マロの合戦(三)決戦
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
いよいよ決戦の舞台へ!
おじけづいたあいつ!?
今も昔の城だけど・・・。
キリリと引き締まって大手柄!
盟主誕生の瞬間。
氏真衆は五月にはいつでも出陣できるよう支度を整えていたが、肝心の信長が動く様子がないまま十日が過ぎてしまった。
「信長殿はいつ出陣されるのであろう? 何かお聞き及びであろうか?」
氏真は信長の動静を家康に尋ねて見たが、家康も浮かない顔で答えるばかりであった。
「当方からも再三援軍の催促をしており申すが、いまだいつとはお知らせいただいてはおり申さぬ。ただ帰って来る使者は皆信長殿から我に秘策あり、しばし時を待たれよ、と言われており申す」
信長は信玄在世時武田に対しては低姿勢で臨んで進物や縁組みで懐柔に務め、衝突を避けてきた。信玄上洛の時も勝頼による高天神城攻撃の時も積極的に武田と戦う姿勢が見られなかったから、天下の人は信長が武田を恐れていると見ていた。氏真は信長から直接決戦の意思を伝えられていたから、まさかとは思ったが、それでも一抹の不安は拭えないでいた。
その信長が重い腰を上げたのは五月十三日の事だ。だが信長出陣の知らせは熱田神宮への戦勝祈願の知らせと共に伝わったため、徳川家中に歯がゆい思いをさせた。
「ようやく出陣したと思ったら怖気づいて神頼みか」
信長の熱田神宮への戦勝祈願は桶狭間の戦い以来噂に聞かれなかったのである。
しかしともかくも信長の出陣に合わせて徳川勢八千も出陣し、氏真衆もこれに従って十五日に東三河の牛久保城に入り、十六日に織田勢三万と合流した。
氏真衆は足軽まで入れても十数人の兵力に十人足らずの人足が従うだけの小所帯だ。蒲原助五郎が采配を取り、弥太郎が使番、弥三郎は荷駄と人足の指図を任された。氏真衆にはいくさでの活躍は期待されていない。氏真が後詰として軍勢に加わっている事を示して武田勢の中にいる今川旧臣の戦意を削ぐ事ができればよいので気楽なものだった。
牛久保城はかつて今川方だった牧野氏の居城である。牧野氏は桶狭間の戦いの後離反した家康に同調せず数年間家康に抵抗を続けたが、遠江の内乱によって氏真が支援の手を差し伸べられず三河で孤立するに至って家康に従属し、現在に至っている。
今ではその城が今川の縁戚だった武田と戦うために敵だったはずの織田と徳川の軍勢でごった返している。氏真は戦国の世の有為転変を感じざるを得なかった。
牛久保城では長篠城から武田の囲みを決死の覚悟でくぐり抜けた鳥居強右衛門の話で持ちきりだった。強右衛門は岡崎城に着陣した信長に会い、武田の猛攻にさらされた上に兵糧を焼かれて飢えに苦しむ長篠城の窮状を訴え、一刻も早い援軍を求めたという。
信長がその訴えを聞き届け、強右衛門は大役を果たした事を賞賛され休息を許されたが、けなげにも自ら援軍の朗報を伝えたいと答えてそれを断った。強右衛門は再び長篠城に戻ろうとしたが果たせず、十六日に武田方に捕らえられた。
武田方は強右衛門が城方に援軍は来ないと伝えれば助命すると持ちかけ、強右衛門は応じるふりをして城に声が届く所まで引き出された。しかし強右衛門は援軍が来る事を大音声で伝えて城方を励まし、武田方の怒りを買って命を奪われた。
織田徳川の軍勢は翌十七日に牛久保城を出て、長篠城救援に向かった。その前に評定が開かれ、氏真も招かれた。氏真ができる事は何もなさそうだが、ともかくも席に着き、弥三郎と弥太郎も後ろに控えた。
信長を始めとする諸将が集まるとまず家康が口を開いた。
「武田は長篠城の南にある鳶ヶ巣山に付城を築き、勝頼は長篠城の北医王寺に本陣を構えており申す。我らは長篠の西一里半ばかりの所にある設楽原に陣取っていくさを仕掛け、武田を引き出して討つべきと存ずる」
信長が続いて口を開いた。
