マロの合戦(二)湖上の語らい
『マロの戦国-今川氏真上洛記-』の続編登場です!
あの人と湖上の宴。
浜松に戻る。
優しいあの人が一度だけ怒った時。
そんな調子で唐崎までひたすら進んだが、さすがに徒の者たちは疲労困憊していた。具合のよい事に明智光秀の坂本城が目の前にある。下向の際は必ず立ち寄るように光秀から誘われていたから、氏真は弥太郎を使者に立てて坂本城での休息の希望を告げた。光秀からは快諾の返事があり、氏真は坂本城で光秀と再会した。
「氏真様、ようこそお越し下されました。今こそご運の開ける時、祝着至極に存じまする」
光秀は相変わらず温厚篤実な物腰で氏真一行を迎え、上洛した時と同じように舟の上での中食の振舞いをしてくれた。
舟の上で光秀は三河境の戦況を教えてくれた。
「武田勝頼の軍勢は四月六日に甲府を出陣して十九日に足助の城を開城させた後、二十一日に長篠城を囲み申した。長篠城には家康様が武田から寝返った奥平貞昌殿を城将に据えており申す。勝頼は餌に食らいついた塩梅にござりまするが、家康様も武田の鋭鋒は侮り難しと見て、我ら織田方の援軍を当てにしてしばらく静観するとの事。信長様は三日ほどの内にここ坂本まで参られて船で軍勢と共に琵琶湖を渡るためそれがしに支度をお命じになられ申した」
「西に三好を攻めれば此度は東に下って武田を討つ。東奔西走とは正にこの事にござるな」
「まことに……。この度はご上洛にも関らずゆっくりとお話しする暇もなく残念な事にござりました。武田に打ち勝ってそのような時を持つ事もかなえばと願うておりまする」
舟の上にてとかくする間に夕に至る
夕日影嶺のみとりにうつろひてくるゝかたゝの浦の閑けさ(1―299)
舟の行山田やはせの磯暮て泡津森は浮洲なりけり(1―300)
船上で振舞いを受けながら語らう内に日も傾いた。
「それがし四月の内に浜松に戻りたく存ずる故もうそろそろお暇致したい」
「お急ぎならば奥の島まで舟で渡って今晩はそこで泊まられるとよいでしょう。お名残り惜しゅう存じまするがまたお会いできるのを楽しみにしておりまする」
氏真は光秀に別れを告げ、一行は光秀の勧め通り奥の島まで渡って一宿した。それまでに氏真はまた次々と歌をひねり出した。
夜に入おくの嶋に着けふの海上にてみ
し所〱又書とめて後につゝく
よしあしの汀ひまなくえりたちてす引紐引にほの浦入(1―301)
鏡山よりてみむ影もほの〱と夕にうつる磯のしら波(1―302)
君か代の長良の山の松風に千年をたゝむ磯のさゝ波(1―303)
磯辺行舟や蘆間にむせふらむまたき初穂のはひく白波(1―304)
鐘の音は舟路のよそに漕暮て近きほ影やおきつ嶋守(1―305)
四月二十四日、早朝から舟に乗って琵琶湖の東岸に着くと氏真が指示を出した。
「此度の下向は先を急ぐ故ここからは馬乗りと徒の者は分かれて進むとしよう。弥太郎、弥三郎、そなたらはマロに続け。徒の者たちには無理せず道中を続けるようにさせよ」
氏真らに徒で従う者たちは昨日の強行軍に披露し切っていたので、歩馬分かれて下向するのを喜んだ。
氏真は弥三郎と弥太郎だけを連れて気兼ねなく馬を進めてその日のうちに不破関に入って宿を取ったが、道々歌枕を見つけては、
「おお、あれなるは近江富士と呼ばれる三上山であろう。うむっ、一首浮かんだ」
などと歌を詠んだのは言うまでもない。
夜をこめて出る程にやう〱海上あけわたれとも
さす所も見えわかす竹嶋といふ計幽に有
朝ほらけ見れは遥にうかひけり波もふしなき沖の竹嶋(1―306)
竹生嶋見えす多賀はあの山木と云
又こむとよゝをかけ置ちくふ嶋ねさし絶せぬ守りともから(1―307)
頼むより齢もおほき賀ひは祈る心に猶もかきらし(1―308)
三上山曇りの上にみゆ舟ともならひて出
冨士のねの雲に残れる面影をみかみの山の雨の曙(1―309)
いつれやは朝妻舟そ柴はこひすなとるわさのしけき行かひ(1―310)
その度ごとに弥太郎はうまいほめ言葉を思いついては氏真を喜ばせたが、和歌がよく分からない弥三郎にとってはうっとうしい限りだった。
