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前編



「それじゃ先輩、飲酒運転しちゃダメですよ」


 後輩達が乗った車から、冗談めかしてそう言ったのはハンドルキーパー……つまりここにいる中で唯一、酒を飲まなかった奴だ。

 会社の重要なプロジェクトが一段落し、俺は連日の残業で苦労を掛けたこいつらを労おうと、居酒屋に連れていった。当たり前ながら、代金は全額俺が持った。人数は俺含めて五人、金額にして数万円ほどになってしまったが、惜しくなどない。

 こいつらに受けた恩義は、金では到底買えないものなのだから。

 

「おいおい何言ってんだ、そんなことするわけないだろ」


 笑い交じりにそう答えると、後輩達も笑みを浮かべる。

 ハンドルキーパーの後輩が今一度俺を見つめ、


「先輩、プロジェクト本当にお疲れ様でした。それに今日はごちそうさまです!」


 彼に続いて、皆車の中から口々に『ごちそうさまです!』と俺に言う。

 良い後輩達に恵まれたと、改めて俺は思った。

 今年度の初めに、三十代前半にして係長の役職に就かされ、その責任の重さに四苦八苦していた俺。そんな俺をこいつらは懸命にサポートし、尽くしてくれた。彼らは『部下』というより、俺の『仲間』だったのだ。

 仲間達から贈られる感謝の言葉……それに勝る報酬など、なかった。


「おう、お疲れ。それじゃあな!」


 後輩達が『お疲れした!』と告げて、車が走り去っていく。

 俺はその様子を見届けて、夜の街を歩き始めた。

 時刻はもう夜中の十一時を回っていた。明日は昼から出社して少し仕事をする程度で、プロジェクト終了の解放感に駆られて急遽飲みに出た今日は家に帰らないつもりでいた。

 ここに来るのには車を使ったが、もちろん帰りは運転する気などなかった。翌朝まで車で眠って、朝になってから帰って風呂に入り、また出社しようと考えていた。それくらいの時間はあったし、妻にも『付き合いの飲み会で、今日は帰れない』と連絡を入れていた。

 しかし――。


「うおわっ!」


 俺の横を車が走り抜けたと思ったら、大きな水しぶきが俺の身に降りかかった。

 今日の昼間は雨が降っていて、あの車が水溜まりを踏んづけたのだろう。スーツが汚い水でびしょ濡れになっちまった。

 

「くそ、やりやがったな……!」


 悪態をつくが、走り去っていった車はもう影も形も見えない。あの車を運転していた奴は、俺に水しぶきを浴びせたということにすら気づいていないだろう。

 最悪だ、こんな格好で朝まで過ごせるわけがない。車の中が臭くなっちまう……!

 帰って濡れたスーツを着替え、シャワーを浴びたくなってしまった。タクシーを捕まえることも考えたんだが、居酒屋代が思った以上に高くついたせいで、持ち金が足りていなかった。所持していた財布は現金のみを入れたスペア財布で、キャッシュカードも入っていないから、コンビニで金を引き出すこともできない。

 

「くそ、参ったな……!」


 駐車場に向かいながら、俺は思わぬアクシデントに対して苛立ちを込めて言った。

 さっき酒を飲んだばかりだ、だが車を運転しなければ家に帰れない。しかし、それでは飲酒運転になってしまう……だが、こんなびしょ濡れのスーツで朝まで過ごすのは……俺の頭の中で、考えがグルグルと巡る。