「我らは多勢なるを隠し、ひたすら鉄砲にて武田をあしらう事と致したい。そのために方々から鉄砲を集め、馬防ぎの柵木を持参させ申した」
「では我が軍勢にて鉄炮の間合いまで敵を引き付け追い詰め申そう」
「さすがは家康殿、天晴れなる心意気である」
ここまで聞いて氏真にも信長の考えが分かった。孫子の兵法で言う所の「卑にして之を驕らす」というわけだな……。出陣の遅れも熱田神宮での戦勝祈願も、鉄炮や柵木の調達あるいは純粋な戦意高揚といった他の理由はあったとしても、勝頼に信長の戦意の乏しさを印象づける事を狙っているのだ。
兵数を少なく見せた織田勢を柵の中に籠らせ徳川勢に攻撃の主役を任せる方針には自軍を温存しようとするずるさも垣間見えるが、織田勢が戦意に欠ける烏合の衆で徳川勢が主力と見せ、勝頼が三方ヶ原の大勝の再現をしたいと言う気にさせる事を狙っているのだ。そうして徳川勢を餌におびき寄せて鉄炮の伏兵で武田方を仕留めようというのだろう。
しかし一度目はともかく、武田が都合よく何度も猪突猛進を繰り返して繰り返し鉄炮を食らいに来てくれるものかどうか……。勝つべからざるは我にあり、勝つべきは敵にあり、であったか……。その事には誰も触れないまま評定は終わり、信長の策が依然武田の誤算に依存している事を強く感じつつ氏真は席を立った。
織田徳川勢三万八千は十八日に設楽原に至った。設楽原のやや西を南北に流れる連子川を堀としてその西岸に陣を取り、徳川勢が南側に布陣して家康はそのすぐ後ろの弾正山に本陣を置いた。織田勢はその北側に布陣し、信長は家康のはるか後方の極楽寺山に本陣を置いた。前面には柵を三重に構えた。
氏真衆は後詰としての氏真の存在を敵味方に知らしめるために、弾正山の中腹の家康の本陣近くに布陣するよう家康の沙汰があった。弥三郎と弥太郎は数年ぶりに今川の二つ引き両の旗印と赤鳥の馬印を見上げた。
「いよいよ武田との無二の決戦でござるなあ……」
弥三郎が感慨深げに言うと、
「誠に、腕が鳴り申す」
と弥太郎も応じて戦意旺盛なところを見せた。氏真は笑って、
「此度は武田をおびき寄せて仕留めるのが我らの策故盲進は許されぬ。マロがよいと言うまで前に出てはならぬぞ。味方が武田を鉄炮で散々に撃ちすくめた後に追い打ちに加われば功名の機会があるはずじゃ。それまでは辛抱するのじゃぞ」
と言い渡した。弥太郎は内心うずうずしているようだがその想いを押し殺して
「御意」
と言うばかりである。
十八日には早くも織田と武田の支隊の間で小競り合いが起こった。勝頼も織田徳川勢の到着を知ったらしく、二十日には連子川東岸に主力を移して、両軍はわずか数町の距離でにらみ合う状態になった。長篠を囲む兵を残してやってきた武田勢の兵数は一万数千ほどに見えた。織田方ができるだけ兵を隠して布陣したとはいえ、武田勢は明らかに小勢である。それにも関わらず意気軒昂な様子が弾正山中腹にいる氏真たちにも見て取る事ができた。
決戦を控えて二十日の夜に再び評定が開かれた。酒井忠次が発言の許可を求め、許されると信長に向かって一策を献上した。
「明日の合戦では連子川を挟んで戦う事になりましょうが、別に一手を仕立て鳶ヶ巣山の砦を攻め取って長篠城の囲みを解き、さらに背後より攻め掛かればお味方の勝利は益々磐石になろうかと考えまする」
「なるほど、長篠を救いさらに勝頼の背後を脅かして兵を割かせるもよし、逆に窮鼠となって前に出て来るのを仕留めるもよし。我が軍勢から鉄炮を五百与える故存分に手柄せよ」
「ありがたき仕合わせ。この忠次、天地神明に誓って武田の奴ばらを蹴散らしてご覧に入れ申す」
「うむ。積年の鬱憤、明日の一戦にて晴らしてくれようぞ」
「御意!」
忠次は信長から託された鉄炮五百と徳川の手勢二千を従えて戌刻(午後八時)頃密かに鳶ヶ巣山に向かって出立したようであった。
明けて五月二十一日、徳川勢の一部が早朝から武田に戦いを挑んだ。忠次らの鳶ヶ巣山攻撃から敵の目を逸らし、自軍の正面に武田勢を誘致する事が目的である。
