マロの友情(二)十五夜、月の前の涙
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
諏訪原城もしぶとい。さすがは続日本100名城のひとつ!
しかし敵の心を攻める弥太郎。
家康の心を攻める?氏真さん。
氏真さんの人生で一番盛り上がった十五夜!?
十五夜だから、怒涛の十五首だ!!!
歌も酒も進む!
・・・でも月の前の涙。
サプライズゲスト登場!?
八月中旬に入ると城攻めにも多少の進展があった。松平忠正が本丸の背後にある出丸を落としたのだ。出丸は本丸には飛び道具が届く距離にある。
出丸は孤立した構造で、その上本丸との間には堀川と急峻な崖があったので、出丸を奪ってもそれがそのまま城全体の死命を制する訳ではなかったが、城方の士気には影響を与えると思われた。
その夕方の軍議で氏真は再び開城勧告を提案した。
「出丸を落とした今、再び話し合う姿勢を見せれば即開城とはならずとも、城方の戦意を鈍らせるのには役立ちましょうほどに」
「時宜を得たご提案と存ずる。弥太郎」
家康は氏真にそう答えて侍立していた弥太郎を振り返った。
「ご苦労だがまた城に出向いてもらえぬか」
「御意」
弥太郎も呼ばれるのを待ち構えていた様子であった。
「ならば弥三郎」
氏真も後ろに立っていた弥三郎を振り返った。
「そなたもご苦労だがまた弥太郎の介添えをしてやってくれ」
弥三郎は呼ばれるのを待ち構えてはいなかったが、他に役に立てることもないので引き受けた。
「御意」
弥太郎はまた城攻めが終わってから日のある内に矢文を打ち込み、翌朝城へと出向いた。城方が朝餉を終えた時分を見計らって出向いたのも前回と同じである。
「朝比奈弥太郎泰勝が参った! 開門されよ!」
弥太郎が堀際で叫ぶとまた同じように城門が開かれ、二人は本丸の評定の間へと通された。違っていたのは城門も門内も二十日余りの攻防で矢玉や火矢を浴びてそこらじゅうささくれ立っていた事である。
評定の間には前と同じように城将二人が上座に座り、左右に前とほぼ同じ面々が居並んでいた。下座に座った二人の後ろに数人の武者が立ったのも前と同じである。
しかし見覚えのある数人が見当たらなかったのは、今日までの攻防で討ち死にしたり、手負いとなったりしたからなのだろう。
「再びお目通りをお許しいただきありがたき仕合せに存じまする」
「また降参を勧めに参られたのか」
室賀は今日も最初から険しい表情を浮かべていた。
「先だって申し上げた通り、甲斐から後詰が来る様子はござらぬ。かくなる上は……」
「それを言うな!」
室賀は弥太郎に皆まで言わせず怒鳴りつけた。弥太郎は軽くため息をついたが相変わらず落ち着いた調子で切り返した。
「そのお覚悟はお見事なれど、ここで犬死になさるよりも開城して他の城に移って戦い続けるがまことの忠義と存ずる……」
「我らはまだ負けてはおらぬ。そなたらはまだ表門すら破れておらぬではないか」
「それも時間の問題と存ずる」
室賀はまた意固地になって弥太郎の言葉を遮った。
「やれるものならやってみよ。我ら甲斐からの援軍が到着するまでこの城を守り抜いて見せる!」
「やはりお考えは変わりませぬか……しかし無駄な血を流したくないという我らの想いも変わりませぬ。今日は引き下がりまするが、その思いだけお心に留めておいて下さりませ」
「言いたい事は言ったであろう、早々に帰られよ」
「しからば御免つかまつる」
また前と同じように城から出た後、弥太郎の方から弥三郎に話しかけてきた。
「弥三郎殿、此度はいかがでしたかな?」
「室賀は表門を破られて城が落ちると思えば降参するやも知れませぬな」
今日の交渉の要点は自分にも分かったと思ったので弥三郎は自信をもって答えた。
