【おかしはしあわせのとっきゅうけん】
デブディモがフゴフゴとイビキをかいている横で目を閉じていたガルルだが、1時間程経つとムクッと起き上がった。
そして、デブディモの眠る部屋を出ると老主人のいるロビーへとやって来た。
「ーーおやおやボウヤ、どうしたのかな?雨音がうるさくて寝つけませんでしたか?」
大雨のせいか場所のせいかはわからないが他の客の気配はなく、広いロビーに多数設置されている丸テーブルの1つにコーヒーを置いて 寛ぎながらテレビを見ていた老主人。
老主人はロビーに訪れた歌姫のバスタオルに身を包む小さな客人、ガルルに優しく微笑みながら声を掛けた。
この宿に宿泊している客のデブディモという男が連れて来た子供、ガルルという名の少年は風呂を済ませたようで 先程とは違い 汚れなど無く綺麗な顔になっていたが、表情は相変わらず無表情なまま老主人の前に歩いて行き、老主人が見ていたテレビに顔を向けた。
「ーーこれは・なんだ?」
「ん?テレビの事かい?ーーあぁ、昨日隣街で起きた事件のニュースだねぇ。ずっと平和な街だったのだけどねぇ・・・」
セントクルス大陸の最北に位置するヒスバリー国は、海を挟んでエルスノウ大陸と近い位置にある事から現在は貿易が盛んな国である。
大陸的にはセントクルスに分類されてはいるが、前ヒスバリー国王の意向により中立国という立場を確立している為、戦争時代から争いが少ない平和な国であった。
前ヒスバリー国王が中立国を宣言したのは単純に国の位置が、戦争を行なっているセントクルス王国とエルスノウ大陸の中間という最悪な立地であった為、自国民を戦争の被害から守るにはそうする他になかったからなのだが、結果的にそれは吉と出た。
戦争中の中立国は、全ての大陸に平等に資源を提供しなくてはならない決まりがある為、戦争をしている国よりも資源が枯渇する事も珍しくないのだが、それを救ったのがこの国で唯一城よりも巨大な建物、大図書館である。
全世界の歴史や神話が詰まったこの大図書館は世界共通の財産である為、その保管を条件に資源の提供を免除してもらう事が出来たのだ。
戦争が終わってからはエルスノウ大陸とセントクルス大陸を繋ぐ貿易国に発展していき、小さな小競り合いや小悪党みたいな人間がいないわけではないが、ヒスバリー国は戦時中の頃から 世界で一番平和な国として周知されている。
その平和なヒスバリー国で昨晩、過去に類を見ない事件が起きた。
怪我人や死人が出たわけではないが、人が大量に消えてしまったのだ。
1番多く人が消えたのが大図書館内の警備をしていた者達であった為、騒ぎはかなり大きくなっていた。
「大雨も止まないし大きな地震は起きるし、一部の地域では魔獣が人里に出たとまで言われているし…一体世界はどうなっているんだろうねぇ。ボウヤもお外に出る時は気を付けるんだよ・・・ん?どうかしたのかい?」
テレビを見ながら小さなお客を気遣う老主人が視線をテレビからガルルへと移すと、ガルルは深黒の瞳で老主人を真っ直ぐに見つめていた。
「おかし・・・」
お菓子、と一言だけ言葉を発するガルルを見た老主人は、先程あげたお菓子袋と その時のやりとりを思い出し、ガルルの発言の意味を察した。
「おや、わざわざお礼を言いに来てくれたのかい?良い子だねぇ。お菓子は美味しかったかい?」
先程は人見知りのせいか お礼を告げるどころかお菓子袋を受け取ろうともしなかったが、おそらく一緒の部屋に泊まっているデブディモという男が部屋に戻った後にボウヤを叱り、反省した少年がお礼を言いに来たのだろうと老主人は思っていた。
ーーしかし、ガルルはお礼を言うことはなく 右の手の平を上にして老主人に向けた。
「おかし・・・」
もっとお菓子をくれと言うかのように差し出された右手を見た老主人は、なんだ そういう事だったのかと思い はははと苦笑いしていたが、怒ったりはしておらず むしろ少し申し訳なさそうな表情を見せた。
「ごめんよボウヤ。お菓子はあれだけしか無いんだよ。もっと買っておけばよかったねぇ」
差し出されたガルルの右手にお菓子が乗る事はなく、もうお菓子はないと言っても引っ込めてくれないガルルの右手を老主人は両手で優しく包み込んだ。
自分の右手を包む老主人の痩せた皺くちゃな両手を、ガルルは無表情に見下ろしている。
「ーーーーー」
「ごめんねぇ。次にボウヤが泊まりに来てくれた時には、もっとたくさん用意しておくからね。ーーーおやおや、もうこんな時間だ。休憩は終わりにして掃除しないと。ボウヤもあまり夜更かしせずに、ゆっくりおやすみ」