しかし、京の都を出てからの道中の氏真が今までに増して歌を詠みまくっているのはどうしたことだろう。今川家は元々そう言う家だと思ってはいたが、上洛以来武田との戦いが近づいているのに氏真の歌へののめり込みぶりはひどくなる一方だ。床に入る前、弥三郎は相部屋の弥太郎に疑問をぶつけてみた。
「御屋形様はまた尋常ならざる数の歌をお詠みになられるが、何故でござろう? いくさが迫って気が昂っておられると歌を詠まれるのであろうか?」
「それもありましょうが、いくさとなれば歌を詠む暇もなくなる故今の内にできるだけ詠んでおこうというおつもりではありますまいか?」
「なるほど……」
弥三郎はそう言う見方もあるかとは思ったが、いくさも近い事だし、歌の事はしばらく忘れていくさ支度に専念してもらいたいものだと思った。
しかしその翌日の道中でも氏真の歌は止まらない。氏真は弥三郎にとってはどうでもいい事を見つけては、
「うむっ、一首浮かんだ!」
と歌を詠みあげ、それを聞く弥太郎が昔の歌や歌枕の事を引合いに出しては
「まことに良いお歌でござりまする」
と氏真の歌をほめ上げる。氏真に目の前で歌を詠まれる度にどうしたものやら受け答えに困る弥三郎には苦痛な道中だった。
さい山麓に舟を着る所々名所あり忘る
るさきにととまりにて書つくる
霞わけ志賀の汀に渡し舟かへさは山の霧間にそつく(1―311)
立よれは行きの汗もさめか井の水の白玉氷る計に(1―312)
夏草のあなたや小野の里人の笠のは計みえ隠行(1―313)
ほともなく老にける哉春草のもえし青のゝ道たとる迄(1―314)
行やらて涼む木陰の旅人や不破の関屋の跡しらすらむ(1―315)
伊吹山雪は消れは雲こりて夏さへはけし夕暮の空(1―316)
野を遠く山又遠く暮わたり伊せ路の嶺そ夕日残れる(1―317)
見るまゝに山本遠き夕煙尾張の海に塩やみつらん(1―318)
旅衣みのうき雨の暮かけて近くもあれな笠縫の里(1―319)
三人は雨に降られて美濃赤坂で一宿したが、道を急いで伊勢路を通り、尾張那古屋に入った。
雨強く降て一日逗留す赤坂の宿と云
出やらぬ草の庵の雨の日は猶半天に暮そはるけき(1―320)
三河に入ると遠方に黒煙が見えるなどいよいよ物騒な様子だったので、三人は馬を急がせて遠江に入り、四月二十九日に浜松の屋敷に着く事ができた。
氏真が玄関に入ると氏真の子供たちが駆け出して来て、正室の春は袖で目頭を押さえながら出迎えてくれた。
「殿、ようこそご無事で……」
春はこれ以上はないほどによき妻である。氏真が領国を失って流浪の身となっても見捨てずについて来てくれた。そのつぶらな瞳にいつも柔らかな光を湛え微笑んでいる。
春が氏真に怒りを見せたのは、一度だけ、北条と武田が再び同盟した後、武田信玄が氏真の命を狙って小田原に数多の忍びの者を送り込んだ時だけだ。心の折れかけた氏真は春や家臣の前で辞世のような歌を詠んでしまった。
なか〱に世をも人をも恨むまじ時に遭はぬを身のとがにして(遺―33)
何の方策もないまま自らを責める歌を聞いた者たちの間には、今にも皆で自害しそうな絶望的な空気が漂った。
春が氏真に初めて怒りを見せたのはその時だ。
「殿は項羽を気取ってこの子を殺す気なのですか。わらわは死にとうござりませぬ!」
小田原で産んだ赤子の五郎を抱き上げて見せて春は珍しく語気鋭くそう言った。それから春が皆を叱咤して船を手配させたので、氏真たちは小田原を退去する事ができたのだ。気を取り直した氏真は船上で家康を頼って浜松に向かう決断をして今日に至った。その愛情と貞節と献身に氏真は申し訳なく思う事がある。
「うむ、長い間待たせて済まなんだな。花、五郎、みやげは供の者が追っ付け持参致す故、もうしばらく辛抱するのじゃぞ」
留守居役を任せていた岡部三郎兵衛も出迎えた。
「御屋形様、無事のお帰り祝着至極に存じ奉りまする」
「うむ、三郎兵衛も留守居大儀であった」
「信長様も昨日岐阜城に戻られたと早馬で知らせがござりました」
「そうか。いくさ支度は整っておろうな」
「準備万端整っておりまする」
「よし。では祐筆の支度を頼む。武田方におる旧家中の者たちへの書状を書かせる故。此度は京にて連歌師や仏門の知り合いが随分できた故、手紙を託せる無縁の衆には事欠かぬ。めぼしい者にはどんどん調略の手を伸ばすぞ」