「そうですな、室賀も後詰は来ぬかもしれぬと弱気になっており申す。降参はできぬが落ち延びることが許されれば開城するやも知れませぬ」
言われてみると、降参する事と開城して武田方の他の城に移る事には大きな違いがある。弥三郎はその違いは見逃していた。
「他の面々の目の動きは気付かれましたかな? 前は開城などありえぬと諦めて下を向いており申したが、今日は我らが何か申す度に室賀の顔を見ており申した」
確かに他の者たちの視線は弥太郎と室賀が問答する間、目まぐるしく行き来していた。
「そろそろ室賀が諦めて開城すると言うてくれぬかと思うておるのが分かり申した。どうやら城衆の間にも後詰なきまま落城する不安が高まっておるように見受けられ申した」
「なるほど……」
「城門を破り二の曲輪を落とさば今度こそ開城にこぎつけられると存ずる」
陣屋に戻った二人は氏真には報告し、氏真は二人を伴って家康の本陣で諸将の前で状況を説明した。
「敵ながら天晴れとは思うがしぶとき事よな……」
家康はそう吐き捨てるといまいましげな表情を浮かべて左手の親指の爪をかじり始めた。
家康は忍耐強いと思われているが、決して気が長いわけでも物事が気にならない穏やかな性格でもない。むしろ気性は激しいが、不満や憤懣をそれ以上に強い意志の力で抑えつけているのだ。
家康の苛立ちを見て取ったらしい氏真はとっさに元真に声をかけた。
「時に元真、金山衆の穴掘りは進んでおるか?」
元真は待っていたと言わんばかりに答えた。
「あと二三日もあれば二の曲輪まで堀抜く事ができ申す。驕り高ぶった武田の奴ばらをぎゃふんと言わせてやりまする」
それを聞いて家康も機嫌を直した。
「うむ、そうであったな。楽しみにしておるぞ」
「お任せ下され」
氏真はさらにたたみかけた。
「穴攻めが功奏して敵が本曲輪につぼんだ時には最後の使者を送って今度こそは開城させるべきと存ずる」
「うむ」
「二の曲輪を落とす時も一方に逃げ道を開けてそこから逃れる敵は逃れるに任せれば、残る城衆の気を挫くことができましょう」
「なるほど。孫子の兵法にいう所の囲む師は必ず欠く、でござるな」
「御意」
氏真は我が意を得たりといった様子で笑みを浮かべて家康とうなずき合っている。
それを見た弥三郎は口先だけでさも仕事をしたように思わせる氏真の手並みに、うまいものだ、と内心舌を巻いた。
安倍の金山衆が二の曲輪までの坑道を完成したのは八月十五日の事だった。
「お下知があればいつでも二の曲輪に乱入でき申す」
夕方の軍議で元真から報告を受けた家康は、諸将に翌十六日朝から別の方角を攻めて敵を引き付けさせて、元真には手薄になった時に坑道の出口を開いて乱入するよう命じた。
それを聞いた弥太郎は自ら元真に同行する事を願い出た。
「それがしも安倍殿と坑道より二の曲輪に攻め入りたく存ずる」
元真も顔をほころばせて弥太郎に口添えする。
「城内をご覧になられた弥太郎殿の加勢があれば心強い。御屋形様、それがしからもお頼み申しまする」
「うむ、許す。弥太郎、思う存分働くがよい」
元真からも懇願された家康は弥太郎の志願を快く許した。
「弥三郎、そなたも城内を見知っておる故、弥太郎と共に坑道より攻め込んではどうじゃ?」
氏真がそう言うと皆の視線が一斉に弥三郎に集中した。
「はっ!? 御意……」
そんなことを考えたこともなかった弥三郎は一瞬慌てたが、臆病者と思われるのも癪なので氏真の勧めに従った。
軍議が終わった帰り道、氏真が弥三郎に話しかけてきた。
「弥三郎、気付いておったか。今宵は十五夜じゃぞ」
陣中でも風流かぶれか。弥三郎は内心うんざりしたが、それは顔に出さずに応じた。
「そうでござりました」
「今宵は中秋の名月、明日はそなたたちが功名を上げる故前祝いを兼ねて飲むぞ」
