「異次元についての考察」
ある日の日曜日、久しぶりに友人のFが我が家に来た。少し前に家の増築が終わり僕は念願の自室を手に入れ、まだ畳の匂いが新しいその部屋にFを招くことができるのをワクワクしながら待っていた。
僕とFは小学校時代からの友人だ。Fはちょっと変わったところがあるのだけれど、人懐っこくてお節介焼き、正義感が強くて頭も良かった。当時転校生でいじめられていた僕を助けてくれ、それ以来の友人になっている。
残念ながら頭の出来が違った為にFは僕では到底入れない高専へと進学してしまい、あれだけ毎日顔を合わせていた僕たちもやがて少しずつ距離が離れてしまった。それでもこうして週末になれば電話をして会おうかという話になるのはとても嬉しかった。
僕はそんなFを勝手に“親友”だと思っている。
いい奴なんだ、本当に。
「Y、聞いてくれ!本当に悩んでるんだ。」
そんな彼の悩みだ。僕はどんとこいとばかりに胸を張った。
「・・・Y。」
うん。
「お前裏ビデオって見たことある?」
──── は?
「いや、俺さ。クラスの奴が持ってきたの借りて見たんだけど吐きそうになっちゃってさ。」
──── いい奴なのだが、
「いや女の人のアソコがマジで気持ち悪くって!なんであんな気持ち悪いモノみんな見られるんだよ。どうしよう〜俺、一生結婚出来ないかも知れない!」
──── 久しぶりに会ったというのに開口一番の相談がこれかい!
どうしようかな、これ。
高校生になっても僕達のおバカな話はちっとも成長していなかった。むしろ加速していた。
それでも笑いながら近況を話しているだけで、少しホッとした気持ちになっていたのは否めない。
僕達は親友だったのだから。
…
「配列?」
「そうそう、Yがやってるみたいに一つ一つデータを処理しているとパソコンがパンクするだろ?だからデータだけを纏めておいてあとで参照するんだけど、その時の考え方に“配列”を使うんだよ。」
「ごめん、配列ってなんだっけ?」
「あ、Yの学校はまだやってないのか?」
高専の授業と比べたらなあ。
僕はパソコンのキーボードを叩きながら心の中で愚痴る。授業の進み方が学校によって違うのは聞いたことがある。それだけの差でしかなかったが、その時はFがもうどんなに頑張ってももう手の届かないところまで行ってしまったように感じた。
僕達はパソコンのプログラミングにハマっていた。そこでもFは僕にとって先生役だ。
でも時々、ついていけなくなるんだよなあ、配列とか言われても難しくて眠くなるよ。
「いや、大事だから聞いとけって。」
Fは僕の本棚から一冊の本を引っ張り出した。
タイトルは『四次元の不思議』
「この話をするからな。」
僕は心の中で(おおっ!)と叫んだ。Fと別々の学校になってから随分と疎遠になっていた久しぶりのオカルト話が始まる予感がした。
Fは所謂、“見える人”だ。
幽霊やお化けといったこの世ならざる者を見る事ができる。見る事ができるだけで特に祓えるとか浄化できるとかそういう訳ではないのだが、そんな理由でバリバリの理系野郎の癖にオカルト話には異常に詳しいのだった。
中学時代は僕もその影響を受けてすっかりオカルトマニアになっていたが、今のマイブームはプログラミング。こんな話をするのもなんだが懐かしい気分がした。
ん?と思う。
僕達は今、プログラミングの話をしてた筈では?