 そして、最終的に行き着いた結論は。


 ――そうだ。酒を飲んでいたって、バレなければ飲酒運転にはならないじゃないか。


 自宅までは大した距離でもないし、居酒屋で飲んだのはビール数杯……別に運転できないほど酔っているわけでもない。

 大丈夫だ……そう、大丈夫だ。

 酔った影響で、正常な判断力を欠いていたのだろう。俺は短絡的な結論に達してしまった。

 犯罪に走ろうとしているという自覚すらないまま、スマートキーでロックを解除し、ドアを開けて自分の車に乗り込もうとした、その時だった。


「なあお前、酒飲んでるんじゃないのか?」


 突然、後ろから聞き慣れない男の声がして――俺は驚いて振り返った。

 街灯に照らされた駐車場の背景を背に、俺と同じくらいか……もしくはいくつか年上ぐらいの男が立っていた。短い黒髪にTシャツ、ジーンズという出で立ちの青年だ。

 歳は俺と同じくらいか、少し上くらい……とりあえず、警察ではないようだ。


「……関係ないだろう」


 酒が入っていたことに加え、水しぶきをかけられたことにイライラしていた俺は、素っ気なく答えた。

 すると青年は、静かに相手を射抜くような眼差しを向けつつ、一歩前に歩み出てきた。


「酔っているんだろ? 今車を走らせたら飲酒運転になるぞ」


 普通に考えれば、その忠告に従うべきだった。

 しかし俺は、


「余計なお世話だ」


 青年の言葉を一蹴し、再び車に乗り込もうとする。

 何なんだこいつは、いきなり現れたと思ったら偉そうに……そうとしか思っていなかった。

 溜め息をつくのが聞こえたと思うと、


「おい」


 一体何なんだこいつは、と思いつつ振り返るや否や、青年の人差し指が俺の額に触れた。

 その瞬間だった、ぐらりと視界が揺らいだと思うと、水の中に飛び込んだように目の前の風景が歪み……そして結局、元に戻った。

 

「今のは……?」


 困惑しつつ小声で発するが、返答などない。

 いつの間にか、目の前にいたはずのあの青年がいなくなっていた。辺りを見回しても誰もいないし、隠れられそうな場所もない。

 ……夢でも見たのだろうか?

 そう思ったが、あの青年の静かに相手を射抜くような眼差しが脳裏に残って、離れなかった。


「っ……」


 いきなり現れ、そして消えた青年……もちろん気になったものの、汚水にまみれたスーツの冷たさが俺を現実に引き戻した。

 気のせいだ、そうに違いないと思うことにした。

 早く帰って着替えたい、その気持ちに支配されていた俺はもう、自分が酒に酔っているということすら忘れていた。今、自分がやろうとしていることが犯罪だという自覚すらなかったのだ。酔っているせいで、正常な判断などできなくなっていたんだと思う。

 エンジンをかけ、ライトを点灯させ、俺は車を走らせ始めた。

 この時すでに、俺は犯罪者になっていた……なんて愚かだったのだろう、飲酒運転は危険で、反社会的な許されざる行為――そんなことは百も承知だったはずなのに、俺はやってしまった。

 

 生活道路を走り、自宅まであと少しのところまで差し掛かった時だ。

 ――ぼやけた視界の端に、突然前を歩く男性の後ろ姿が現れた。


「うあっ!」


 驚きに声を上げた瞬間には、もう手遅れだった。ブレーキを踏む間もなく、ドンッという音が響き……そして鈍い衝撃を感じた。

 車を止めた俺は、道路にうつ伏せに倒れた男性の姿に目を見開いた。

 

「ああっ、あああっ……!」


 ピクリとも動かない男性を見つめ、俺は無意味な声を発した。

 轢いたんだ……俺は、人を轢いてしまったんだ!

 まばたきも忘れ、俺は慌てて車を降りて男性に駆け寄った。


「だ、大丈夫ですか……大丈夫ですか!」


 男性から返答はなかった、こちらを向くどころか、声を上げることすらなかった。

 その頭部からおびただしい血液が流れ出ていて……それがみるみるうちに、道路を赤く染めていった。

 警察と救急車を……半狂乱に陥りそうになりながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。しかし、それを操作することはできなかった。妻や娘、それに両親……職場の同僚や上司の顔が頭に浮かんできた。

 どこまで愚かなら気が済むのか……俺がとった行動は救命でも通報でもなく、自己保身だったのだ。

 酒を飲んで人を撥ねた、すなわち飲酒運転で人身事故……自分がやらかしたことがどれほど重大な罪なのか、考えるまでもなかった。


「はあ、はあ……!」


 息を荒げながら、周囲を見回した。

 人の姿はない、誰にも見られてはいない……!

