マロの七夕(二)マロの七夕
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
いくさの前にも風流は欠かさず。
宮中では「乞巧奠」とかいう儀式を執り行うとか・・・
北条の姫は良妻賢母。
一姫二太郎。
天の川を乗り越える鶴、天駆ける月毛の駒。
『源氏物語』の帚木の巻まで詠んでみた。
蚊がぷーん、と飛んできたらしいがこれも歌に詠む。
織姫と彦星は何百歳!?
氏真衆がいくさ支度に追われる中、今年も七夕の季節がやって来た。七月六日の事である。正式な七夕の祭りは七月七日の子の刻(午前一時)から始めるので、六日の夕方からその支度を始めるのだ。
弥三郎は氏真に呼び出されて七夕の祭りに付き合わされた。皆いくさ支度に追われる中、弥三郎も中兵糧や人足の手配で忙しい。氏真の遊びに付き合わされるのが暇人扱いされるように思えて弥三郎は面白くなかったが、主命であるから致し方ない。
「浜松におっても子らには今川家らしく都の公家にも劣らぬような節句の過ごし方を教えてやりたいのじゃ」
氏真はそんな事を言って夕方から小者たちにあれこれと指図して、祭壇をしつらえさせた。弥三郎は見物していればよいが、時間を無駄にしていると感じて内心苛立った。
赤、青、黄、白、黒の絹糸を掛け巡らした笹竹を庭先に立て、その前に台を据えて上に五色の絹糸の束と布、琵琶、琴、笛などの楽器を置くと祭壇らしくなった。香炉から立ち上る煙がかぐわしく広がって行く。その頃夕食を終えた氏真一家も縁側まで出てきてそれぞれに七夕の飾りを作り始めたので、弥三郎も側に控えて見ていた。
氏真は右手に筆を持ち、左手には梶の葉を取って何事か考えている様子だ。またいつものように歌を詠んで梶の葉に書き付け、笹竹に吊るすのだろう。
正室の春と娘の花は色とりどりの紙を切り裁縫道具を取り出して、笹竹に付ける紙衣を縫っている。
「これは父上様。花は京のおみやげの桜の小袖にしましょう」
「わたくしは母上様を作りまする」
どうやら二人は衣では飽き足らず、紙の人形をこしらえているらしい。
「五郎、そなたは和歌と書の道の上達を願ってその梶の葉に何か歌を書きなさい。百人一首から気に入った歌を書いたらどうじゃ?」
まだ六歳の五郎は氏真から筆と梶の葉を渡されていたが、母と姉が作る紙人形が気になって仕方がない様子だ。氏真から促されてもうわの空である。
「はい……ねえ、ぼくのは?」
「はいはい、姉上様のができたら作りますからね……」
不安そうに訊く五郎に春があやすように応える。
「なあ五郎、今日は何の日か存じておるか?」
氏真は五郎の興味を引こうとして話しかける。
「たなばたで、ござりましょう」
「七夕の日にはな、宮中では乞巧奠という儀式を行うのじゃ」
「きこうでん?」
「そうじゃ。織姫様は何が上手か知っておろう?」
「はたおり!」
「そうじゃ。織姫様にあやかって女子は機織りや裁縫が上手になるようお願いするのじゃ。機織りや裁縫だけではない。和歌、書の道、管弦、笛などの芸の上達を願ってこうして祭壇を設けてお星さまにお願いをするのじゃ。そなたも父のように上手に歌が詠めるようになりたいであろう?」
「……はい」
氏真は和歌の世界に誘導しようとしているようだが、幼い五郎の反応は鈍い。弥三郎は少しいい気味だと思った。乱世でござるぞ。上達を願うなら芸事より武芸や軍略が先でござろう。
「はい、できました」
氏真と五郎のそんなやりとりを見ている内に春は花の紙人形を作り上げていた。
「まあ、かわいい。わたくしの小袖と同じ桜色」
「次は五郎殿を作りますよ」
「わあい」
五郎は氏真の蘊蓄など忘れたように歓声を上げた。氏真はちょっと面白くなさそうだったが、さすがは北条家から来たお方様、氏真にも配慮を忘れていなかった。