そう言った氏真は陣屋に戻るとすぐに酒肴の支度を命じ、縁側に出て空を眺めた。西に残照を残す空には今正に星が広がり始め、東には既に満月が見える。
「それがし明日は穴攻めに加わらねばなりませぬ故、しばらくお相伴した後下らせていただき申す」
氏真から盃を渡された弥三郎は予防線を張ろうとしたが、氏真は聞き入れてくれない。
「お主らの穴攻めは表の攻め手が敵を引き付けてから始まる故、今宵いささか月見を楽しんだ所で障りはあるまい。よいよい、大いに楽しむがよい。酒もある故好きなだけやるがよい」
そう言われて弥三郎はしぶしぶ盃をおしいただいたが、殿は月を見てあれをやるのに誰かを付き合わせたいだけでしょう、と内心思っている。
まあこれも奉公、ただ酒まで飲ませてもらえるのだから、と飲み始めていると案の定始まった。
「今宵は八月十五夜故十五首詠むぞ。うむっ、早速一首浮かんだ。くもりなきい、よものうみやまのなかばなるう、つきをばいつのよわにたぐえんん……」
「…………」
こういう時弥太郎なら氏真の歌をうまくほめ上げるのだが、そんな芸当は弥三郎にはできない。いやいや雲がちらほら浮かんでおりますぞ、雨が降るかも、とか、まだ月は出たばかり、半ばという事はないでしょう、とか、現実の空に見えるものと氏真の歌が違う所ばかり気になってしまう。
弥三郎はそんな思いを噛み殺しながら、何と言ったらいいか分からず気まずい沈黙を続けてしまった。
しかし氏真は弥三郎の事は忘れたかのように酒を飲み肴をつまみながら、歌を次々と詠み始める。
「今宵は昼の村雨を降らせた雲が残っておるのう。せっかく出た月の邪魔をして月を悲しませることがなければよいが……うむっ、また一首浮かんだ。しかし月も寂しがることはない、今宵は庭の虫が鳴いてにぎやか故、うむっ。……見てみよ、月影に照らされた萩の花が美しいぞ。おっ、空の雲も光っておるが、あれは萩の花の光が照り返して雲に映っておるのではないか、うむっ! おおそうじゃ、今宵は小夜の中山で鳴く鹿も月に照らされておるであろうよ、うむっ!」
折しも鳥の鳴き声が聞こえて氏真は一層興に乗ったようだ。盃を立て続けにあおりながら問われもせぬのに一層饒舌になる。
「おお、月の前を雁の群れが南に向かって飛んでおるわ。海の磯の上からも澄んだ月が見えるであろうのう。うむっ! ……おお、そう言えば先ほどから誰かが砧を打つ音が聞こえるではないか……」
氏真はしばらく考えてから得意げに語を継いだ。
「あの砧は黒い衣を打っておるはずじゃ」
「御屋形様はそれをどうやってお分かりになられまするか?」
無言で酒を飲み続けていた弥三郎は好奇心を抑え切れず酔った勢いで聞いてみた。
「それはな、今宵の夜空が暗さを増しておる故じゃ。あの砧に打たれておる故夜の衣の黒艶が増しておるのじゃ」
氏真はよく聞いてくれたと得意顔で答える。氏真は風流のつもりなのだろうが、無風流を自任している弥三郎には下らない頓智遊びに思える。しかしそう言うわけにもいかないので、いかにも納得したような顔を作って
「なるほど」
と相槌を打った。
既に酔っているから心にもないお追従が通じたか弥三郎は自信がない。だが、酔って気が大きくなっている弥三郎は本心がばれてもどうでもいいや、とも思った。しかし氏真もかなり飲んで上機嫌だ。
「そうじゃ、そうなのじゃ。しかしそうなるとおかしなことになるのう。なぜ今宵の月は夜の衣に隠れずにこんなに澄んでおるのじゃ……うむっ、一首浮かんだ。ちかくたつう、よるのころものいかなればあ、つきのそらにはあ、すみのぼるらんん……まあよいわ。いやあ今宵はよい気分じゃ。酒が進む。もう幾杯飲んだかのう」
「随分飲んでおられまするぞ」
