マロの合戦(五)荒廃
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
駿府での氏真さんの微妙なポジション……。
駿府からさらに東へ!
清見寺の苦い思い出。
捲土重来……。
「これはまたひどく寂れたものだのう」
駿府の町に馬を入れた氏真は落胆してつぶやいた。七年前に武田に追われて以来夢にまで見た懐かしい街並みはほとんど失われていた。
「信玄入道が駿府に至った時街に火の手が上がっていたので先に入った馬場美濃守を咎めたと申します。美濃守は今川の街と財宝欲しさに武田が攻め込んだと後の世の人に言われるのは口惜しい故今川館も町も火を掛けた、と答えたとか。信玄入道は返す言葉がなかったと聞き申した」
と弥太郎が答えた。
弥三郎も付け加えた。
「その後岡部元信殿らが駿府を取り返してから武田に降参するまでの間もいくさ続きにござりました故、この街も一度は焼け野原となったのではありますまいか」
「そうであったな……しかし己がものにしても焼かないでおいてくれればよかったものを。一度失われたものは取り戻す事は叶わぬ故……馬場美濃守も名を惜しむばかりに下らぬ事をしてくれたものよなあ」
氏真はそう吐き捨てるようにぼやいた。
氏真衆は今川館跡に着いたが、今川時代の名残がどこにもない事に落胆した。
かつての今川館の壮麗な四脚門も白壁も失われて、粗末な木の門と板塀が館の跡地のごく一部を囲っているだけだった。
氏真衆は門内に入る事を許されたが、武田が番衆のために建てたと思われる粗末な長屋の一つを与えられただけだった。しかし引き連れている人数がこの長屋に収まってしまう上に、何一ついくさらしい事はしていないので文句を言えた立場ではなかった。
一方家康はかつて今川家当主の屋敷があったあたりに建っている仮ごしらえの陣屋に入った。家康が駿河の主のように陣取っているのは弥三郎にも分かる。
(家康は本当に殿に駿河を渡すのかな?)
弥三郎はどうしても気になって氏真に聞いてしまった。
「御屋形様は駿河復帰の件について徳川方から何かお聞き及びでしょうか?」
鎧を脱ぎ敷皮の上に座ってくつろいだ表情を浮かべていた氏真は短く答えた。
「何も聞いておらぬよ」
それだけ言うとごろりと横になり、付け加えた。
「果報は寝て待てじゃ」
そういうと肘を枕にして目を閉じてしまった。のんきなものである。
弥三郎はがっかりして弥太郎を振り返ったが、弥太郎はあらぬ方を見て知らぬふりをしている。
果報は寝て待て、か……だめだこりゃ。
仕方がないので弥三郎も長屋の一角を見つけて横になり目をつぶった。
翌二十八日、徳川勢はさらに東に進み、放火を続けて清見ヶ関まで来て止まった。氏真は途中思い出の場所に寄り道した。
「浅間神社も焼かれたのか。神垣も形ばかり、無慚なものよのう、うむっ!」
「おお、清見潟から見ると三保の松原が水面にも鏡映しに映って見えるぞ。うむっ!」
さすがに陣中とて歌を詠みあげる事はしなかったが、そんな事を言いながら思いついた歌を書き付けているようだった。
清見寺に着いた時、弥三郎がそっと氏真の顔色を窺うと氏真は渋い顔をしていた。やはり七年前の苦い過去を思い出しているのだろうと思われた。
七年前の永禄十一年(一五六八年)の師走に武田信玄が駿河に攻め込んで来た時、氏真は清見寺に本陣を置いて迎撃しようとしたが、味方が不意に雪崩を打って潰走したのだ。
弥三郎も本陣にいたがひどい混乱ぶりだった。
「朝比奈殿、ご謀反!」
「庵原殿、逆心!」
と味方からひっきりなしに注進が届いたが、謀反したはずのその朝比奈信置が氏真の本陣に合流したいと言ってきたり、逆心したはずの庵原忠胤が自ら本陣にやって来て瀬名氏詮の逆心で後退せざるを得なくなったと訴えたり、誰もが違う事を口にしていた。
朝比奈信置や瀬名氏詮など重臣の多くがその後実際に武田方についたが、あれは異常だった。前々から信玄に内通していたのなら今川方に襲い掛かってもよさそうなものだが、彼らの大半が氏真の本隊と一緒に駿府まで逃れて来たのだ。
重臣たちに調略の手を伸ばしておいて、互いへの疑心暗鬼に陥らせるような武田の謀略があったのだろう。
あれからずっと流浪の日々だったが遂にここまで戻って来る事ができた。徳川がこのまま武田を駿河から追いだしてくれればよいな、と弥三郎の胸は期待で膨らんだ。
しかしそう調子よく事は進まなかった。氏真が徳川の評定に呼び出されると、家康が申し訳なさそうに告げたのだ。
「氏真殿、これより浜松に帰陣する事に相成り申した」
聞けば徳川勢の東進を知って北条が駿河の武田勢に援軍を出す動きを見せているらしい。
「我らに北条の大軍と戦う備えはござらぬ。それ故此度は残念な事ながら、一旦兵を納めて捲土重来を期す事といたしたい」
「……いたし方なき仕儀と存ずる」
正室春の実家が裏切り者の武田のために援軍を出すとは。その不条理に氏真は胸がつかえる思いであったが、為すすべはない。
徳川勢は清見寺で一宿した後浜松への帰路に就いたので氏真衆も従った。途中駿府でまた一宿できたのはせめてもの慰めである。
氏真衆は前回と同じ長屋を与えられたが、その翌日駿府を去る前には長屋を打ち壊して行くようにと徳川方から指示があった。
「敵方が建てたものとはいえ、駿府で家を壊すのは嫌なものじゃのう」
弥三郎が不機嫌そうに大槌で長屋の木壁を破りながらそう言うと、
「しかし、ここに御屋形様がお戻りの暁にはここにある建屋は全て打ち壊して立派な御殿を建てまする故、同じ事でござりましょう」