「まぁまぁ、焦るな。聞いてみろって。」
Fはパソコンの前にドッカリと腰を下ろして話し始めた。
…
Fが持ってきた『四次元の不思議』という本は結論から言うと全く関係なかった。この本は僕が小学校の頃から持っていた愛読書でバミューダトライアングルで飛行機や船がレーダーから消えた、だの、目の前で車が白い霧に包まれたかと思うと忽然と姿を消してしまった。という不思議な話を纏めたものだ。ただのオカルト本で本編に四次元とは何かの説明が一切無いのが今となっては笑ってしまうポイントだ。
そんな眉唾本をふらふら振りながら、Fは次元に関する考察を始めたのだった。 さらにFはノートを広げ、シャープペンシルで図形を描いて話してくれた。
「Y、俺たちが今いるこの世界は何次元だ?」
「ん?三次元だろ?」
「じゃあその前の一次元ってわかるか?」
「点じゃなかったっけ?」
僕はノートに点を書いた。
「違う、それはただの点だ。一次元はこう。」
と、言ってFは僕が書いた点を引き延ばし、線に変えた。
「そして二次元がこう、平面だ。」
続けてもう一本線が伸びる。今度は先ほどの線に対して垂直に。紙の上に見慣れたグラフのような姿が現れた。
「そう、x軸、y軸、グラフのような平面、これが二次元の世界だな。パソコンのデータ保管も基本はこの二次元配列を使うんだよ。
でもデータが膨大になってくるとさらにこの平面を積み重ねなければならなくなってくる、これが三次元配列だ。」
ノートに三本めの線が描かれる。z軸だ。疑似的だが紙の上にサイコロのような立体の箱が出来上がった。
僕達の住む世界、三次元の世界だ。
「まあ、実際はここに時間軸が加わるから俺たちの世界は四次元だという説もある。」
「え?ちょっと待って?」
僕は意味がわからずちょっと焦った。
「僕達の世界が四次元だって?」
「そうだよ。だって時間あるだろ?時間軸。さっきの三次元配列の箱をズラッと一列に並べていくイメージかな?」
サイコロの両端が伸びて四角くて長細い棒になる。
え?これだけ?
四次元空間ってこんなに簡単に作れちゃうの?『四次元の不思議』って一体何だったのさ?
「まぁこれはあくまでもデータ管理のための次元配列だからな。この理屈で言うと五次元も六次元も簡単に作れるけど、それって三次元の積み重ねでしかないから、実際の次元って奴はもっと複雑なんだろうさ。」
そう言ってFはケタケタと笑った。慰めようとしているのかも知れない、と、直感的に感じる。僕にはフォロー入れてくれたけど、Fにとって異次元なんて配列の数字が一列増えただけなのかも知れない。
僕はまたノートに目を落とした。
長細い棒。
三次元空間が過去と未来に向かって伸びた姿が四次元か・・・悔しいけれどとてもわかりやすい。
「まあ、時間なんて無いって説もあるけどな。時間が無ければこの世は正真正銘の三次元だ。四次元は不思議空間になるぞ、良かったな。」
僕はまた「え?」と声を上げる。
時間なんて無いって?時計が回ってんのに?今こうしてFと話していたこの時間は確かにあるだろ?何言ってるんだ?
そう抗議する。するとFは彼にしては珍しく、右手を顎の下に置いて難しそうな顔をした。
「俺も全てわかってる訳じゃ無いんだが、そういう説がある、ってだけさ。この世界には過去も未来もなくただ現在しか存在しないって説。
そうだな、お前の言う通り思い出もある。俺たちの中学時代は一見、普通に存在しているような気がしている。
しかしこれを見てくれ。」
Fはノートの上の棒をシャープペンシルで差した。
「時間に一次元使うならそこは“前後に動くことができる”はずなんだ、そしてそこにデータが残っているなら参照できるはずなんだ。
しかし現実はどうだ?
時間は一方方向へと進み、不可逆的だ。戻ることなんてできやしない。
だから過去がある、データが残っているなんてどこにも証拠がないんだよ。まぁさらに言えばそのデータがどこに残っているんだ?なんて問題もある。
まぁ聞け。
次は未来だ。
前にシュレディンガーの話をしたよな。」
この世は観測されるまでどうなってるかなんて分からない。って話?
「そうそう、それ。だから未来なんて誰にもわからない。現在に来て誰かの目に観測されて、初めて現在が存在するなら未来なんてデータはどこにも存在していない事になる。昔はアカシックレコードなんて言って未来は書き込まれてるという説もあったけど、俺は不定形の未来の方が楽しいね。運命が決められてると思うよりよっぽどいい。
だから未来も過去もない。
ただ現在だけの世界。
そう、でも現実に俺たちは時の流れを感じているよな。でもこれ、錯覚かも知れないんだってさ。パラパラ漫画を続けて読むように、さ。」
パラパラ漫画とは懐かしい。僕の教科書にはほぼ全て右下に小さな絵が書いてある。その少しずつ違って書いた絵をパラパラと素早くめくっていくとまるでアニメーションのように絵が動いて見えるという遊びだ。
「脳は前後の出来事を結びつけて時系列として扱う。本当は本に描かれた絵は動いていないし、一冊単位で考えれば全ての絵が同時に存在している。でも違った絵を見ていると脳はそれを時系列順に並べてまるで動いていると錯覚してしまうんだ。
俺たちの世界も本当はそうなんじゃないか?