老主人はガルルにそう言うと、ガルルに背を向けてテーブルに置いていたコーヒーカップを片付けようと手を伸ばしーーー異変に気付いた。
「ーーえっ?」
コーヒーカップを取ろうとしたが、コーヒーカップを掴む事が出来ず空振りしてしまったのだ。
目の前に確かにあるコーヒーカップとの距離感を間違えた訳ではない、ましてや手がコーヒーカップをすり抜けた訳でもないが、感覚としてはすり抜けたように感じる程の いや それ以上の違和感が老主人を襲っていた。
なぜなら、そこにあるべき筈の物が無くなっていたからだ。
「わ、儂の手は……どこに?え、手が…ない…?」
コーヒーカップを取ろうとしても取れなかったのは、老主人の手首から先が綺麗さっぱり無くなっていたからであった。
右手が消えているのを見た老主人は反対の左手も確認してみたが、そちらも右手と同じく無くなっていた。
クチャくちゃクチャくちゃクチャくちゃクチャくちゃくちゃクチャくちゃクチャクチャくちゃくちゃーーーーー
痛みもない突然の両手の喪失に老主人は困惑したが、背後から聞こえる不快な異音に導かれるように振り返ると、深黒の瞳を怪しく光らせながら 何かを食べているガルルと目が合った。
「ボ、ボウヤ…何を、食べてーーーー」
クチャくちゃクチャくちゃクチャくちゃクチャくちゃくちゃクチャくちゃクチャクチャくちゃくちゃーーーーーゴクンッ
なにかを食べるガルルの口から皺々で細い小指らしに物がチラリと見えたが、それもすぐに飲み込まれていった。
「ま、まさか…儂の、手を喰うてーーひぃぃ」
老主人が事の異常さを理解した途端、遅れ過ぎた痛みが 激しい出血と共に訪れた。
「ぎぃやぁぁぁっ!!!寄るなっ、こっちに来るなっ悪魔の子めっ!!」
老主人は体勢を崩して転び 綺麗に並べられたテーブルをひっくり返しながらも、無くなった両腕をガルルに向けて必死に距離を取ろうとしていたが、腰が抜けてその場から離れる事が出来なかった。
床に尻餅をつきながらジリジリと後ずさる老主人に向かい ガルルはゆっくりと歩み寄り、また 右手を差し出した。
「おかし・・・」
「ひぃぃぃっ、こ・来ないでくれぇ。おおおおお願いしますお願いしますお願いしますお願いします」
ガルルの声など、もはや老主人には聞こえていなかった。
聞こえていたとしても、その先の老主人の未来が明るいものへと変わったかはわからないが、パニックに陥ってしまった老主人は砂粒ほどの生存の可能性を聞き逃してしまった。
結果ーーー
「ぎぃやぁぁぁっ!!!!!!」
断末魔を残し、ガルルに食されて その人生に幕を閉じる事になった。
クチャくちゃクチャくちゃクチャくちゃクチャくちゃくちゃクチャくちゃクチャクチャくちゃくちゃ
老主人はガルルに足先から食べられていき、膝下まで無くなり太股を食べられている辺りから痛みを感じなくなった。
「あぁ、、、、あ、、、あぁ、、、」
自分の死が確実な事を理解した老主人は、薄れゆく意識の中 今年の夏は会うことが出来なかった息子夫婦と孫達の顔を思い出していた。
楽しそうに笑いながら遊ぶ孫達、それを優しく見守る息子夫婦と自分。
最期に顔を見れなかったのが心残りではあったが、本来ならこの時期には訪れている息子夫婦達が大雨のおかげで来られなかったおかげで、この悪魔に殺される事を回避出来た幸運を神に感謝していた。
「、、、、あ、、、、、ぁ」
自分の命が消える事よりも大切な者が無事である事を喜ぶ事が出来る優しい老主人は、その優しい心ごと ガルルの胃袋に消えていった。
ぺちゃ、ぺちゃ、ぺろ、ぺろ、ペチャペチャ、ペロペローーー
服を着たままの人間を1人丸ごと食したガルルは、老主人から溢れた血で汚れた床をペロペロと舐めていた。
ぺちゃ、ぺちゃ、ぺろ、ぺろ、ペチャペチャ、ペロペローーー
床を舐める作業を数分程続けると、そこには血痕1つ残っておらず たった今 1人の老人が食い殺されたとは思えないほど、いつも通りの宿のロビーに戻っていた。
「ーーーーー」
老主人を食べ終えたガルルには返り血すら付いておらず、まるで何事もなかったように無表情であった。
「おかしは・しあわせ。あくまって・なんだ?わからない・わからない・わからない」
ガルルは独り言のようにそう呟きながら宿の外に出て行き、吹き荒れる大雨の中 デブディモが展開したのと同じ規模の防雨結界を展開し、昨晩と同じようにーーー大図書館街へと向かって行った。