氏真たちは弾正山の中腹から文字通り高みの見物である。見ていると、徳川方に川向かいから鉄炮を撃ち掛けられた武田勢も弓鉄炮で応戦して小競り合いが始まった。徳川方の中には連子川を渡って戦う者もいるが、武田の備えは堅く、押し戻される。
やがて武田方に反攻の動きが出てきて、いくつかの隊が前進を始めた。一旦攻めかかった徳川の先手は連子川の西へ次第に退いて行く。
東の空を見やっていた氏真が声を上げた。
「あれ見よ、どうやら鳶ヶ巣に山の砦は落ちたようじゃぞ。長篠は助かったな」
確かに鳶ヶ巣山の方面から煙が上がっている。兵たちが歓声を上げ、味方に小さなどよめきが起こった。一方の武田はどうかと見てみると、背後の煙など意に介する様子もなく滞りなく前進を続けている。
「剛強な武田らしく兵を割いて手薄になったはずのこちらの本隊を討てばよいと考えているのであろう」
氏真の言葉に弥三郎も弥太郎も助五郎も頷いた。
やがて具足も旗も赤一色の一隊が連子川を渡って徳川勢に向かって突撃する態勢を整え始めた。武田の名将山県昌景率いる名高い赤備えである。
それまで聞こえていた織田徳川方のざわめきは潮が引くように収まり、三万数千いるはずの軍勢が息を殺すようにして鳴りを潜めた。武田を挑発した徳川勢の一隊は馬防柵の後ろまで退いてこれまた息を潜めて武田勢を見守っている。
数瞬の間緊張に満ちた沈黙が続いた後赤備えは歩騎入り交じって徳川勢に向かって突撃を開始した。凄まじい喊声は弾正山から見ている氏真たちにも届いた。
遠くから見ているだけでもその威圧感には相当なものがあるが、その突撃を受ける徳川勢は三方ヶ原で武田の猛威を身を持って知っているから、並々ならぬ恐怖を味わっているはずであった。弥三郎や弥太郎は緊張と共に眼下の両軍を見守ったが、氏真は何かを待つ表情で弾正山の頂上を時折見上げていた。
赤備えが柵から二十間以内に迫り、徳川勢の喉元に食いつくように襲い掛かろうとした時、弾正山の頂上に合図の旗が上がった。それを見た氏真は急いで振り向いて下を見た。柵の後ろに潜んで待ち構えていた数え切れない銃口が火を噴いたのが見えた。
ばちばちばちばちっ!
激しい銃声が耳を打ち、それと同時に武田の歩騎がばたばたと倒れた。生き残った人馬が恐怖と混乱に襲われるのが見て取れた。
武田の赤備えは信長が弾正山の麓に集めた千数百の鉄炮隊が作り出した死地に陥った。はるか後方の極楽寺山に本陣を置いたはずの信長は家康と共に弾正山にいて、旗で合図を送って指揮を取っているのであった。
歴戦練磨の武田勢の中でも精強を誇る赤備えの将士はそれでも体勢を立て直して徳川勢に攻め掛かろうとする。しかし弾正山に別な旗が上がると、鉄炮隊が再び銃撃を始めた。今度は間断なく銃撃を続けて赤備えが前進する隙を与えない。
赤備えは繰り返し柵を破り越えようと近づいたが途切れることなく続く銃撃を受けて将士の過半が倒れた。甚大な損害に耐え兼ねたらしく赤備えがとうとう退却し始めるとまた別な旗が上がって射撃が止み、今度は徳川勢が柵の前に出て一斉に突撃を始め、赤備えに襲い掛かった。
徳川勢は嵩にかかって手負いの赤備えに追い討ちをかけようするが、武田勢も天下の強豪、思い通りにはさせない。連子川を渡って後退しようと苦しむ赤備えを援護すべく別な備えが川を渡って来ていて、徳川勢に横槍を入れた。
崩れ立った徳川勢は再び柵際まで押し返されたが、そこでまた別な旗が上がり、一斉射撃が浴びせられて武田勢の兵馬がばたばたと倒れ、十二分に撃ちすくめた後に徳川勢に攻め掛かられて退いた。
武田方からはさらに数隊が挑んできたが、皆同じ事の繰り返しであった。
徳川勢の北に陣取る織田勢に向かって行った者たちの中には柵を破った者もあったが、三重に巡らされた柵全てを乗り越えた者は皆無のようであった。