「はい、五郎殿ができました。父上様からいただいた百人一首を手にお持ちですよ」
「わあ、ほんとだ」
「五郎殿が父上様のように文武両道の和歌の上手になりますように」
「はい!」
目を細めてそれを見ていた氏真が春に語りかけた。
「そなたたちが紙衣を作るのを眺めていたら、山科言継殿が下されたひいな張り子を思い出したぞ。懐かしいのう……」
弥三郎も京の都で氏真が言継に会った時二人が話していたのを聞いたことがある。言継は駿府で暮らしていた継母御黒木の方を訪ねて下向した事があるそうだ。弘治二年(一五五六年)から翌三年にかけての事と言っていたから、もう二十年近く昔の事だ。
氏真の祖母寿圭尼は権大納言中御門宣胤の娘で、その姉御黒木の方は寿圭尼を頼って戦乱で荒れた京を去り、その頃は平和で繁栄していた駿府で余生を過ごしていたという。
言継は久しぶりに御黒木の方に会いに下向したという事だったが、その時今川家からはちゃっかり朝廷への献金だけでなく自分への祝儀もせしめたらしい。その時にひいな張り子を駿府の女子たちに配って喜ばれたのだとか言っていた。
「あの時はそなたも言継殿からひいな張り子をもらって喜んでおったが、今ではそなたが子供たちに紙人形を作ってやるようになったのだのう」
氏真は古き良き時代の思い出に浸っているようだ。しかし今は昔を振り返る時ではありますまい、これからひと頑張りして駿河を取り返す時でしょうに、と弥三郎は思う。
「あの時いただいた張り子は武田に攻められて駿府から逃げる時になくしてしまいました。ほんに惜しい事……」
「おお、そうであったか……見ていよ、もうすぐ駿府を取り戻して見せるからな。その暁には言継殿もまた富士を見に駿府に下向したいと申されていた故、その時はまたひいな張り子を作っていただくとしよう」
「はい、その日を楽しみにしておりまする……」
さすがはお方様、亭主の操縦も一流だ。北条家の姫君は皆これ程に見事な心映えなのだろうか。うらやましい……。
「うむ。十日の内に出陣して駿河境の城を落とす故、駿府にまた近づくであろう」
「父上様はまたいくさに行かれるのですか?」
まだ十一歳の花が心配そうに尋ねた。無理もない、花は幼い頃武田に攻められて乗り物に乗る余裕もなく春に手を引かれて歩いて駿府から懸川城までを逃れねばならなかった。その上懸川では徳川の猛攻の中半年もの籠城に耐えなければならなかったのだ。いくさの恐ろしさは身に染みているだろう。
「うむ。じゃが案じるには及ばぬ。父は駿河の国を治める大事な身故、皆が守ってくれる。また勝って帰って来るぞ」
氏真は笑顔で答えたが、花は不安げな表情を隠さず、
「弥三郎、父上を守ってね」
と弥三郎に向かって頼んだ。
弥三郎は不意を突かれて、
「えっ、ええ、お守りいたしまする……」
とだけ答えたが、その受け答えを聞いた五郎は幼いながら弥三郎を睨みつけて強く念押しした。
「やさぶろう、しんでもちちうえをまもってね」
「えっ⁉ あ、いや……」
幼い五郎に思いがけない言葉を掛けられた弥三郎は取り乱した。こっちは殿のお蔭でなくした所領を取り戻したくて奉公してるんだ。三河者じゃあるまいし、誰が忠義面して死ぬもんか。子供のくせになんて事言うんだ、全く。
そんな思いが一瞬のうちに弥三郎の頭の中をよぎったが、横顔に視線を感じて振り向くと、春が無言で弥三郎をじっと見つめていた。顔には笑みを浮かべているが春の目は笑っていないので、弥三郎は一層慌てた。
「いや、ご心配ご無用! 我ら徳川方に守られておりまするし、いざとなれば家中の者皆で盾となり御屋形様をお守りいたしまする!」
「そうじゃ。皆で父を守ってくれる故心配いたすな。それにこの父も剣聖塚原卜伝の免許皆伝、いざとなれば近づく敵は皆叩っ斬ってくれる故、安心するがよい」