「御意」
側で聞いていた弥三郎は、氏真がただ物見遊山のためだけに名所巡りをして坊主や連歌師と遊んでいたのではない事にようやく気付いた。趣味と実益を兼ねておりましたか。
氏真は旅装を解くと夜遅くまで祐筆らに書状を書かせていたようだった。弥太郎は家康に氏真の帰着と上洛の内容を報告しに行き、弥三郎は出陣のための兵糧、武具などを確認してからようやく休む事ができた。
夜半より雨晴て早朝三屋のわたりを
して尾張奈古屋に着弥境目物さわかし
けれはあたりも見す下向卯月二十九日
軒近き竹の若葉も茂り合て又めつらしき庭の面かな(1―321)
あやめ草かりねとそおもふ五月雨のふるき軒もるよはの枕に(1―322)
都にて聞し初音は春なれと五月も稀に聞時鳥(1―323)
竹垣の外面の日影暮初めて匂ふもさひし樗さくかけ(1―324)
春の夜は思ひやりつる庭の面の若葉に霞む月の涼しさ(1―325)
『マロの戦国II -今川氏真合戦記-』第2話、いかがでしたか?
四月二十三日に京都を出立した氏真さんご一行、二十九日に浜松に戻ったと氏真さん本人が記しています。
途中琵琶湖上で「舟の上にてとかくする間に夕に至る」と気になる事を書いています。
何をしていたのか?
坂本城主明智光秀に船上で饗応を受けていた可能性があります。
薩摩の島津家久が、四月二十一日に上洛し、里村紹巴の世話になっています。氏真さんとニアミス、ひょっとしたら出会った可能性もあります。
この家久さん、五月十四日に紹巴に案内されて氏真さんと同じように志賀の山越えをし、その後光秀に船上で饗応を受けているのです。
光秀は舟をこぎまわらせて家久さんに坂本城を違った角度から見せ、その船にしつらえた三畳ほどの大きさの家で饗応をし、家久さんはいい気分で酔ったようです。
信長政権にとってまだそれほどの重要性はなかった薩摩の島津家の一族家久をこうして歓待しているのですから、氏真さんが同じように饗応を受けた可能性は高いと思われます。
二十九日に浜松に戻った氏真さんを家族が迎えた事でしょう。当時の氏真さんには正室蔵春院、吉良義定正室となる長女(十歳くらい)、そして後に範叙と名乗る嫡男五郎(六歳くらい)がいました。
本作では氏真さんと家族の生活ものぞいてみることになります。
駿甲相三国同盟発足の際結婚して以来、蔵春院はずっと氏真さんに従ってきました。北条氏政が武田信玄と同盟し、今川家との同盟を破棄し、氏真さんが小田原を退去さざるを得なかった時も、氏真さんについて行きました。
なか〱に世をも人をも恨むまじ時に遭はぬを身のとがにして
この一首はしばしば氏真さんの辞世のように言われますが、実際には小田原退去の時に詠んだようです。
しかし、前途を悲観して詠んだ辞世のようにも解釈できますね。「時に遭はぬ」という所は漢楚の決戦に敗れて壮絶な戦死を遂げた項羽の垓下の歌の一説「時に利あらず騅逝かず」を連想させます。氏真さんも死を覚悟したのかも知れません。
しかし、今回書いたように、氏政の仕打ちに腹を立てた蔵春院が舟を手配し、氏真さん一家は小田原を出て家康を頼って浜松へと移ったと言います。
では、氏真さんの本当の辞世は?
そちらはブログに書きましたので、下記をご覧ください。
決定版! 今川氏真辞世研究!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12221185272.html
さて、こうして浜松に戻った氏真さんご一行、いよいよ武田との決戦に臨みます。
氏真さんご一行、いかなる戦いぶりを見せるのか?
『マロの戦国』次回もお楽しみに!
お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
2017年大河ドラマは「おんな城主直虎」。
史実を踏まえつつ、大河ドラマと井伊直虎とその周辺に関するあれこれを「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら、上洛後武田との合戦に身を投じた氏真の日常に迫ります。