 そんな行動を選択しても逃げ切れるはずなどない、むしろ罪が重くなるだけなのに……罪悪感と捕まる恐怖に駆られた俺は再び車に乗り込み、その場から立ち去ってしまった。正常な思考など、とうに失っていたのだ。

 自宅に戻ろうとしていたことなど、もう完全に忘れていた。

 逃げればバレないと思ったわけじゃない、ただ……現実から逃避したかったのだ。

 しかし、俺の行為は悪あがきにすらならなかった。


「っ!」


 俺は思わず息を飲んだ。

 遠目で見る分にはタクシーだと思ったのだが……道路脇にパトカーが停車していた。すれ違い間際に、そこに乗っていた警察官と視線が重なってしまった。

 慌てて目を逸らした俺を不審に思ったのだろう。次の瞬間、そのパトカーは赤色灯を光らせながら俺の車を追ってきた。


『エクストレイル、止まってください。道路脇に寄せて止まってください』


 逃げたりすれば、今度は赤色灯だけでなくサイレンまで鳴らされて追跡される羽目になる――俺は指示に従うしかなかった。

 路肩に停車させ、パトカーからふたりの警察官が降りてくる。心臓が異様に鼓動を強めて、溢れ出た汗が顔を伝い落ちるのが分かった。

 サイドウィンドウが叩かれ、俺はボタンを操作してそれを開けた。他にできることはなかった。


「こんばんは運転手さん、左のヘッドランプ割れちゃってるみたいですね、どうしました?」


 そう尋ねてくる警察官の目には、確信めいた色が滲んでいて……俺は視線を重ねることすらできなかった。

 言い逃れなどできるはずもない。俺は目を泳がせて、「あ、その……!」と無意味な声を発するのみだった。


「運転手さん、お酒を飲んでいませんか? 検査しますので、パトカーのほうにお願いします」


 警官はきっと、俺から漂う酒のにおいを嗅ぎつけたのだろう。

 終わりという文字が、グルグルと頭の中を巡った。

 これからどうなるのかなど、もう分かっていた。だが俺には、警察官の指示に従うしかなかったのだ。

 数十分前に、車に乗る前に戻れれば。せめて、車を走らせるその一秒前に戻れれば……そう思ったが、状況はもはや後悔先に立たずだった。いや、そんな言葉では到底済まされないだろう。

 

「それでは運転手さん、今からあなたの呼気に含まれるアルコール濃度を測定します。ここに息を吹き込んでください」


 俺にそう告げると、警察官はアルコールチェッカーを渡してきた。ストロー部分に口を付けて、息を吹き込み……警察官へと返す。

 数秒の後、警察官はアルコールチェッカーに表示された数値を指差しつつ、言った。


「それではご確認ください。運転手さん、あなたの呼気から基準値以上のアルコールが検出されています」


 威圧的で、有無を言わせない眼差しが、俺に向けられた。


「ヘッドランプ、どうしてああなったのか……話していただけますね?」


 俺は、すべてを白状した。

 酒を飲んで車を乗ったことはもちろん、つい数分前に人を轢いてそのまま逃げたことも……。

 手錠を掛けられた時の金属音が、重々しく俺の頭の中を反響した。

 そして間もなく俺は……取調室で、俺が轢いた男性が亡くなったことを告げられた。

 自分は、人の命を奪ったのだ。殺人犯になったのだ……その事実に頭がおかしくなりそうだった。

 どうか……どうか、命だけは助かってほしいと思い続けてきた。だが現実を突きつけられ、恐怖と絶望とも分からない感情が、自分の身に圧し掛かるのが分かった。

 

 俺は拘留され……被疑者だった俺は被告人に変わり……拘置所に移された。

 一番最初に面会に来てくれたのは、妻だった。

 