一刻余りの間繰り返された突撃の後、武田の備えの大半が手酷い損害を受けたと見えたその時、まだ無傷と思われる一隊が武田勢の右翼後方を離れて東へ退き始めた。すると示し合わせたように左翼後方からも一隊が退き始めた。
勝頼の本陣はと見ると千に足りない兵数がしばらくしてから退き始め、これと前後して傷ついた前線の備えも退き色を見せた。
弾正山の頂上でも武田勢が退くのを見て取ったらしく、新たな旗が上がり、それに呼応して織田徳川勢の大半が柵を出て追い討ちにかかった。鉄炮隊が槍隊に守られながら前進すると、武田勢はその間合いに捉えられる前に退き始めた。織田徳川勢がそれを追って武田の殿に追いすがった。
その様子を見つめていた弥太郎は急いで氏真の前に進み、片膝をついた。
「今こそ追い討ちに加わる事をお許し下さりませ」
「よかろう。存分に手柄を立てるがよい。他の者も行きたければ弥太郎に従え」
「はっ!」
弥太郎は勇躍して数人の徒士と共に弾正山を駆け下って行った。
再び東を見下ろすと、眼下では戦場から逃れようとする武田勢、それを逃そうと決死の覚悟で踏み留まる殿軍、武田勢を一人も逃すまいと追う織田徳川勢、いずれも激しく動き回っていた。
弥太郎たちはなかなか戻らず氏真は心配になったが、出て行ってから二刻(四時間)ほど過ぎた夕暮れ時になって戻って来た。陣幕の外で出迎えた者たちの歓声が上がったのが聞こえた。どうやら手柄を立てたらしい。
弥太郎は陣に入るとキリリと引き締まった顔に満面の笑みを浮かべて一礼した。手には直垂を切り取って包んだと思われる敵の首級らしき物を丁重に抱えている。
「御屋形様、武田の宿老の一人内藤修理亮昌秀を討ち取りましてござりまする!」
「何!? それはまことか!?」
「御意!」
弥太郎は首を包んでいた直垂を取り、首を捧げた。氏真はそれを受け取った。
年の頃は五十過ぎと思われる武田の宿老にふさわしい従容とした面持ちの首であった。
「我ら武田勢を追って参りました所、殿として踏み留まっている一隊を見つけ、あれなる者どもの大将こそは武田の軍中でも心掛け見事な名将に違いあるまじ、大将を討つべしと敵味方を突き抜けて大将を探し申した。そこにこれなる武将がおり、名を聞くと内藤修理亮昌秀と名乗り申したのでそれがし一騎討ちを挑み申した。修理亮殿は二三合槍を合わせ申したがすぐに槍を下ろし、朝からの戦いでもはや力尽きた故自害する、この首取って手柄にせよ、と申されたので介錯つかまつり申した」
そう言われて首の切り口を見てみると、一刀の下に切り落とした見事な切り口だった。弥太郎の日頃の修練が窺われた。弥太郎の申し条に偽りはないと思われた。
「これは大手柄である。早速首実検に供えるがよい」
「御意」
追撃から戻った諸隊から討ち取った敵の首級が弾正山に届けられ、首実検が始まったのは夜に入ってからだった。
信長と家康の前には夥しい数の首級が集められ、武田の宿老山県昌景、馬場信春、弥太郎が討ち取った内藤昌秀を始め主だった者だけでも数十に上った。
いつもは感情を表に見せまいとしている信長もこの大勝利には得意の想いを隠せないらしく、こらえようとしてもこらえ切れない笑みが満面に広がっていた。
織田家中の者たちは長年の宿敵武田を痛破した喜びと歓喜で一様に笑顔だったが、徳川家中には笑顔はなかった。三方ヶ原の戦いを始めとして自分たちがあれほど苦戦した武田をここまで一方的に撃破した織田の圧倒的火力に瞠目し、畏怖さえ感じていたのである。
五年ほど前の姉川の戦いでは織田勢は小勢の浅井勢に本陣まで脅かされる始末で、わずか五千の徳川勢が二倍の兵を擁する朝倉勢を破ってようやく逆転したものだった。信長が上洛し、織田の領国が西国にまで広がった後も、徳川家中には織田何するものぞ、という気分が濃厚に残っていた。
しかし、いつの間にか織田は徳川の手の届かないほど強大な勢力に育っていた事を今日のいくさで思い知らされたのだった。
首実検が終わると続けて評定が開かれた。
「今日は数年来の鬱憤を晴らす事ができた。これ以上の快事はない」