自分の事は棚に上げて弥三郎が世話焼き顔で言うが、与兵衛たちが気を利かせたつもりで次々に酒肴を持ってくるので二人ともかなり飲んでいる。氏真は月をこよなく愛するので、八月の十五夜はいつもこんな感じで月を愛でつつ歌を詠み、大いに飲むのだ。
「ははは、よいではないか。年に一度しか来ぬ中秋の名月じゃ。しかし傾けたさかづきの数は分からぬが斯様にして山の端に傾くまで眺めたもちづきの数も分からぬのう……うむっ! また一首浮かんだ。やまのはにい、かたむくかずもお、おもほえずう、よいをすすむるう、さかづきのかげえ……」
「お見事! それがし和歌の分からぬばか者なれど、傾く望月と傾けた盃を掛けたよいお歌であることは分かり申した!」
「うむうむ、よう申してくれた。しかし、和歌の分からぬばか者とはそなたもうまいのう、ははは……」
「恐れ入りましてござりまする」
歌と酒が進む氏真はこの上ない上機嫌だ。久々にほめられた弥三郎も気をよくした。
それから氏真は歌を詠むのを休んで酒を飲み続けていたが、月にまつわる思い出話を始めると次第に語り口に哀調を帯びてきた。
「懐かしいのう、マロが駿府の館で月見の宴を始めたのは天文二十二年の事であったよ。あの時は泰朝とお田鶴、次郎法師、そして瀬名を招いて月を見たのじゃ……」
いずれも今川家重臣の子女だった人たちだ。泰朝は弥太郎の叔父で家康と和議をするまで懸川城で氏真を守り抜いた忠臣朝比奈泰朝だ。
お田鶴の方は鵜殿長持の娘で曳馬城主飯尾連竜の正室だった。母は義元の妹だと言うから、氏真にとっては従妹である。
次郎法師は男のような名だが、井伊直盛の娘で、女だてらに直虎と名乗って井伊家当主を務めた。
瀬名は家康の正室となって今は築山殿と呼ばれている。
「泰朝もお田鶴も死んでしまった。余がふがいないばかりに……」
泰朝は家康との和議まで懸川城を守り抜いたが、氏真と共に北条を頼って小田原に移った後亡くなった。おそらく籠城の間に深傷を負っていたせいだろう。
お田鶴の方の夫飯尾連竜は氏真を度々裏切ろうとしたので氏真が駿府に呼び出して闇討ちにしたが、氏真は何故かお田鶴の方が曳馬城主の地位を受け継ぐ事を認めた。
その後家康が信玄と共謀して遠江に攻め込んだ時、お田鶴は家康の降伏の勧めを断って自ら長刀を取って奮戦し、とうとう討ち死にしてしまったと聞いている。
「次郎法師も可哀そうに、女子の幸せを知らずに……」
次郎法師には一門の井伊直親という許婚がいたが、直親は流浪する間に他の女を娶り、次郎法師が嫁ぐことはなかったという。家督を継いだ後直親もまた家康との内通が発覚して駿府に弁明に向かったが、その途中泰朝の手勢に襲われて討ち取られてしまった。
その後井伊家の当主には次郎法師の曾祖父直平が返り咲いたが、犬居谷の天野を攻めようとして曳馬城に立ち寄った後急死した。お田鶴の方が直平に進めた茶に毒を盛ったという噂もあったが真相は分からない。
次郎法師が直虎と名乗って氏真の許しを得て井伊家の家督を継いだのはその後だ。しかし家康が遠江に攻め込んだ時、重臣の井伊谷三人衆が造反して家康の道案内をし、井伊谷城はあっけなく落城した。
次郎法師は出家し、今は裕圓尼と名乗っている。その後裕圓尼は直親の忘れ形見虎松を家康にお目見えさせ、虎松は小姓となった。
「瀬名は岡崎で三郎殿と息災に過ごしておるかのう……」
築山殿は義元の命で家康に嫁いですぐ立て続けに男の子と女の子を生んだが、あの桶狭間の戦いの後逆心した家康が岡崎で自立したので、人質交換で解放されるまで二年ほどの間駿府の松平屋敷から一歩も出られなかったという。
解放された築山殿はその後岡崎に行ったが、岡崎城には入れなかった。家康の生母於大の方が拒んだのか、家臣たちの反発があったのか、事情は分からない。
築山殿は家康が浜松に居城を移した後もついて行かず、息子の三郎信康が城主となった岡崎城に入ったと言うから、家康との夫婦仲はよくないのかも知れない。