「どうして……? お酒を飲んだら運転しちゃいけないってことくらい、分かるでしょう……?」


 涙目で俺を糾弾する妻の口から、謝罪を拒否された事実を告げられ、俺はもう何も言えなかった。

 次に面会に来てくれたのは、父だった。 


「お前は、何てことを!」


 俺を見るなり、父は怒鳴り、そして俯いて……顔を震わせながら涙を流した。

 自分の息子が人を殺した……その事実が悲しくて、やるせなかったのだと思う。『ごめん、ごめん……!』そう繰り返す以外に、俺に何が言えただろう。

 最後に面会に来てくれた母は、俺の顔を見るなり、ただ泣き崩れた……。


「うう、うううっ、うあああああっ……!」


 心労のせいで、もう何日もまともに食事が喉を通っていない……父からそう聞かされていた。その言葉に偽りはなく、前に会った時よりも、母は一段と痩せ細っていた。

 ただ涙を流す母を目の前に……俺は人として、決してやってはならないことをやったのだと……自分を責めるしかなかった。


 裁判が始まった。

 法廷の場で俺は、初めて被害者のご家族と対面した。

 俺が命を奪った被害者の方は、まだ四十代半ば……奥さんと、ふたりのお子さんを持つ方だった。

 奥さんに、ふたりのお子さんに、それに被害者の方のご両親も席についていて……その全員が、射抜くような視線で俺を見ていた。

 

「何の罪もないのに命を奪われた主人を思うと、表現しようのない怒りに身が裂ける気持ちです……私は、被告人を絶対に赦せません! どうか、どうか厳正なる処罰をお願いします……!」


 涙ながらに、俺に対する怒りを、憎しみを叩きつける被害者の奥さん……俺は今一度、自分がしでかしたことの重大さを思い知った。

 罪悪感と自責の念に、心臓が異様に鼓動を強めるのが分かった……。

 それに、席に座る幼い息子さんに、娘さん……。


“お父さんを、返せえっ!”


 もちろん、お子さん達がそう言ったんじゃない。

 だが、俺にはあの子達の声が聞こえてきた。きっと俺自身も幼い娘を持つ身であるからこそ、彼らの心の叫びが、全身を貫くように伝わってきたのだと思う……。

 

 俺の罪状は、道路交通法違反、及び自動車運転過失致死罪……判決は懲役十年。さらには多額の賠償金が課せられた。

 しかし俺が罰を受ければ、俺が刑務所に入れば、それで全部カタがつくわけじゃない……。


 会社の上司は監督不行き届きで懲戒解雇となり、あの晩一緒に飲んだ後輩達も、俺が車で帰ることを知りながら一緒に飲んだのではと疑われ……会社は信用を失い、皆退職を余儀なくされたらしい。

 さらには居酒屋も取り調べられ(車で来店していることを知りながら客に酒類を提供するのは、酒類提供罪に該当する)、客が激減して……店を畳んでしまったそうだ。

 離婚した妻は、『殺人犯の妻』というレッテルを貼られて、周囲からの目に耐えられず……娘と一緒にどこかへ身を寄せたと聞いている。 


 被害者の方や、そのご家族はもちろん……妻に娘に、会社の上司や同僚、俺のせいで数多くの人が人生を狂わされ、不幸にされ、地獄に突き落とされた……。

 刑に服する間も、刑期を終えて出所した後も……俺はこの罪を背負って生きていかなければならない。終わりなんかない、贖罪に一生を捧げなければならない。


 刑務所で日々を過ごしながら、俺はひたすら後悔と罪悪感を抱え、そして怯えている。

 出所しても、どんな未来が待っているというのか? どんな仕事に就ける? こんなことをやらかした俺を、誰が雇ってくれる? そもそも……何を目的に生きていけばいいのか? 


 連日のように、悪夢にうなされる。

 暗闇の中から……俺が命を奪った被害者が、その家族や、両親や、俺の妻や娘や父や母、会社の上司や同僚や後輩達。俺の軽率で愚かな行動によって人生を台無しにされた人達が順に現れ……俺に凄まじい怒りと憎しみを込めて、糾弾するんだ。

 そして最後には決まって、幼い娘が俺の顔を見上げ……問いかけてくる。


“パパ、どうして飲酒運転なんかしたの……?”


 誰も、俺を待っていない。

 誰も、俺を迎えてなどくれない。

 誰も、俺を信じてはくれない……。

 

 もう、死んだ方がマシだ……!






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