
俺から二メートルほど離れた場所に立ち、青年は続けた。
「安心しろ、お前が体験した出来事は現実のことじゃない。スマホで日時を確認してみろ」
理解できないまま、俺は青年に言われるままにポケットからスマホを取り出した。
日付は、会社のプロジェクトが一段落して、後輩達と飲みに出た日だった。時間は、後輩達を見送って数分が過ぎた頃だった。
時間が、巻き戻っている……俺が車を走らせて、あの人身事故を起こす前に……!
「どういう……!?」
青年はため息をついた。その様子は、『まだ分からないか』とでも言いたげだった。
「つまりは、お前が飲酒運転で事故を起こしたことも、被害者が亡くなったことも、裁判でお前が実刑判決を受けたことも……それらは全部存在しない出来事だった。お前はとてつもなく悪い夢を見ていた、そういうことだ」
「存在しない出来事、悪い夢……?」
状況を飲み込み切れない俺が問い返すと、青年はまた口を開く。
「俺がお前に見せたのさ、俺が昔体験したことをそのままな。もう、分かるだろう?」
「な、一体何を言って……!」
非現実的な話に、俺は問い返そうとした。
しかし、そこで言葉は止まってしまう。俺は、あることを思い出したのだ。
彼の制止を無視して、俺が車に乗り込もうとした時、今一度呼び止められて……青年が、その人差し指を俺の額に触れさせた。その時、視界が歪んで、まるで水の中に落ちたような感覚に囚われた。
あの瞬間から俺は、夢を見せられていたのだ。いや、青年の言葉から察するに……青年が体験したことを、追体験していた。
「信じられない気持ちは分かるが、そう考えれば合点がいくんじゃないか?」
彼の言う通りだった。
つまり、あの後の出来事はすべて、この青年の身に起きたことだったのだ。飲酒運転で人を死なせ、家族や身の回りの人間を不幸に陥れ、裁判で実刑判決を受け、刑務所で後悔と罪悪感に苛まれ、死を望む……すべては、彼が昔体験したことだったのだ。
だが、分からないことはまだあった。
しかし俺が問うより先に、青年が俺に訊いてきた。
「俺が体験したことを追ってみて、感想はどうだ?」
青年が腕を組んだ。とても筋肉質で、健康的に日焼けをしているのが分かる。
――今しがた見せられたことを振り返って、怒りが込み上がった。
「感想も何も、あんな最悪なものをどうして……!」
「そんなことは分かっているだろう。飲酒運転がどれだけ反社会的で、どれだけ悲惨な結果をもたらす行為であるかを、お前に身をもって教えるためさ」
有無を言わさぬ威圧感を帯びた、青年の言葉。俺の言葉は問答無用に終わらされた。
「お前が見たのは『俺の過去』であり……そして、『お前の未来』だ」
青年は、どこか遠くを見つめながら続けた。
「十何年も前だな。お前が見た通り、俺は酒を飲んで車を走らせ、人を撥ねてそのまま逃げた。長らく刑務所で過ごすことになった上に、多額の賠償金まで課せられた……その他にも、多くの代償を受けた」
俺は、唾を飲んだ。
「被害者の命を奪い、多くの人間の人生を狂わせ、不幸にさせ……刑務所で、後悔と罪悪感に苛まれる日々を過ごした……所詮は自業自得だがな」
青年の語気が、強まっていく。
まるで、自分自身を責めているように見えた。
「分かったと思うが、飲酒運転はやらかした奴が罰を受けて、それですべてカタがつくような問題じゃない。被害者はもちろん、その家族に両親、自分の家族や父親や母親、他にも職場の上司や同僚や後輩……とにかく自分が大切だと思っていた人達すべてを地獄に突き落とす行為なんだぞ……!」
青年の言葉に気圧されて、まばたきすらできなかった。
「酒を飲んで車を走らせた瞬間から、そいつは『悪党』になる、『犯罪者』になる……そして、犯罪者は絶対に捕まるんだ! 人を轢いて逃げて、その場は逃げおおせるかも知れない。だが翌日には警察が来る、翌日に警察が来なくとも、次の日には警察が来る。遅かれ早かれ、絶対に逮捕されるんだ!」
青年の瞳に、涙が浮かんでいるのが見えた。
それは、彼が抱く後悔と自責の念そのものに違いなかった……自らの言葉が翻り、胸に突き刺さっているのだろう。
少し間を開けて、青年はさらに続けた。
「後悔しているさ……! もしあの晩に戻れるなら、酒を飲んで車を走らせようとする俺のことをぶん殴ってでも止めたいくらいだ。だがそんなことはできない……過ぎた時間は、決して巻き戻らないんだからな」
何も、何も言えなかった。
ただ俺は……青年の言葉が、重々しく身内を響き渡るのを感じ取るだけだった。
「もしあのまま車を走らせてみろ……間違いなく、お前も俺と同じ道を辿ることになっていただろう! 理由なく手錠を掛けられる奴なんか、この世にはいないんだからな!」