「なあ、弥三郎よ、今宵の月は涙に顔を濡らしておるように見えぬか……」
「はい、泣いておるように見えまする……」
もののあわれなど分からないと思っている弥三郎だが、一緒に月見をした幼なじみたちの薄幸を思い出しながら見る月は切ないだろうな、と思った。
「そうであろう、しかしそれが分からぬ者もこの世にはおるのじゃ……なんとなくう、ぬるるかおなるつきかげをお、つれなきそでにい、いかがみるらんん……」
それは家康の事かな、と弥三郎は思った。家康の逆心が皆の運命の暗転に大きく関わっているからだ。
家康の逆心がなければ築山殿は駿府で安穏な暮らしを続けていただろうし、井伊直親や飯尾連竜も死なずに済んだ。泰朝もお田鶴の方も死なずに済んだはずだ。
築山殿と二人の子と交換されたのは鵜殿氏長と氏次だと聞いている。家康が上之郷城を攻め落として二人の父長照を討ち取った時に捕らえたというが、長照はお田鶴の方の兄で、二人はお田鶴の方の甥に当たる。その事もお田鶴の方が家康に降参しなかった理由なのかも知れない。
家康も元服するまで駿府にいて、氏真の屋敷にも出入りしていたと聞いている。氏真の幼なじみたちは家康の幼なじみでもあるとも聞いている。
桶狭間の戦いの後、家康はどんな気持ちで氏真に背き、遠江に攻め込んだのか。今となってはそれは誰も聞く事ができない問いだ。
弥三郎が氏真の周りの複雑な人間関係に思いを致していると、また氏真が昔を思い出して目に涙を浮かべながら、気になる歌を詠む。
「今宵の月見は昔の事ばかりを思い出させる。切ない事よ。わすれこしい、きみもこよいはおもいいでよお、ふるきやどこそお、つきもさびしきい……」
忘れていた君、というのは誰なのだろう? 恐らく月を一緒にみていた誰かなのだろうが弥三郎には知る術はない……。
何と言っていいか分からない弥三郎が困りながら目を伏せていると、氏真が涙を袖で拭いながらまた歌を詠む。
「何も知らぬ者が見れば、月しかないのに何を嘆いておるのか、と不思議に思うであろうなあ……さしむかうう、つきよりほかはあ、なきものをお、かこちがおなるう、なにをこころのお……」
「しかし過ぎ去った事はもはや取り返しはつかぬ。今宵の雲が風に吹かれて月を離れて流れて行くように、いつまでもこだわらずに光に目を向けねばな。おもいでのお、ありてすぎゆくそらのくもお、あやなしつきにい、たちなかへりそお……」
どうやら氏真が気を取り直したようなので弥三郎がほっとしていると、与兵衛が小走りでやって来て、弥三郎に来客を告げた。
八月名月十五首
八月十五夜 月前雨 月前虫
くもりなき四方の海山のなかはなる月をはいつのよはにたくへん(1―363)
村雨のひま〱(ひま)月の哀さもしつ心なくうき雲の空(1―364)
秌とても月はさひしき影もなし虫鳴やつす蓬生の庭(1―365)
月前草花 月前鹿 月前雁
草の原花に落たる月影を雲居にかへす萩のひとこゑ(1―366)
おく迄も月に隠ぬ鹿の音を物ふかく聞さよの中山(1―367)
雁かねの行ゑしるはの磯晴てさそな真砂の月は澄らん(1―368)
月前砧 月前興 月前恋
近くたつ夜の衣のいかなれば月の空にはすみ昇るらん(1―369)
山端に傾く数もおもほえす酔をすゝむるさか月の影(1―370)
何となくぬるゝかほなる月影を強面き袖にいかゝみるらん(1―371)
月前恨 月前述懐 月前懐旧
忘こし君も今夜は思ひ出よふるき宿こそ月もさひしき(1―372)
さし向ふ月より外はなき物をかこちかほなる何を心の(1―373)
思ひ出の有て過行空の雲あやなし月に立なかへりそ(1―374)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第9話、いかがでしたか?