過去も未来もない。この瞬間にすべての事象が発生する三次元を、時間があると錯覚しているんじゃないか?
アインシュタインの相対性理論にも素粒子を扱う量子力学にも時間変数tが含まれないのは何故だろう?
時間によって何かが変化して記録できる、そんなことは元々不可能なんじゃないのか?」
頭がどうにかなりそうだった。
錯覚とか言われても僕には時間の無い世界なんて想像もできないし、一次元的な動きが出来ないって言われてもそれは今の科学では、の話だし。未来でタイムマシンが作られるかもしれない。
「まあ、そうだな。それに時間が二次元的になる。つまり五次元なんて考え出すともっと頭がおかしくなるぞ。過去と未来だけじゃなくて横にも広がる時間ってなんだろうな?さらに時間が縦に伸び出して・・・」
ストップストップ
本当におかしくなりそうだ。僕よりもむしろFが。
Fの思考癖は昔とちっとも変わっていなかった。放っておくとこのまま遥か彼方にまで逝ってしまいそうだ。
あれ?
でも。
今度は僕が何かに気がついた。
確かにこれは全てひとつの仮説にしか過ぎない。でもでも、この次元ってとても便利な考え方なんじゃ無いのか?
異世界とか、パラレルワールドとか
それこそ異次元に消えた船とか
消えたり現れたりする
そう
幽霊とかお化けのような存在にとって────
「Y、ストップだ。」
かなり強い口調で今度はFが僕を止めた。
「一見辻褄があう耳障りのいい言葉に騙されるな。」
「なんで?これなら全部説明つくんじゃないの?」
「つくかも知れない。けど、異次元があったらなんて大前提はファンタジー以外の何者でもないんだよ。それをやるのは四次元や五次元が見つかってからだ。
よくスピリチュアルで使われる手法だぞ。中には3.5次元とか言い出してるところもあるけど、2.5次元のマネなんだろうけどさ、0.5なんて次元は存在しねーから。この配列見ればわかるだろ?」
うん、と僕は頷いた。2.5次元はあれ三次元だけど二次元っぽいって意味であって決して二次元と三次元の間が存在してるわけじゃないもんな。
配列は整数倍に増えていく。中間点は作れないし作る必要もない。
素直に五次元とか六次元の存在とか言った方がまだ説得力があるってものだ。
「でもY。本当にそれは考えても意味が無いんだ。幽霊が現れて『私は125次元から来ました。』とか言われてもどうしたらいいのか困るだろ?『53870次元から来ました。』『1706435次元から来ました。』なんてキリが無い。あの世は何処にあるんだ?って話になっちゃう。
だからこの多次元論で幽霊やお化けの解釈をするのはナシだ。
意味がないってのはそういう事さ。
俺はオカルトは信じざるを得ないけど、理由を付けるならやっぱり科学的に行いたいと思うよ。」
僕はその言葉にまるで憑き物が落ちたように、ほうっと大きく息を吐いて、言葉通り一息ついた。
全身を嫌な汗が流れていた。おかしな思考にハマるって怖いな、Fはいつもこんな思考実験を繰り返していたのか?
僕が少しだけ心配したようにそう話すと、Fはまたケタケタと笑って、すっかり氷の溶けてしまったグラスのジュースに初めて手をつけた。
「まぁ科学的に考えてと言ってもさ、科学も大概だけどな。
Y、科学者達がいまこの世界を何次元だと考えてると思う?」
「?」
「11次元なんだと。この宇宙を理論的に説明する為には11次元が必要だって。なんだかだよなぁ。」
そう言って大袈裟に肩をすくめてみせるF。
ホント、科学も大概だわ。
そう言って僕達はまた昔と同じように笑い合った。
暖かな日差しはもう既に暑いくらいに鋭さを増している。乾いた風が網戸を通って出来たばかりの部屋の中を駆け抜けていく。
ああ、夏が近いんだな、と、僕はこの心地よいひと時をまた、心に刻んだのだった。