信長がそう言うと、
「まこと胸の空くような大勝利にござりました」
と家康は応じたが、笑顔はなかった。
「忠次、鳶ヶ巣山砦の奇襲、見事であった」
信長は己が家臣に対するように忠次を労った。
「それがしのせし事など信長様のご威光のお陰にて、己が非力に恥じ入るばかりにござりまする」
忠次もまた信長への畏怖を覚えつつ、己が命運を握るのは家康ではなく信長であると気付いた様子で主は信長一人であるが如く答えた。
「であるか」
信長は満足げな表情を浮かべた。家康はただ無言で頷くばかりであった。
氏真は信長が家康の盟友から盟主になる瞬間を目の当たりにしたのであった。
「さてこれから家康殿はどうなさる?」
「我らは余勢を駆って残敵を片付けながら氏真殿と共に遠江駿河の武田方を攻めようと存ずる」
「よかろう。我らは兵糧が乏しくなった故ひとまず馬を納める。家康殿は存分に暴れられるがよい。しかし深追いは禁物である。今の勝頼は手負いの獣。死に物狂いの反撃で思わぬ不覚を取ってはならぬ。彼奴の軽挙妄動を待ち、弱った所を我らと共に一挙に叩くのが上策であろう。そう心得て手堅く攻められよ」
「御意」
まるで主従のようなやりとりであった。
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第3話、いかがでしたか?
今回とうとう武田との決戦と相成りましたが、信長軍の到着は遅れ、氏真さんの浜松帰還から二十日ほど経っていました。
ご存知の通り長篠城は累卵の危機にありましたので、家康を始め徳川勢はさぞいらいらしたと思います。
結果は織田徳川勢の快勝に終わったように信長は喧伝しておりますが、勝頼はちょっと劣勢だったような書状を遺しているようです。
昔は武田騎馬軍団対織田鉄砲隊、三段撃ちなどがもてはやされましたが、ご存知の通りいずれも現在では疑われています。
三段撃ちしたとしたら、どうやって号令を出すのか、という疑問が出ています。
もし全体に号令をかけるとしたら、指揮官の号令や太鼓など音声ではなく、今回書いたように旗なりのろしなり、視覚的情報が必要だったと思いますが、それも急に寄せ集めた舞台では難しかったでしょう。
全体指令としてはせいぜい一斉射撃、連続射撃、前進、後退、くらいのおおまかな合図しか出せず、詳細は各部隊への伝令と現場指揮官の判断に依存したのではないでしょうか。
長篠の戦での氏真さんの具体的役割は、不明です。氏真さんは「後詰」とだけ書いています。
氏真さんの兵力は最小で十人、せいぜい数百、両軍の今川旧臣にアピールするために軍議に加えてもらえたかもしれませんが、格別やることはなかったのではないでしょうか。
今川の旗を立てて存在をアピールするくらいだったのではないかと思います。
しかし、朝比奈弥太郎泰勝は退却する武田勢を追って内藤昌秀(昌豊)を討ち取る大手柄を立て、家康の目に留まりました。
この勝利で武田という最も恐ろしい敵を打ち破った信長は、いよいよ「上様」化していき、家康との間の書札礼も薄礼化していきます。
さて、この後氏真さん、武田勢の追撃に従軍しますが、ちょっと面白いことが起きたようです。今まで注目されてこなかったのですが、意外な事実です。
それは何か? それは次回のお楽しみ!
『マロの戦国II』、次回もお楽しみに!
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決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
さて、こうして浜松に戻った氏真さんご一行、いよいよ武田との決戦に臨みます。
氏真さんご一行、いかなる戦いぶりを見せるのか?
『マロの戦国』次回もお楽しみに!
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。