いよいよ始まった諏訪原城攻めですが、武田方もしっかり備えを固めていたようで、なかなか落ちません。攻撃開始から一月以上持ちこたえます。
最近諏訪原城の遺構の調査はゆっくり進んでいるようで、今年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の考証担当小和田哲男教授も注目しておられます。
小和田哲男のブログ 「諏訪原城二の曲輪東馬出」
http://ameblo.jp/owashiro/entry-12131853337.html
二の曲輪東馬出からは武田時代の地層からは鉄砲玉が11個見つかり、ひしゃげた玉もあるそうで、激戦が想像されます。
「二の曲輪東馬出、って何?」
と思われた皆さん、諏訪原城の見取図はこれはいかがでしょう?
諏訪原城 Shizuoka城と戦国浪漫(静岡県のサイト)
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2103009/point.php
さて小和田先生、今年二月には諏訪原城など静岡のお城巡りツアーをされ、最近の投稿では日本城郭協会の「続日本100名城」選定に選定委員長として関与し、公表されたとのことです。
続日本100名城(PDFが開きます)
http://jokaku.jp/wp-content/uploads/2017/04/bf93ec3a1c5eefad5b2c6e528ade2f20.pdf
それでひょっとして、と思ってみてみたら、ナイスタイミング!
祝! 諏訪原城が続日本100名城に選定されておりました!
ちなみに今川関連では、静岡県では
興国寺城 伊勢宗瑞=いわゆる「北条早雲」の伊豆攻略拠点?
高天神城 徳川と武田の激しい攻防の舞台、今川家臣岡部元信らが籠城し壮烈に散る
浜松城 ご存知出世城、元々はもう一人の女城主「椿姫」お田鶴の方の曳馬城
愛知県では
吉田城 氏親以来の今川方の重要拠点。氏真時代は大原資良の居城
が加わっています。いずれも渋い城ぞろいです。高天神城のドラマは、氏真さんもいずれ関わることになるでしょう・・・。
ちなみにこちらは本家の日本100名城です。
日本100名城
http://jokaku.jp/japan-top-100-castles/
名城ぞろいです。氏真さん関連だと、
駿府城 言わずと知れた歴代今川氏の居城っで家康の隠居城。
掛川城 朝比奈氏の居城。
朝比奈泰朝が信玄叔父さんに敗れて敗走してきた氏真さんを受け入れる。
半年にわたる攻防の末、家康との劇的な和睦をして信玄を外交的に追い詰めました。
ですね。
さて、話を『マロの戦国II』に戻します。
諏訪原城攻めの最中に八月十五日を迎えた氏真さん、陣中にもかかわらず、十五夜を満喫したようで、十五首も歌を詠んでいます。
絶対に前線には出てないでしょうね。もっとも、氏真さんがうかつに出て死んでしまったら、それこそ徳川方にとっても大打撃でしょうから、させなかったことでしょう。
やはり氏真さんは後方において、シンボルとして今川方を揺さぶることに重きを置いたのでしょう。
この天正三年(1575)の十五夜はおそらく氏真さんの後半生で最も盛り上がった十五夜だったようです。他に十五首を詠んだらしい痕跡は、天正六年(1578)と思われる三首の詞書にしか出てきません。
他の十二首は氏真さんが満足しなかったのか、後世の人が選ばなかったのか、逸失してしまったのか不明です。
他の時期に十五首詠んだ記録はないようです。
この諏訪原城攻めの時は、
「もうひと頑張りすれば駿河を取り戻せるぞ!」
という思いがあって気合が高まっていた一方、
「戦場だからこそ、風雅の心を忘れたくない!」
という思いもあったのではないか、と思われます。
ちなみに天正六年(1578)は、後に書くようにのんびりしていた頃です。
そして、これもいずれ書きますが、ある事件が起こり、氏真さんは十五夜に歌を詠む機会が減ったのではないかと思われます・・・
それはずっと後のことですので、今回は天正三年諏訪原城攻めの最中の十五夜の歌を、今回投稿の十二首までざっと見てみましょう。