そんな他愛もない会話をしていると、夜空を一羽の白い鳥が横切った。
「おっ、あれは鶴であったぞ。うむっ、一首浮かんだ。おりひめのお、あうちょうそらにい、とぶつるはあ、のりてやこゆるう、あまのかわせをお……。どうじゃ、この歌は?」
「さすがは父上、織姫様と彦星様の間を隔てる天の川を鶴が飛び越えるとは、素敵なよいお歌にござりまする」
「うむうむ、そなたが今川家の姫らしく和歌が分かるのが父はうれしいぞ」
機転の利いた花の言葉を聞いて氏真は大変機嫌よさげに目を細めている。よく教え込んだものだ、と弥三郎も感心する。こうやって今川家はますます歌を詠んでばかりの家になっていくのか……。
「……うむ、もう一首浮かんだ。ほしあいのお、あきのつきげのこまはありとお、ゆるさぬなかのお、かよいじやうきい……」
「七夕の月を月毛の馬に見立てたのですね。でも許されない二人の仲の通い路なんて切ないお歌……」
「うむ、花よ、そなたもそんな切なさが分かる年頃になったか……うむ、また一首浮かんだ。あうことのお、ありとはみえてえ、はわきぎのお、ねさしもとおきい、ほしあいのそらあ……。花や、そなた、箒木は知っておるか?」
「源氏物語の巻の一つにそんな名前があったような……」
「そうじゃ。箒木は信州伏屋にあるという幻の木でな、遠くからは見えるが近づくと見えなくなるというのじゃ。それ故互いに遠くにいて会いとうても会えぬ織姫と彦星の仲を詠むのに使った……ああ、今宵も蚊がうるさいのう……」
祭壇の周りの灯火と氏真たちの身体を目指して蚊がぷ―んと羽音を立てて飛び回っている。人よりいいものを食べているせいか特に蚊が集まっているらしく、氏真は苛立たしげに腕を掻きむしっている。先ほどから自分には分からない和歌の蘊蓄にうんざりしていた弥三郎は内心いい気味だと思った。すると、
「うむ、蚊で一首浮かんだ。たなばたのお、くゆるおもいのかやりやきい、ふせやなりともお、あばらとやみんん……」
「さすがは父上、箒木のある伏屋を歌に詠みこまれたのですね」
「うむうむ」
何でも歌に詠んでしまう手並みは上洛の時散々見せつけられたが、弥三郎は感心を通り越して呆れてしまう。氏真はまた機嫌を直して梶の葉に詠んだ歌を次々と書き込んでいる。葉を七枚用意している所を見ると、七夕にちなんで七首歌を詠むつもりなのだろう。
どうやら今年も子の刻まで起きていて星に願いを掛けるらしいから、まだまだ先は長い。今宵も難儀なことになりそうだと思って欠伸をかみ殺していると、氏真が幼い五郎に声を掛けた。
「五郎殿、今年は子の刻まで起きて一緒に星に願いを掛けられるかと思うたが、もうおねむかな」
氏真はそう言うと祭壇に置いてある琵琶を取って来て、ばちを当てた。ぽろん、と優しい音が鳴った。
「あっ、びわだ!」
春の腕に抱かれてうとうとしていた五郎は琵琶の音色を聞くや目をぱちりと開いた。
「ぼくにもやらせて!」
いつもは蔵の奥にしまいこまれている琵琶が物珍しいらしく、五郎は触りたがった。
「ならばこれへござれ」
と琵琶を右手に持ち替えた氏真が胡坐をかいた膝を左手で軽く叩くと、五郎は喜んで氏真の膝に乗り、ばちを借りて闇雲に掻き鳴らし始めた。
「いやそうではない、こうするのじゃ」
と氏真が手を添えながら五郎に琵琶をそれらしく持たせて教えると、幾分それらしい音色を立て始めたが、五郎はすぐに飽きてまぶたが重くなった。
「どうやら今年もおねむじゃな」
氏真は春に向かって苦笑して見せた。
「五郎はまだ六つでござりまする」
春は微笑んで五郎を氏真から抱き取った。
「ではわらわは五郎と休みまする」
「うむ、そうしてくれ。風邪など引かさぬようにな。花、そなたはどうじゃ、眠くはないか? 無理をすることはないぞ」