青年は深くため息をつく。
そして、教え諭すように続けた。
「俺がお前を止めたのは、お前が昔の俺と重なって見えたからだ。俺にも妻がいて、四歳の娘がいた……今のお前と同じようにな」
言葉を失っていた俺は、その言葉に息を飲んだ。
「どうして知ってるんだ? 俺に妻がいて、四歳の娘がいるって……!」
俺は問いかけたが、青年は答えなかった。
「お前はまだやり直せる、だが俺はどんなに時が過ぎようと、家族がいる日常には帰れない……妻の笑顔を見ることも、愛する娘を抱き上げることも、絶対にできないんだ。理由は分かるだろう? 俺にはもう、その資格がないからだ!」
その言葉を聞いた時には、もう俺は質問しようとしていたことすら忘れてしまった。
妻と娘のことが……頭に浮かんで離れなかったからだ。
「たった一度の過ちが、永遠に続く後悔に繋がっている……飲酒運転とは、それほどに重大な犯罪なんだ」
涙に潤んだ青年の瞳が、俺を真っ直ぐに見つめていた。
祈るような気持ちが……胸に染み渡ってくる。
「俺が言えることはこれで全部だ、お前は、俺みたいになるな……!」
その言葉を最後に、青年の姿が空気に溶け入るように薄れていった。
「っ、待ってくれ!」
制止の声を上げたが、すでに彼は消えてしまっていて……俺の声は誰にも受け取られることなく、夜闇に吸い込まれていった。
静けさに包まれた駐車場で、俺は立ち尽くし、今起きた出来事を反芻していた。
とても現実感がなかったし、誰に話そうが信じてなどもらえないだろうが……夢ではないということだけは分かった。あの青年が俺に投げかけた重い言葉の数々が、未だに頭の中を反響し続けていたからだ。
◎ ◎ ◎
翌朝、俺は十分な睡眠と休憩を取った後……車で帰宅した。
玄関に踏み入るや否や、娘が騒がしく足音を立てながら俺を出迎える。
「パパ、おかえりー!」
先月に四歳になったばかりの愛娘……『大きくなったらパパと結婚する』とまで言うほど、俺を慕ってくれているんだ。
弾むようなその声を聞いて、俺を見つめる無邪気な笑顔を見て……罪悪感が込み上がった。
昨晩、俺が犯罪行為をやろうとしたと知ったら……この子は、俺に何と言ったのだろう。
俺はこの子を裏切ろうとした、『犯罪者の娘』という二度と剥がれないレッテルを貼りつけようとした。愛する娘を、自分の手で地獄に突き落とそうとしたんだ……それを実感した瞬間、俺の視界がみるみる潤んでいった。
「パパ、どうしたの……?」
何も知らずに、無垢に問うてくる娘……俺は、何も答えられなかった。
俺にできたのは、ただ手の平で顔面を覆って、涙を押し留めることだけだった。
「ママ、ママ! パパが泣いてる……!」
娘の声に応じ、ドアを開けて妻が姿を見せた。
学生時代に出逢った、同い年の妻……娘と同様に、危うく俺が地獄に突き落とすところだった相手だ。
もちろん彼女は、そんなことなど知る由もないだろう。
「えっ? ちょ、ちょっと、どうしたの……?」
「パパ……?」
妻も娘も、唐突に泣き出した俺を見て困惑したようだった。無理もない。
「何でもない、何でもないんだ……!」
愛する家族達にそう応じるのがやっとだった。
罪悪感と後悔の念が込み上がって……俺はもう、それ以上は何も言うことができなかった。
◎ ◎ ◎
どうしても気になって……俺はその後、あの青年の正体を調べた。
手掛かりは少なかったけれど、『飲酒運転』というワードを主軸に探っていくうちに、すぐに答えに辿り着くことができた。
十数年前に記されたその記事の事件は、俺が見たあの光景と完全に一致していた。飲酒運転で人身事故、男性一名が死亡……場所も、状況も、すべて同じだ。
そして逮捕された男性の写真……あの青年だった。
記事では事故を起こしたとしか書かれていないが……彼がいなければ、彼が止めてくれなければ、俺も同じ道を辿ることになっていたに違いない。
調べていくうちに、彼はすでにこの世の人ではないことも分かった。
刑期を終えたあの青年は、出所後わずか数か月後に自ら命を断った姿で発見されたという……罪悪感に耐えられなかったのだろうか。それとも、すべてを失ってしまったことに生きる理由を見出せなくなったのかも知れなかった。彼の過去を追体験した俺には、死にたくなるのも理解できる。
だからこそ、彼は俺を止めてくれたんだ。俺に同じ道を辿らせないために……。
もう一度、もう一度会いたい……! 俺は思った。もう一度会って、彼に言わなければならないことがあった。
そして、俺の願いは……案外簡単に叶った。
数か月後……また、会社の飲み会があった。
