マロの合戦(四)帰還
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
うさぎおいし彼の山。
そして……万感の思いをこの一首に。
翌日から徳川勢は織田勢と別れて武田の残敵掃討を始め、氏真衆も従軍した。
徳川勢は二十五日まで長篠付近の山々で落ち武者狩りを行った後駿河方面に進んで武田の支配地に入り込み、武田方とおぼしき村に火を掛けて回った。
氏真衆はというと手荒な真似はせず、道中の村々に氏真が徳川と共に戻って来る事を知らせて回るのである。
「皆の者聞くがよい。ここにおわすは駿河太守今川氏真様である。織田徳川勢と共に武田の奴ばらを打ち破り、これより駿府へ向かわれる。御屋形様が駿河を取り戻される日も近い故武田に同心せずその時を心して待つがよい」
弥太郎がキリリと引き締まった顔で声高らかに告げると百姓たちはうやうやしく平伏し、中には進物を差し出す村もあった。
弥三郎は荷駄と人足を気に掛けてさえいればよいので一層気楽だった。こういう時の弥太郎と一緒にいると、我らはやんごとなき今川家中ぞよ、と思えて自分までがキリリと引き締まった顔をしている気がして来る。
氏真は、と見ると上機嫌だが、微かに笑みを浮かべるに留めて威儀を正していたので、弥三郎も慌てて背筋を伸ばして威儀を取り繕ってみた。
徳川勢は勝ちに乗じて方々に放火したが、甚大な損害を被った武田方には到底反撃する余力はなく、籠城するのでなければ落ち延びるしかなかった。
徳川勢はさらに東に進んだ。
このまま駿河奪回を果たせるのだろうか?
そんな淡い期待を抱きながら氏真衆も家康の本陣の後について行く。
「おお、懐かしや、賤機山が見える」
氏真がため息と共に指差した先には賤機山が佇むのが見えた。五月雨の季節の湿った雲の下、南北に延びる山はつややかな緑に覆われている。
駿府のすぐ北にある賤機山はいざという時の駿府防衛の詰城であった。臨済寺を始めとする今川家当主の菩提寺を中腹に抱いていたが、どの寺も武田の放火で焼かれ、略奪に遭って荒廃していた。今川家中の者たちにとっては山遊びを楽しんだ思い出深い場所でもある。
「うむ、一首浮かんだ。めじたえてえ、くものおりいるしずはたのお、やまもみどりのさみだれのころお……」
「とうとう駿府に戻って参りましたなあ……」
弥太郎が泣かんばかりの面持ちで声を上げた。
「うむ……長い道のりであった……」
氏真も目を潤ませている。
(女々しゅうござるよ)
弥三郎はそう心中つぶやいて見たが、自分も目頭が熱くなるのをこらえられなかった。
氏真衆は懐郷の想いに浸りながら遂に駿府入りした。天正三年(一五七五年)五月二十七日の事であった。
五月十五日三州牛久保打着長篠後詰の
ほと毎日備ありて同廿一日甲州勢敗軍
廿五日迄山中さかし出すとて張陣廿七
日駿河筋動所々放火其ひま〱に
目路絶て雲のをりゐる賤機の山も緑の五月雨の頃(1―326)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第4話、短いですが、いかがでしたか?
何と氏真さん、ついに駿府帰還を果たしたようです。
今まで注目されてこなかったのですが、この後の詠草でわかる氏真さんの行程から、おそらくこれは事実です。
賎機山を詠んだ一首。視界を遮る雲は、人生の不安や、障害、武田という敵などの事でしょう。
賎機山は今川家にとって外敵から駿府を攻められた時の「詰の城」として機能することが期待されていましたが、名将信玄叔父さんは、氏真さんにその余裕を与えませんでした。
氏真さんはやむを得ず掛川まで「とんずら」して、現在に至るまで愚将扱いされ続けてきたわけですが、結果としては家康と和睦、さらには駿河回復の支援まで約束されるという、いわば「外交革命」まで実現したのです。
当時の人々は信玄叔父さんが元今川家の家来の家康と組んで氏真さんの今川を攻めたのにもびっくりしたでしょうが、家康と氏真さんの和睦にもびっくり仰天した事でしょう。
もし賎機山に籠城できていたら、愛娘早川殿の苦難にブチ切れていた相模の獅子北条氏康と信玄叔父さんの激突が見られたかもしれませんが、かえって信玄叔父さんの思うつぼ、今川家臣の内応で賎機山は落ちたのではないでしょうか。
ご存知の通り幼いころから疎まれた挙句廃嫡されそうになったので父信虎を追放し、家族愛なんて信じられない、悲しい信玄叔父さんです。
嫡男義信だって殺せるんですから、甥の氏真さんなんか捕えたら、もちろん生かしておかなかったことでしょう。
家康と和睦し九死に一生を得た氏真さんですが、義兄弟北条氏政が信玄叔父さんと同盟しなおして、「なかなかに……(時に遇わない自分が悪いのだ)」というあの辞世っぽい歌を詠むというハプニングはありました。
が、そこで赤ちゃんの五郎を産んだばかりの早川殿がブチ切れて舟を手配してくれたので小田原を逃れることができました.
多分それで気を取り直した氏真さん、かつての逆臣家康を頼るといういい根性を見せ、これが「ビンゴ!」でした。
今川氏真や今川家滅亡について書いている諸書は、掛川開城をもって「大名としての今川家は滅亡した」と書いているのですが、それは家康死後家康を「神君」として顕彰したいばかりに氏真さんを暗愚で享楽的で怠惰な暗君として貶めたい、徳川御用達史観に引きずられていると思います。
その後も史実の氏真さんは駿河回復に向けて想像以上に精力的に活動しますから。
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』読者の皆さんは、天正三年(一五七五)に氏真さんがうきうきと上洛し、ものすごい勢いで京都観光しまくった挙句信長も味方につけ、朝廷の支持を受けて「上様」になりたい信長「と」蹴鞠をしたことをお分かりですね。
そして、苦難に耐えて地道に歩み続けた結果、氏真さんは懐かしい賎機山の鮮やかな緑を再び見ることができた。今回の歌の「五月雨」は氏真さん主従の涙のメタファーじゃないでしょうか。
そしてその後も氏真さんは駿河回復のために頑張るのです……というと言いすぎですが、歌を大いに詠みつつ頑張ってます。
さて、駿府に入った氏真さんご一行を待ち受ける運命は?
それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!
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決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
さて、こうして浜松に戻った氏真さんご一行、いよいよ武田との決戦に臨みます。
氏真さんご一行、いかなる戦いぶりを見せるのか?
『マロの戦国』次回もお楽しみに!
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。