「いえ、父上、わたくしは子の刻に願いを掛けとうござりまする」
「うむ、そうか」
弥三郎は毎年自分にも眠くないか聞いてくれないかと期待するのだが、やはり今年も聞いてもらえなかった。予想通りだがそれでも少しがっかりした。
春が五郎を抱いて奥に入るのを見届けてから再び庭先に目を向けると、香が燃え尽きたらしく、煙が途絶えていた。
「誰ぞ、香炉の香を入れ替えよ」
「へえ」
気付いた氏真が声を掛けると、老僕の与兵衛が進み出て慣れた手付きで香を入れ替えた。与兵衛は代々今川家に仕える小者だ。氏真が幼い頃から世話をしてきたので、氏真がしてほしいことは何でもできそうに見える。今川家ではいつの間にか氏真が
「誰ぞ」
と呼びかける時は与兵衛が応じるしきたりになっている。ただ、無口なので、何を言われても
「へえ」
としか答えようとしない。
再び香炉から煙が立ち上るのを見た氏真は、思い出したように口を開いた。
「おおそうじゃ。花よ、そなたあれなる香炉の名を知っておるか?」
「はい父上。宗祇の香炉でござりましょう」
宗祇の香炉はあの高名な連歌師宗祇ゆかりの名物らしいが、風流ごとにも道具にも興味のない弥三郎は細かい事は知らない。千鳥の香炉、百端帆の花入れなどと並んで氏真が秘蔵していた宝物だ。数年前信長の使いが来て千鳥の香炉と共に半ば強引に買い取っていったが、今年の春上洛して信長にお目見えして百端帆の花入れを献上した時、なぜか信長から返却された。弥三郎も随従したからよく覚えている。
「そうじゃそうじゃ。よう覚えておるのう」
氏真は娘の出来のよさにまた目を細めている。
「今宵は五郎にもこの香炉の事を教えようと思うておったが忘れてしもうた。またよい時に教えようと思
う故、そなたも覚えておいてくれよ」
「はい、父上」
しかし、こうやっていろいろと話しをして過ごしていても、まだ亥の刻(午後十時)にもならない。先の長さに弥三郎が心中密かに辟易していると、
「まだ亥の刻にもならぬ。子の刻まではまだ先が長いのう」
と氏真が言い出したのでどきりとした。
「織姫も彦星も年に一度の逢瀬が待ち遠しくて辛いでしょうね」
花は夢見る少女らしいことを言う。
「そうじゃな。しかしわずか一晩の逢瀬が終われば二人はまた離れ離れ。その時にはまた別れを惜しんで悲しまねばならぬのじゃ。我らごときが文句を言う筋合いではなかろうなあ……うむっ、そなたの言葉でまた一首浮かんだぞ。まちなやみい、わかれをおしみい、たなばたのお、おもいのほどのお、はなもみわかじい……」
「織姫様と彦星様の会えない辛さと別れの辛さの両方が偲ばれまする。それにつけても可哀そうな織姫様……織姫様はいつも涙をこぼしておりましょう」
「そうやも知れぬなあ。じゃがなあ、織姫は露の涙をこぼす事はあってもなよ竹のごとくしなやかに耐える強さがあると父は思う。それ故二人の固い契りは世々を越えて続いて行くのじゃろう……うむっ! また一首浮かんだ。おりひめのお、おもいのつゆもお、なよたけのお、おれぬやよよのお、ちぎりなるらんん……」
「露の涙をこぼしても彦星様との契りを守り抜く織姫様って素敵。織姫様もなよ竹のかぐや姫のようにお美しいのでしょうね」
「それはもう、星のように輝くばかりの美しさであろうなあ」
「わたくしも織姫様やかぐや姫のように美しくなりたい! ……でも織姫様ってお幾つなのでしょう? 昔からの言い伝えだから、もう何百歳のおばあさん!?」
「ははは、織姫も彦星も天人故星の命のように千年万年、いや永久の若さを保っておると思いたいのう。それ故二人は年に一度の逢瀬の夜はいつも祝言の夜の夫婦のように新枕を交わすのではないかな……うむっ! また一首浮かんだ。ほしあいのお、ただにいまくら、おいもせずう、いくよろずよのお、あきにかあらんん……」