と弥太郎は木槌を振るいながら応じた。弥太郎はいつも前向きに物事を捉える。そういう考え方もあるな、と弥三郎は思った。
「そうか。そう考えれば気が楽になった。弥太郎殿、ありがとうござる」
駿府を出て浜松に帰る途中の氏真も気楽に見えた。宇津ノ谷峠を通る時には、しばらく来られないからと名物十団子を買い、家臣たちにも買い与えて馬上食べながら歌を詠んだりした。
駿河境を出る時、氏真は富士を振り返った。
「おお、朝から雲霧に隠れていた富士が顔を出したな。駿河から見る富士もしばらく見納めぞ……うむっ! 一首浮かんだ。くもきりのお、はれゆくふじのしらゆきはあ、ときしらねどもお、ときわかれけりい……」
弥太郎がキリリとした顔にしみじみとした表情を浮かべた。
「時知らねども、時別れけり……悠久の富士の白嶺の前で移り変わる人の世のはかなさが身に沁みるよいお歌にござりまする……」
「うむ、今は信長の世になった故な……」
氏真も気になる事を言うなあと思った弥三郎であった。
月日へてみし跡もなき故郷にその神垣そかた計なる(1―327)
清見かたはるゝ向ひの水底に影をならふる三保の松原(1―328)
玉鉾の跡ともみえす茂りつゝこゆるも迷ふうつの山哉(1―329)
雲霧の晴行富士の白雪は時しらねとも時わかれけり(1―330)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第4話、短いですが、いかがでしたか?
前回夢の駿府帰還を果たした氏真さん、徳川勢に従ってさらに東に進軍したようですが、駿府復帰はかなわず。数日後浜松へ戻らざるを得なかったようです。。
「神垣」はおそらく静岡市の浅間神社、「清見潟」から三保の松原を遠望できたようなので、徳川勢は長篠の勝利の余勢を駆って、清見寺辺りまで進出したのでしょう。
駿府に入った氏真さん、武田勢に放火された事を残念に思ったと思われます。
氏真さんは善政を心掛けた人ですから。誰も見ない自分の詠草に国の平和と民衆の幸福を詠んでいるのです。
祝言
国安く民豊かなる世なれとは君か為にも身をいはふ也(3-100)
これは長女の吉良義定との祝言に詠んだようなのですが、自分の幸せと共に、平和と民衆の幸福を願っているのです。
これは作り話ではなく、氏真さん自らが詠んだ和歌なのです。
清見寺といえば、氏真さんが永禄十一年(一五六八)十二月の信玄叔父さん侵攻の際、氏真さんが本陣を置いた場所として知られています。
この戦いでは今川家の二十一将が内応して軍を退いたので、今川勢は戦わずして崩壊した、と伝えられ、「神君」家康顕彰のために、氏真さんのアホさ加減が喧伝されてきました。
しかし、朝比奈信置のエピソードを考えると、もっと複雑だったかもしれません。寝返ったはずの朝比奈信置は氏真さんたちと一緒に駿府まで戻っているのです。
朝比奈信置は駿府に戻って囲炉裏に背を向けていた(背中あぶり)をしていた所を、氏真側近に見とがめられ、その後駿府にいた人質を取り戻して逐電した、という(真偽不明の)逸話があります。
朝比奈信置は信玄叔父さんの調略を受けて迷っていた所今川勢が潰走したので一旦駿府まで退いたら、疑われたのでやむを得ず武田方に着いた可能性があります。
今川勢は瓦解して戦いらしい戦いもせずに潰走した、という諸書の記録は、後に内応した今川諸将が確固とした内応の意志を固めていなかったことの表れではないでしょうか?
信玄叔父さんに内応したとされる二十一将も、朝比奈信置のように動揺しつつ今川方として出陣したが、誰かの内応、または武田勢が流した虚報に混乱して氏真と共に駿府まで後退した。
氏真はその有様を見て、動揺している軍勢では精鋭の武田勢とは駿府では戦えないと判断して掛川に「転進」、取り残された諸将が武田に従った、という印象があります。
一般の印象とは異なり、氏真さんは信玄叔父さんと旧臣家康の同時侵攻を予想していました。
氏真さんは様々なシミュレーションをし、第一の策として、北条の援軍も得て武田勢のさった峠で阻止、第二の策として、賎機山などを利用した駿府での防衛、第三の奇策としての掛川への「転進」まで想定していたようです。
そうでないと、三千人以上いたと思われる掛川籠城軍の兵糧を半年近く蓄えておくことができません。
小和田哲男教授が氏真の掛川籠城を「転進」と表現した背景にはこうした背景があるように思います。
さて、駿府から東まで攻め込んだ徳川勢ですが、駿河を確保するほどの準備はなかったらしく、氏真さんも浜松への帰還を余儀なくされたようです。
しかし氏真さんは駿河回復はあきらめていません。やがてまた駿河回復の志を抱いて徳川勢に従軍することになります。
しかしその前に気になるイベント発生!
それは何か!?
それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!
***********************************
決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
さて、こうして浜松に戻った氏真さんご一行、いよいよ武田との決戦に臨みます。
氏真さんご一行、いかなる戦いぶりを見せるのか?
『マロの戦国』次回もお楽しみに!
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。