もちろん、俺は飲酒運転などする気は微塵もなく、その日はタクシーで帰るつもりだった。
一緒に飲んだ上司や後輩と別れ、タクシー乗り場に向かって歩を進めていた時だ。
「よお」
不意に話し掛けられ、振り返る……あの青年だった。
「あんたは……!」
見間違えるはずはなかった。
突然姿を現した彼、言いたいことはたくさんあった。だが、予期せぬ再会に何から話すべきか分からない。
「お前、俺の言ったことちゃんと聞いて……悔い改めてくれたんだな」
すると青年が、そう言ってきた。
とにかく、何か返事をしなければならないと思い……整理がつかないまま、俺は応じる。
「あの時はありがとう、俺がバカだった……」
「いや、お前はバカじゃない」
青年は、俺の言葉を即座に否定した。
「今までに四人、俺は飲酒運転をやろうとする奴を止めて……お前にしたのと同じことをやった。だが、誰もまともに受け止めちゃくれなかった。中には『コケ脅し』と吐き捨てる奴までいたよ。結果、全員が飲酒運転で捕まってる」
俺は絶句した。
まさか……あの光景を見せられてもなお、悔い改めずに飲酒運転を続ける奴がいるのか。とてもじゃないが、信じられなかった。
「悔い改めてくれたお前はバカなんかじゃない。絶対にだ」
青年が俺に背を向けて、歩き去ろうとする。
「奥さんと娘さん、大事にしろよ」
俺は思わず、彼の背中を呼び止めた。
「待ってくれ!」
青年は足を止めたが、振り返らなかった。
俺は構わず、ずっと彼に言いたかったことを告げた。
「あんたがいなかったら、あんたが俺を止めてくれなかったら……俺は大きな間違いを犯すところだった。世間があんたをどんな風に言おうが、あんたは俺の恩人だ。だからその……本当にありがとう」
彼は何も言わず、俺に背中を見せたまま……頷いて、そして手を振った。
やがて彼は再び歩を進め、その姿が消えていった。
【飲酒運転の代償】
二〇〇六年八月、福岡の橋上で発生した追突事故……被害車両は十五メートル下の博多湾に転落し、乗車していた三人の子供の命が奪われた。
二〇一五年六月、北海道砂川市にて男ふたりが公道レースまがいの危険運転(制限速度を大幅に超過し、時速百キロ以上で走行していた)を行い、乗用車に衝突。乗用車には一家五人が乗っており、四人が死亡し、唯一生き残った次女も重傷を負った。
どちらも飲酒運転に起因する凄惨な事故であり、これらはほんの一例、つまり氷山の一角に過ぎない。
アルコールには人間の脳を麻痺させる作用があり、認知能力や判断力や集中力、つまり運転の際に要する能力を著しく低下させる。
誤解されがちだが、『ノンアルコール飲料』を飲んだから飲酒にはならないという考えは間違いである。
ノンアルコール飲料とは、『アルコール度数が一パーセント未満』の飲み物のことであり、『一切アルコールが含有されていない』ということではない。たとえ少量であってもアルコールが含まれる飲料を摂取すれば、それはれっきとした『飲酒』であり、検問などで発覚すれば検挙の対象となる場合があるので注意が必要だ。
アルコールの影響がある状態で車を走らせることは、それ自体が非常に危険かつ重大な犯罪行為であり、飲酒時には事故を起こす確率が八倍に跳ね上がるという研究結果もある。
飲酒運転で重大事故を起こしてしまえば、それは人生の崩壊と同義、すべてを失うことに直結する。家族も仕事も、社会的信用も棒に振ることになる。人を死なせてしまえばもちろん、その事実は一生身に圧し掛かることになるだろう。
さらにその代償は当人のみに留まらず、身の回りの人達にも波及し、大切と思っていた人々を地獄に突き落とすことに繋がりかねない。
飲んだら運転しない……それは基本であり鉄則である。
“酒を飲んで車を走らせた瞬間から、そいつは『悪党』になる、『犯罪者』になる……そして、犯罪者は絶対に捕まるんだ! 人を轢いて逃げて、その場は逃げおおせるかも知れない。だが翌日には警察が来る、翌日に警察が来なくとも、次の日には警察が来る。遅かれ早かれ、絶対に逮捕されるんだ!
後悔しているさ……! もしあの晩に戻れるなら、酒を飲んで車を走らせようとする俺のことをぶん殴ってでも止めたいくらいだ。だがそんなことはできない……過ぎた時間は、決して巻き戻らないんだからな。
お前はまだやり直せる、だが俺はどんなに時が過ぎようと、家族がいる日常には帰れない……妻の笑顔を見ることも、愛する娘を抱き上げることも、絶対にできないんだ。理由は分かるだろう? 俺にはもう、その資格がないからだ!
たった一度の過ちが、永遠に続く後悔に繋がっている……飲酒運転とは、それほどに重大な犯罪なんだ。
俺が言えることはこれで全部だ、お前は、俺みたいになるな……!”