「はあ、わたくしもいつか彦星様のような素敵な殿様に出会えるのかなあ……」
いつの間にか氏真の横に並んで座っていた花は、空想の中の運命の人の幻影を思っている様子で、氏真の左肩に頭をもたれさせた。
「うむ、間違いない。そなたはこの上なくよい若君に出会えると父は信じておるぞ」
氏真はそう言いながら花の肩を優しく抱き寄せた。
それを見ている弥三郎も満足した。殿は七首歌を詠んだ。これで帰って休める……。
弥三郎がそう思っていると、氏真から声がかかった。
「弥三郎、歌は七首詠んだが、まだ七夕の夜はこれからじゃ。花に都に上った時の事など物語して夜を明かそうではないか」
「え!?」
「まあ、素敵! 父上、弥三郎、是非話を聞かせて下さいな」
弥三郎は一瞬泣き顔になったが、瞳を輝かしている花に見つめられて気を取り直した。
そもそも国境では今この瞬間も徳川と武田の軍勢が命のやり取りをしているかも知れない。それに比べれば、七夕の夜空をのんびりと眺めて都の話に興じる事ができる氏真父娘も、それにつきあう自分も申し訳ないくらい幸せなはずなのだ。
自分たちも十日の内には諏訪原城攻めに加わる。その前の安穏な一時を噛みしめる事にしよう。
「そうですなあ、何からお話いたしましょうか……」
「そうじゃな、まずは浜松を出てからの道中から話そうではないか」
「御意……」
満天の星の下、氏真たちの天正三年の七夕の夜は都語りと共に過ぎていった。
七夕七首
七夕鳥
織女のあふてふ空に飛靍は乗てやこゆる天の川せを(1―342)
七夕獣
星合の秌の月毛の駒はありとゆるさぬ中の通路やうき(1―343)
七夕虫
七夕のくゆる思ひの蚊遣焼伏屋成ともあはらとや見む(1―344)
七夕草
待なやみ別をおしみ七夕の思ひの程の花もみわかし(1―345)
七夕木
逢事のありとは見えて箒木のねさしも遠き星合の空(1―346)
七夕竹
織女の思ひの露もなよ竹のおれぬや世々の契り成らむ(1―347)
七夕祝
星合の只新枕老もせす幾万代の秋にか有らん(1―348)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第7話、いかがでしたか?
いろいろありまして更新が滞っておりましたが、再開します。
さて前回駿河方面から戻った氏真さん、七月早々に次の歌を詠みましたね。
於閑居早秋を
またきより籬の竹に聞馴れてめつらしからぬ秋の初かせ(1―341)
前回も書いたことですが、「閑居」とか「めつらしからぬ秋の初かせ」とか、感動に乏しい歌です。いやむしろ、無感動をあえて詠んだといった方がよいでしょう。
思うように駿河奪回が進まないままに時間が過ぎる失意を詠んだかと思われます。
長篠の戦い直後、賎機山を歌に詠み、さらに駿河より東に攻め入って浅間神社や清見寺を巡っているので、駿府にも一時的にせよ立ち寄った可能性が大変高いです。
ですから、駿府よもう一度、と思いつつも一月ほど経つ内に期待が失意に変わったのでしょう。
「ああ、また前のように空しく時が過ぎるのかあ・・・・・・」
といった感じでしょうか。
しかし、今回取り上げた詠草では思う存分七夕を楽しみ、七首の歌を詠んでいます。内容もロマンチックなものばかりで鬱屈したところがなさそうです。
そこで七月初めに「めつらしからぬ」と失意を詠んだ直後に諏訪原城攻略の話が持ち上がったと推測されます。
氏真さん、家康が駿河奪回に本格的に動き出す気だと知って元気を取り戻し、いくさの前に風流ごとを楽しんでおこう、家族との時間を大事にしよう、と張り切って七夕を過ごしたのではないでしょうか。
この天正三年詠草の七夕の歌が、今川氏真詠草の七夕の歌の中で、最も精彩のある詠草と言えると思います。
天正三年今川家の七夕、どんな風だったのか?