最初の一首「八月十五夜」では、「月をはいつのよはにたくへん(夜半に類えん)」と詠んでいますので、名月を見られたのでしょう。
続く2首目「月前雨」では「哀さ」「うき」とか詠んでいますが、やがて6首目まで興味は秋の名物の虫、草花、鹿、雁に転じているので、悲しい気持ちではなく、おそらく雲が出て雨が降り出したので、残念な気持ちを詠んだのでしょう。
7首目「月前砧」を詠むころにはまた月がきれいに見えたのではないでしょうか。
その時分、氏真さん、名月を見つつ、付近に住む女性たちが砧で衣服を叩いている音を聞いたようです。光沢を増すために、衣服を砧でうつそうですが、女性たちは夜そうしていたようです。
そこで氏真さん、空想を膨らませます。
この砧で「夜の衣」は黒さを増しているはずだ。だったら月はその黒さに隠されてしまうはずなのに、なぜ月は夜空に済んで昇っているのだろう。
この一首をひねり出して、氏真さん、いい気分になったようです。お酒もかなり飲んでいるらしくて、次の8首目は「月前興」の一首。
「おもほえす酔をすゝむるさか月の影」で盃と月の影の掛詞ですよw
ちょっと安易な感じがしますがいい気分だったんでしょうね。
しかし、また雲行きが怪しくなったか、空気に湿り気を感じたか。氏真さん、これをきっかけに泣き上戸モードになったようです。
9首目は「月前恋」。
何となくぬるゝかほなる月影を強面き袖にいかゝみるらん
気になる誰かを想像しつつ、月が涙に顔を濡らしているように見えるのに、あの人は袖をかかげながらつれない表情で見ているのだろうか、というわけです。
氏真さん、片思いか、片思いをしているのか?
この後もセンチメンタルな歌が続きます。
10首目は「月前恨」。
忘こし君も今夜は思ひ出よふるき宿こそ月もさひしき
昔なじみの誰かに思い出してほしい。諏訪原城周辺の宿も元々自分の領土だったので「ふるき宿」と考えて、懐かしい過去に戻りたくても戻れないさびしさを詠んだようです。
11首目も「月前述懐」。
さし向ふ月より外はなき物をかこちかほなる何を心の
ただ月ばかりを見ているのに、何を心に思って嘆くのか、と自問自答。悲しい思い出なのでしょう。
12首目は「月前懐旧」。この時また月の周りに雲が出たようです。
思ひ出の有て過行空の雲あやなし月に立なかへりそ
悲しい思い出は過ぎ去っていくものなのに、今夜の雲は過ぎ去るかと見えて、また戻ってきて月を隠そうとするなんて、道理に合わない事をする。立ち返らずに過ぎ去ってくれ。
・・・という感じで、氏真さん、お酒が入った後に雲が出たのをきっかけにして、メランコリックムードに突入した模様です。
どうでしょうか。今川氏真詠草って面白いと思いませんか?歴史的人物のある日の日常がここまで追える資料はなかなかないのではないでしょうか。
家康と氏真さんの諏訪原城出陣という戦国時代のかなり重要なイベントの、数時間の氏真さんの心境の変化が追える。
氏真さんはいろんなことを思いながら、天正三年の十五夜を過ごしたわけです。
七夕の時もそうですが、こういう生々しい史料を知ると知らないとでは、歴史や歴史研究に対する接し方も変わってくるのではないでしょうか?
実証史学は往々にして、現存する史料や歴史的大事件という点と点を、自分たちの思い入れを基に線にする作業に堕する危険がある。
今川氏真詠草のような、歴史的人物の日単位、あるいは数時間を「べったり」と追えるような資料を丁寧に読み解くことが、その危険を緩和するのに役立つのではないでしょうか。
学位や学界の注目、あるいは予算や職には結び付かないかもしれませんがw
さて、天正三年十五夜はまだ終わっていません。
まだだ、まだ終わらんよ!w
実はこの後サプライズゲストが登場したらしいのです!
これは結構重要な発見かも!?
サプライズゲストとは誰か!?
それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!
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こちらもご覧ください。
決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。