残念ながらこの頃の今川家がどんな人々と交流していたかを知る手段が管見では見当たらず、推測するしかありませんでしたので、家族を中心としたものとして書きました。
戦国時代に窮迫した朝廷がどこまでできたか分かりませんが、本文で書いたように、宮中では七夕には「乞巧奠」という儀式を行ったそうです。
赤、青、黄、白、黒の五色の絹糸を掛け巡らした笹竹を庭先に立てる。その前に台を据えて上に五色の絹糸の束と布、琵琶、琴、笛などの楽器を置く。
織姫様に倣って機織りがうまくなるように、そして他の文芸もうまくなるように、という願いをかけ、梶の葉には和歌や書道の上達を願って歌や文字を書き記す。
氏真さんは七夕が好きだったようで、後の時代にも七夕の歌が散見されますが、今回が一番しっかりと七夕をしている印象があります。
この頃今川家復活の期待がかなり高まり、氏真さんも気合が入っていたのではないでしょうか。
読まれている歌も白鳥(鶴)やペガサス?(月毛の馬)が出てきたり、かなり乙女チックではないでしょうか。男たちの集まる宴で読む歌ではないような。
そこで、今回の七夕は織姫様のイベントでもあり、愛娘の花や正室の春に詠み聞かせるようにして詠んだのではないか、と想像しています。
そして面白いのは蚊やりの火を詠んでいるところ。現代のよう電気蚊取りもない時代、夜の屋外ではさぞ蚊がうるさかったでしょうね。
そんな生々しいことも歌に詠んでいるところに、氏真詠草のライブ感があります。
ところで、氏真さん、
「織姫と彦星は何歳!?」
という疑問に突き当たったようで、「幾万代の秋」に老いもせずに「新枕」を交わすのだ、と永遠の命と若さを保つ存在として二人のことを詠みました。
氏真さんは月を愛でて多くの歌に詠みましたが、今回の七夕でも星空に悠久の存在を思い浮かべるような、スケールの大きい発想を持ち合わせていたようです。
それが戦国乱世での貪欲さの不足につながった面もあるかもしれませんが、いわゆる「戦国大名」たちも、無神論や物質主義者ではなく、俗世のみに囚われない様々な視点や世界観をもって生きていたのではないか、ということを考えさせてくれます。
数多くの武将たちが深遠な仏教、禅の教えに大きな影響を受けていますから、彼らの内心を理解することが戦国史の理解に重要な役割を果たすと思います。資料もなく、とても難しい課題ですが。
さて、今回の詠草に感じた面白さについて。
七月初旬の今川氏真は駿河奪還がうまくいかず、失意を示していたが、七月七日にはそれを忘れたかのような七夕七首を詠んだ。
おそらくその背景には徳川家中からの駿河侵攻に関する計画の伝達があった。
とすると、その前後に家康やその重臣たちは浜松周辺でそうした評議をし、氏真にあった可能性も高い。
歴史研究はついつい大事件をつなぎ合わせる線を描きがちですが、今川氏真という「負け犬」扱いされている人物の挙動を明らかにすることが、大事件をつなぐ「線」(推測)の誤りを正す反証として機能することもあり得ると思います。
ぼくは『マロの戦国』と今川研究を通じてそういう「日常史」的観点から戦国時の重大局面をも照射することを目指しています。
さあ、氏真さん、いよいよ次回は諏訪原城攻略に向けて出陣します。
氏真さん、いったいどんな活躍をするのか!?
いや、そもそも活躍するのか!?
それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!
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決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
さて、こうして浜松に戻った氏真さんご一行、いよいよ武田との決戦に臨みます。
氏真さんご一行、いかなる戦いぶりを見せるのか?
『マロの戦国』次回もお楽しみに!
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。